ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「丁度よい」人生

2017年04月05日 | 随筆
 今年は桜の開花がやや遅いようで、季節が戻ったような気温の低い日もありますが、待ちに待っていた鶯の声が昨日やっと聞かれて、嬉しい思いをしています。
 考えて見ますと、大宇宙の中の地球という小さな惑星の片隅に住んでいるのですが、自分の住んでいる処の居心地がとても良いと感じて感謝しています。
 どんな美しい花でも必ず散る日が来ます。人間もせいぜい生きて120~
130歳前後といわれています。木々はある程度延びれば不思議にそれ以上伸びずに止まります。しかし、花が咲く樹木の寿命は、太陽の恵みや様々な条件から、計り知ることは簡単ではありません。DNAとは本当に興味深いもので、時折私の心を捉えて放しません。
 樹木には足がありませんから、「置かれた場所で咲きなさい」と、これは渡辺和子さんの仰るように、そこで精一杯の「樹命」を生きるしか方法がありません。簡単に移住することのできない私達も同じですが、矢張り命の限り置かれた場所を大切にして、しっかりと生きたいものだと思っています。
 私は自分の人生の分岐点に立った時に、自ら決断して選んだ、とハッキリ言えるのは、高校・大学の進学先を選んだ時と、職業を決めた時、結婚を決意した時、住むべき土地を選んだ時、退職の時期などでしょうか。
 そんな私の人生を振り返ると、人並みに様々な苦楽に彩られています。まるで左右とも断崖絶壁で、やっと一人が歩ける馬の背のような細い道の上を、踏み外すこともなく、良くまあ無事に歩いて来たと思ったり、まるで見えない糸に導かれるようにして此処まで来られたものだと思います。
 父母が亡くなって、遺品の中に見つけたある時期の父の履歴書は、父らしい几帳面な文字で綴られていました。この履歴書が必要だった頃の父は転機だったのか?と思うと、一見平穏に過ごして来たように思える父母の人生も波乱に満ち、一生という時間はとても重いものだと感じます。
 私達の来し方を振り返る時も、辛く苦しい時期もある中で、金子みすずのように「明るい方へ明るい方へ」と手探りで進んで来たのに、今此処にこうして文章を書いている平穏な日々があるなんて、誰が予想出来たでしょう。
 思えば全く別々の人生を生きて来た私と夫が、初めて出会ったのは、たまたま両方の家族を良く知っておられた方のお引き合わせによるものでした。
 こういうのをご縁というのでしょう。お見合いの席には、何時ものように私には母が立合ました。事後に、何時もは私の意見を尊重して、先に口出しすることの無い母でしたが、「良い人のように思った」と珍しく感想を述べました。私は引き合わせて頂いた瞬間に「あゝ私はこの人と結婚する」と感じたのです。それは全く瞬間的な、そして運命的な印象でした。私達は今でもこの時お世話して下さった方に、深く感謝をしています。
 幼少の頃、何故東京で小学校に入学して、戦後樺太から引き上げてふる里に戻った夫と、父の転勤時に生まれて、戦火を逃れて父母の故郷に戻っていた私が、紅い糸を引き寄せるようにして出会って結婚するに至ったのか、不思議というしかありません。離れて暮らしていて、逢うべくも無かった筈の二人が出会うということは、矢張りお引き合わせによるものであり、奇跡的です。
 更に遠く離れた処に職業を持っていて、別居生活の状態で結婚したのですが、運良く勤めを辞めなくて共働きが出来るようになったり、四年後の出産と時を合わせたように、田舎から義父母にも出て来て貰って、お陰で一日も育児に「お守りさん」を頼まずに、此処まで来られたのです。
 とんとん拍子に、と言う言葉がありますが、女・男と二人の子供にも恵まれて、六人の生活は、娘が東京の大学に入学する迄続きました。
 家族は年とともに減って行きました。先ずは義母でした。私が「そろそろこの先にある介護のために退職して欲しい」と夫に言われて、切りよく退職しました。まるで待っていてくれたかの様に、一年と僅か後に義母が倒れて、一ヶ月余りの入院の後に亡くなりました。
 私は長い間義父母に子供たちの世話をして貰いましたから、心ゆくまで最後のお世話をして送ることが出来て、少しは恩返しが出来たことを嬉しく思いました。
 もう口がきけない筈の義母が、真夜中に突然私の顔を見て「有り難う」とはっきり言って亡くなりました。全く信じられない事でした。こんな事もあるのかと義母のその一言がとても有りがたくて感動し、又感謝して今では私もそうありたいと願っています。家族や親戚も全員最後までにはお別れの時間が取れましたし、何だかこれも余りに出来すぎているような、看取りでした。
 残った義父も、ご近所に良い友達が居て、日々楽しかったようです。ある日私が付き添って病院へ行くのに、下着から新しい衣服に着替えてから突然倒れ、そのまま丸一日人工呼吸でしたが、遠い人達も会いに来られて、静かに息を引き取りました。年老いても何時も身ぎれいにしていた、義父らしい最後でした。
 夫は定年退職後の再就職を、是非と請われて「お断りしてくる」と出掛けた職場に「週三日という訳にも行かないでしょうし」と言った途端に「それでも良いです。」と云われて、とうとうミイラとりがミイラになって帰って来ました。
 そこで数年勤めて退職し、全くの自由人になって二ヶ月後に娘が急死しました。逆縁ほど悲しいことはありません。でも自由な身分になっていた夫は、心ゆくまで娘との最後のお別れが出来ました。この時間というのも全く不思議なことではありました。
 このような不運な中の幸運に、幾度か恵まれて生きて来ましたが、親にとっては逆縁ほど哀しいことはなく、今も毎朝先だった家族の遺影の並ぶ仏壇で、夫と二人読経するのが日課です。
 今年(2017年3月12日付け)の日経新聞の「文化」欄に「それぞれのかなしみ」と題してつぎのような文がのっていました。『日ごろはあまり意識しないが,人はつねに二つの時空を生きている。だが,日常生活ではその差を明確に感じることがなかなかできない。しかし、人生の試練に遭遇するとき、世が「時間」と呼ぶものとは全く姿を異にする「時」という世界があることを、ある痛みとともに知るのである。
 時間は過ぎ行くが、「時」はけっして過ぎ行かない。時間は社会的なものだが「時」は、どこまでも個人的なものだ。時間で計られる昨日は過ぎ去った日々のことだが、「時」の世界においてはあらゆることが今の姿をして甦ってくる。松岡 英輔』丁度3.11の東日本大震災の6年目の一日後の記事でしたから、この文章を読んで、止まった時の家族の顔を思い返して居られる人も多いと思います。
 娘が亡くなって19年が経ちました。以来折りにふれて私の目に残っている娘は、あの棺の中の穏やかな顔です。しかし、そういう「時」と違って日々生きて居る長い時間の中で、人々は皆努力しつつ何かを求め、苦しみ、喜びを繰り返しています。
 私が愛読しているスエナガアマネ氏のブログ「心の原風景ーー心の故郷ーー」(2017年3月14日)に次のような詩が載っていました。

 「丁度よい」
       藤場美津路作

 お前はお前で丁度よい
 顔も体も名前も姓も
 お前にそれは丁度よい
 貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
 それはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも
 悲しみさえも丁度よい
 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
 地獄へ行こうと極楽へ行こうと
 行ったところが丁度よい
 うぬぼれる要もなく卑下する要もない
 上もなければ下もない
 死ぬ月日さえも丁度よい
 仏様と二人連れの人生
 丁度よくないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時
 憶念の信が生まれます
 南無阿弥陀仏

 私はこの詩を読んで、何時も何かにとらわれている心が、安らいで行くのを覚えました。生きて来た自分の軌跡を肯定してもらったようで、それ以上でもなく、それ以下でもない私の人生の全てが、そのように「丁度良い」のだと気づいたのです。
 以前四国遍路に三回行ったと書きましたが、二回目の帰りに高野山奥の院へも行きました。その時、金剛峯寺の金堂に「小雨が大地をうるおすように、少しばかりの悲しみが人の心を優しくする。心配せんでも良い。必ず良い様になるものである。」と掲示されていました。それを読んだ時の感動と、「丁度よい」の詩が合いまって、私が生きて行く上での心のあり方を導いてくれています。

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