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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

翻訳と日本人の感性

2017年03月24日 | 随筆・短歌
 カール・ブッセの「山のあなた」という詩をご存じの人は多いと思います。私は高校の国語の時間に学びました。上田敏訳のこの詩は、日本人の多くの人が諳んじることの出来る詩として、有名ではないかと思います。

カール・ブッセ 「山のあなた」 上田敏訳

  山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
 噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
   涙さしぐみ、かへりきぬ。
 山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
※尋(と)めゆき 訳「尋ねゆき」 筆者加筆

 カール・ブッセはドイツの詩人ですから,原文とその訳は次の通りです。

Über den Bergen   Karl Busse 山のかなた カール ブッセ

Über den Bergen weit zu wandern 
山のかなた 果てしない遠くに
Sagen die Leute, wohnt das Glück. 
幸福が住んでいると人が言う  
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
ああ、そして私もみんなと一緒に行って
kam mit verweinten Augen zurück.
涙のあふれた目のまま帰ろう
Über den Bergen weti weti drüben,
山のかなた遠く遠く向こうに
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
幸福が住んでいると人が言う

 これは、ほぼ原語をそのまま訳したものですが、これを上田敏は日本語に訳すにあたり、古くからの日本の調べのように七五調にして意訳したのです。それが「海潮音」(かいちょうおん)に載っています。
 ※註「海潮音」は上田敏が1905年(明治38年)10月、本郷書院から出版した主にヨーロッパの詩人の訳詩集です。上記の詩やヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの ためいきの…」などは、今なお愛誦されています。
 
 沢山のヨーロッパの詩を訳した上田敏は、「果てしなく遠く」を「空遠く」「涙の溢れた目のまま」、を「涙さしぐみ」と訳すなど、とても日本的に情緒深く訳されています。とてもリズミカルですし、多くの日本人に愛され,本場のドイツよりも遙かに多くの人に愛されているそうです。
 これと同じく、大胆というか、全く違う訳詩として有名なのが、「庭の千草」です。これはアイルランド民謡の「夏の最後の薔薇」に、日本語詞:里見 義(ただし)(1824~1886)が「庭の千草」として訳したものです。

1 庭の千草も 虫の音も
  枯れて淋しく なりにけり
  ああ 白菊 ああ 白菊
  ひとりおくれて 咲きにけり

2 露にたわむや 菊の花
  霜におごるや 菊の花
  ああ あわれあわれ ああ 白菊
  人の操(みさお)も かくてこそ

 この詩と曲は、 日本人にはとても馴染み深いものです。元々はスコットランド民謡から採ったものです。元の詩はつぎの通りなのです。
The Last Rose of Summer
 夏の最後の薔薇    作詩 T・ムア(1789-1852)
            作曲 不詳(但しT.ムーアにより補作)
'Tis the last rose of Summer,
Left blooming alone;
All her lovely companions
Are faded and gone;
No flower of her kindred,
No rosebud is nigh,
To reflect back her blushes,
Or give sigh for sigh!

1)夏の名残のバラ 一人寂しく咲いている
  他の花々は既に枯れ散り
  近しき花も芽も消え失せた
  美しいバラ色を思い起こせば
  ただため息をつくばかり
   ※ 2・3番は省略します

 ここで私が驚くのは「夏の最後の薔薇」を純日本的に「庭の千草」という詞を当てはめた里見 義(ただし)の作詞能力です。薔薇は西洋ガーデンでは高貴な花の主役ですが、秋には当然枯れてゆきます。日本の秋の終わりに咲く菊の美しさや健気さは、日本人には、とても親しみがあり、ものの哀れを伝えるものです。見事な迄に日本的に訳し、しみじみと聞かせてくれます。現在活躍中の合唱グループの「フォレスタ」のファンですが、彼らの歌う「庭の千草」も素晴らしいです。
  何故か、私はこの「夏の最後の薔薇」の一番だけは、原語で歌えます。何処で覚えたか、たぐり寄せて見ますと多分高校の英語教師であった父が持っていた、手回し式「蓄音機」と長い針で聞くあの古い古いレコード盤のソプラノの歌だと思います。素晴らしい声でしたが、誰が歌っていたのか等は、不明です。もう長く廃家だった実家は、10年くらい前に家も土蔵も壊してしまいました。
亡父が集めたレコードは多種にわたり、こういった外国の曲も、宵待草等の日本の曲もあり、私達子供の遊び道具でした。
 言葉は魔物です。漢詩でも書き下し文に近い言葉で訳したものではなく、少し離れて訳詩者の心のままの表現が、原作の詩よりもストンと私達の心に落ちるものがあります。次の詩などはどうでしょう。
 ここでは、中国の唐時代の詩人「于武陵(かんぶりょう)」の詠んだ「勧酒(さけをすすめる)」という漢詩の現代語訳です。友との別れを詠んだものです。
※左から読んで下さい

勧 君 金 屈 卮
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離

(書き下し文)
君に勧む金屈卮(きんくつし)
満酌、辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生、別離足る

 (井伏鱒二の口語訳) この漢詩には、井伏鱒二が独自の解釈で口語訳をつけています。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 
 漢詩そのものを見て、書き下し文を読めば、普通はそれで漢詩の心が伝わり、心を打たれたりするのですが、井伏鱒二の独自の訳が、リズミカルで分かりやすく,最後の「サヨナラダケガ人生ダ}、と言われると何だか急に名残惜しく感じられて、私は一度で暗記してしまいました。井伏鱒二の訳そのものの文学性が心憎い迄に感じられます。
 漢詩は決められた語数で、しかも韻を踏まなければならず、「平仄(ひょうそく)」など決まりに従って書かれていて、とても制約の多い文学です。NHK学園生涯学習講座の「漢詩」の3講座を、一年半かけて全て学んびました。漢詩好きの私はその後も読み返し読み返ししましたし、好きな詩が沢山ありました。
 それを中国語の朗読で聞くと(朗読テープが付いていました)平仄(ひょうそく)の美しさが加わって、一層美しいのです。まるで音楽かと感嘆してしまいます。
 日本人は中国から漢字の「字形」「字音」「字義」を学んだのですが、字音の声調「(トーン)」を欠いたまま取り入れました。ですから、トーンを規定する平仄に従わずに読みますから、音楽のように美しい感性を伴った詩を感じ取ることは出来ません。
 しかし、日本人が漢詩を作る時は、韻を踏み平仄をきちんとあてはめていますから、その教養は実に見事です。私などは韻字韻目一覧表を探して読んで納得するだけで精一杯です。夏目漱石や子規などの詠んだ漢詩を見ると、実に感嘆しきりです。
詩吟でも漢詩は歌われますが、これはこれで又別の美しさがあります。
 美しいものを「美しい」と感じて、心が爽やかに豊かになることの幸せを思います。
 最後になりましたが、夏の終わりの薔薇を「庭の千草」という詩にした里見義も素晴らしいですが、「夏の最後の薔薇」は、省略した2・3番を加えると、それはそれで私達の年齢に近い人達には、心を揺さぶるものがあると感じています。
 花にちなんだ私の短歌を少しばかり拾わせて下さい。(何れも某誌・紙に掲載)

白き薔薇一輪活ければそれだけで救われてゆく五月の孤独 

活けられし紫陽花のように涼やかにあなたは生きていたのだけれど

藍深く抱きて静もる紫陽花に分かちてもらわん水無月の夢

束の間の命咲かせし冬の薔薇滅びの前の輝き持てり