ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

才能豊かな友の死を悼む

2016年08月07日 | 随筆・短歌
 横山大観の桜を中心にした或るデパートの美術展に行ったのが、私と高校時代から仲良くしていた友人と、二人きりの最後の会でした。この友人は惜しくも今年2月に亡くなりました。もともとの持病だった心臓病の悪化によるものでした。
 思えばどのようにして、私達が仲良くなったのか、はっきりとした動機は忘れてしまいましたが、多分二人とも高校時代の教室では、教卓の前を常席としていて、そこで二人並んで授業を受けることが多かったからではないかと思います。
 後ろの席で授業を受けたのは、あらかじめ席決めがあった場合と、教師の都合でしばらく名簿順に並んだ時くらいで、自由な時は常に教卓の前が常席だったのです。後ろの席は、前の人の動きが気になって、授業に集中出来ません。真ん前だと誰にも邪魔されることなく、とても居心地が良かったのです。
 結婚してHさんになったその人も、きっと同じ気持ちだったのでしょう。選択教科もありましたが、特に三年になって、進学組で一緒になってからは、彼女と二人並んで授業を受ける事が多かったと思います。
 その人は無類の美術好きで、絵画が得意でした。卒業後の大学は美術学科へ進学して、中学校の美術教師になられました。
 生まれ持ったDNAは覆うべくもなく、一番前なので、教師はたいてい半分から少し後ろに焦点を当てて授業をしますから、最前列は目に入らず、彼女はノートの端端に、サラサラと上手い絵を描いたり、持ち合わせの10円硬貨や紙切れの端でさえも、ノートの下に置いて上からなぞり、硬貨の彫り型や紙の端も、格好なデザインの元になりました。私が感嘆する位、暇な時は何か描きながら授業を受けていたのです。
 美術家という人たちは、みなこのようにして、身近な何かを直ぐにデザインしたりする芸術的センスを持つものなのか、大学時代のクラスメイトにも、同様な才能を持つ人がいました。彼女はやがて名の知れたイラストレーターになり、現在はアメリカで暮らしています。矢張り彼女の机の中や一寸した物にまで、様々な絵が描かれていたものです。二人の学生時代は、ダブる処が大いにあります。
 高校時代の彼女と私は、その後別々の市で暮らし、お互いに様々な人生を生きて来たのですが、還暦を迎える頃になって、又彼女と折々逢う機会に恵まれるようになりました。 それは、皮肉にも彼女の病が仲立ちしてくれたものでした。心臓にペースメーカーを取り付けないと生きて行かれなくなった彼女が、私の住む市の病院で手術をし、定期検査や機械の交換に病院へ通うようになりました。高速バスで帰る迄の空き時間を利用して、私達は彼女が出て来る度に逢うようになりました。
 決まってあるデパートの前で落ち合い、デパートの画廊へ行き、絵や彫刻など折々の展示物を見ました。彼女は専門家だけあって、色々と私に絵画・彫刻・焼き物の見方など解説してくれました。画廊には毎回のように訪れましたし、特に彼女は何時もベレー帽をかぶっていましたから、展覧会に即売会が付いていたりすると、係りの人が彼女が専門家であることを察知して、近づいて来ることもたびたびありました。
 そのデパートで私はある程度名の知れた画家の絵を買った事がありました。何時もお世話になっていた女性が家を新築されて、私の家から遠いところへ引っ越されたのです。勤めの帰りは我が家から間もない処にアパートがあり、車で家の近く迄良く送って頂いていましたから、お世話になったお礼の新築祝いには、本物の絵が良いと判断してのことでした。私の財力では、小ぶりな絵画しか買えませんでしたが、有難いことに彼女の目利きが役立ちました。
 似たような絵でも、彼女はこちらが良い絵だと言い、その理由を解説してくれました。画家が違うとどちらが上か、同じ画家の作品でも、描くものの配置や、空間のあり方に可成り重みを置いて、彼女は見ていたように思います。私の芸術作品の目利きは無いに等しいものですが、今の私には彼女の影響は否めません。
 よく、良いものを見極める目が欲しかったら、本物の一流作品を沢山見ることだと言われますが、頷けることです。
 展覧会の後は、必ずホテルのレストランで食事をしました。私と夫が二人で街へ出かけて、食事の時に何時も使うレストランで、静かで上品で、楽しい雰囲気の中で、美味しい洋食を頂くにはもってこいのところでした。
 迷うことなく、何時も同じところに決めていました。同じようでもお料理に工夫があって、何時も新しい感じで楽しませて頂きました。
 彼女の子供さん達も成人されて、陶器を焼いたりしておられ、私も日常の器や飾り皿など分けていただきました。今は良い記念品になっています。ご主人も美術家でしたから、血筋から言っても当然と言えましょう。
 目の大きい優しい人でした。病に勝てず、とうとう立春から一週間を待たずに逝ってしまいました。やや近くに住む妹から知らせがありましたが、聞いたとたんに力が抜けてしまいました。私の年齢になると次々に先立たれる人が増えて、悲しく、また淋しいです。 知る限りその人がどう生きてこられたか、を思い出してみると、いずれもその人らしく、一生懸命頑張ったのだと思うようになりました。五十年六十年七十年・・・とそれぞれの月日を重ねると、矢張りその人らしい生き方があり、それぞれに良い人生を送って居られます。
 神様が与えて下さった芸術的才能を、彼女は早くから自覚して、大切に育て上げ、子供さん達へと受け渡して去って行かれました。彼女の人生に、私は精一杯の賞賛の言葉と、お礼の言葉を贈ります。

連れ立ちて大観の桜を見し時が永遠の別れか今朝訃報来ぬ

君逝きて眠れぬ夜に聞こえ来る最終列車のレールの軋み

友逝きて忌日の今朝の寂しさよ居住ひ正して侘助活ける (いずれも某誌に掲載)
 
我が良き友への鎮魂歌です。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高価な抗がん剤に医療保険は... | トップ | お盆を終えて »

随筆・短歌」カテゴリの最新記事