しあわせですか しあわせですか あなた今
何よりそれが何より一番気がかり
みんなみんな幸せになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに
これは私達夫婦の大好きな「さだ まさし作詞作曲」で「しあわせについて」という歌の一節です。今この曲が納められている「書簡集」というアルバムを聴きながら書いています。
つい先日のことです。夫が眼鏡を新しくしなければならなくなって、商店街の古くからの知人である眼鏡屋さんに、ウォーキング帰りに二人で立ち寄りました。
この眼鏡屋さんは、当ブログに何回か登場した、商売のお手本と言える誠実な方です。時計も商っておられ、修理に関しては優れた腕の持ち主で、小柄だけれどしっかり者の奥様と二人を相手に、たまたま日中でお客様の居ないお店の中で、話が弾みました。
やがてご主人のお父様が亡くなられた時の話になりました。この年になると、さだの歌にあるように、同じ年代の人達の関心は、「自分の病気と人生の重さと、取るに足らない噂話など」それが全てと言っても過言では無いでしょう。
ご主人の長兄が跡取りで、父親は日頃から病気をした事が全く無い人だったそうです。その頃は100歳まで生きて居れば、市からご褒美として10万円貰えたそうです。ところがその4ヶ月前に亡くなられて、あと少し生きていてくれたら、という話になりました。
「風邪かな」と診て頂いた時、医師から「喉頭がんが相当進んでいるから、もう長くは無い」と云われたそうです。
ところでその医師は、もうダメだと身近な人にも解るようになった日も、なかなか往診して下さらず、三回も現在の状態を説明に行って、「来て頂きたい」と言ったそうですが、「まだ大丈夫」と一度も診ずに断言して、来てくれませんでした。家族のイライラが極限に達したとき、やっとおいでになりましたが、来られて10分後に、スウッと息を退いて、そのまま亡くなられたというのです。「これぞ名医」と会話が大いに盛り上がりました。
現在の医療のように、沢山の管に管理されている訳でもなく、「昔の医師は死に時の推察が上手かった」と云う事に落ち着きました。
ところで、この長兄は、父親に日頃から親しく接して居らず、寝たきりになられても、それ迄一度も食事を食べさせてあげた事もなかったそうです。
ある日のお昼に、おかゆを一匙二匙と口に運んであげました。するとお父様は「旨い」ととても美味しそうに食べたそうです。その日のうちに容態が急変して、亡くなられたのです。儚い現世ですから、いつどういう別れがあるか解りませんが、最後に親孝行が出来たその長兄も、大変感激して、後に「嬉しかった」と喜ばれたそうです。
以前にも触れましたが、私の祖父も、古い親戚付き合いが残っていた頃の、ある年の秋の祭りに、「もう自分も年老いたし、祭りへの最後の招待だ」と云って、7人程の親戚を招きました。(祖母は若くして亡くなっており、父は勤めの為に不在でした)
祭りのお祝いの宴も果てて、皆さんお土産を包んでそろそろ玄関に出ようとしていた時の事です。私もお見送りに玄関の近くにいました。丁度その時祖父が母に「片づける前に、鍋の落としぶたを削っおく」と云って、玄関脇で鉋(カンナ)を少し掛けていました。その途中でバタリと倒れて、そのまま二度と目を開けることなく、逝ってしまいました。苦しんだ様子もなく、親戚一同に最後のお礼を述べた直後のことでしたから、実に幸せな最後でした。
私が同居していた義母が倒れた時は、とても愛妻家の義父の頼みで、昼夜必ず傍らに看病の人が居る体制で、約一ヶ月の入院の後に亡くなりました。
私達の子育てに、大変お世話になった人ですし、私が午後6時ころから翌朝までの看病をして、日中は家政婦さんに頼み、義父は居て良し休んでよしで、枕辺には日頃親しくしていた友達が次々にお見舞いに来て下さいました。
倒れた直後は一時朦朧としまたが、その後又しっかり解るようになりました。このまま快方に向かうのか、と思われる日々もありましたが、最後に近くなってからは点滴だけで生きていましたから、約一ヶ月後に儚くなりました。
親しい人に突然逝かれると、後の喪失感で、身近な家族は元気をなくしてしまいます。でも、一ヶ月という看病の日々は、家族にも、十分看て上げられたと云う気持ちを与えてくれます。まして私のように、「有り難う」と云う言葉を義母に真夜中に告げられて、その後に義母は逝ったのですから、私は本当に有難くて、夜中目覚めたままの看病の大変さも、何処かへ飛んで行ってしまいました。
けれども思いかえすと、お葬儀が滞りなく済んで、お供えした沢山のお花を、葬儀屋さんが仏壇やその前に飾ったり、玄関前のアプローチにまで並べて下さったのですが、心身ともに疲れ果てた私は、片づけをする元気が出る迄少し時間が掛かりました。
実父母や義父母、娘の時も、悲しみの涙が心を癒やしてくれました。幾度も書きますが、高野山の金剛峯寺の金堂の掲示板に、「小雨が大地を潤すように、少しばかりの悲しみが人の心を優しくする。心配せんでもよい。必ず良い様になるものである。」と云う言葉の真実が、今も私を慰めてくれています。
かつて何回か載せた「ちょうどよい」という藤場美津路の詩の教えとこの言葉とは、合い通う内容であることに心強いものを感じます。人はその人らしく人生の幕を下ろすのでしょう。
自分は何時死ぬのか、どういう風に死ぬのか、誰も解る人はいません。ただ私の親友のように、自分がガンである事を知り、キューブラ・ロスの「死への五段階」を、恐らく十分に理解し、主治医に感動を与え、先立たれたご主人との再会を楽しみに逝かれたような立派な方もいます。
先頃夫が「90歳まで元気で生きて、最後にガンで死ぬのが一番しあわせだ。」とある医師が雑誌に書いていた、と云いました。眼鏡屋さんを出ての帰り路、死は生の総決算だとすれば、どう生きたかが、死の一瞬に凝縮されているような、とても厳粛な気持ちになりました。
生も死も仏の意志と思う日は秋明菊を買い来て飾る (あずさ)
何よりそれが何より一番気がかり
みんなみんな幸せになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに
これは私達夫婦の大好きな「さだ まさし作詞作曲」で「しあわせについて」という歌の一節です。今この曲が納められている「書簡集」というアルバムを聴きながら書いています。
つい先日のことです。夫が眼鏡を新しくしなければならなくなって、商店街の古くからの知人である眼鏡屋さんに、ウォーキング帰りに二人で立ち寄りました。
この眼鏡屋さんは、当ブログに何回か登場した、商売のお手本と言える誠実な方です。時計も商っておられ、修理に関しては優れた腕の持ち主で、小柄だけれどしっかり者の奥様と二人を相手に、たまたま日中でお客様の居ないお店の中で、話が弾みました。
やがてご主人のお父様が亡くなられた時の話になりました。この年になると、さだの歌にあるように、同じ年代の人達の関心は、「自分の病気と人生の重さと、取るに足らない噂話など」それが全てと言っても過言では無いでしょう。
ご主人の長兄が跡取りで、父親は日頃から病気をした事が全く無い人だったそうです。その頃は100歳まで生きて居れば、市からご褒美として10万円貰えたそうです。ところがその4ヶ月前に亡くなられて、あと少し生きていてくれたら、という話になりました。
「風邪かな」と診て頂いた時、医師から「喉頭がんが相当進んでいるから、もう長くは無い」と云われたそうです。
ところでその医師は、もうダメだと身近な人にも解るようになった日も、なかなか往診して下さらず、三回も現在の状態を説明に行って、「来て頂きたい」と言ったそうですが、「まだ大丈夫」と一度も診ずに断言して、来てくれませんでした。家族のイライラが極限に達したとき、やっとおいでになりましたが、来られて10分後に、スウッと息を退いて、そのまま亡くなられたというのです。「これぞ名医」と会話が大いに盛り上がりました。
現在の医療のように、沢山の管に管理されている訳でもなく、「昔の医師は死に時の推察が上手かった」と云う事に落ち着きました。
ところで、この長兄は、父親に日頃から親しく接して居らず、寝たきりになられても、それ迄一度も食事を食べさせてあげた事もなかったそうです。
ある日のお昼に、おかゆを一匙二匙と口に運んであげました。するとお父様は「旨い」ととても美味しそうに食べたそうです。その日のうちに容態が急変して、亡くなられたのです。儚い現世ですから、いつどういう別れがあるか解りませんが、最後に親孝行が出来たその長兄も、大変感激して、後に「嬉しかった」と喜ばれたそうです。
以前にも触れましたが、私の祖父も、古い親戚付き合いが残っていた頃の、ある年の秋の祭りに、「もう自分も年老いたし、祭りへの最後の招待だ」と云って、7人程の親戚を招きました。(祖母は若くして亡くなっており、父は勤めの為に不在でした)
祭りのお祝いの宴も果てて、皆さんお土産を包んでそろそろ玄関に出ようとしていた時の事です。私もお見送りに玄関の近くにいました。丁度その時祖父が母に「片づける前に、鍋の落としぶたを削っおく」と云って、玄関脇で鉋(カンナ)を少し掛けていました。その途中でバタリと倒れて、そのまま二度と目を開けることなく、逝ってしまいました。苦しんだ様子もなく、親戚一同に最後のお礼を述べた直後のことでしたから、実に幸せな最後でした。
私が同居していた義母が倒れた時は、とても愛妻家の義父の頼みで、昼夜必ず傍らに看病の人が居る体制で、約一ヶ月の入院の後に亡くなりました。
私達の子育てに、大変お世話になった人ですし、私が午後6時ころから翌朝までの看病をして、日中は家政婦さんに頼み、義父は居て良し休んでよしで、枕辺には日頃親しくしていた友達が次々にお見舞いに来て下さいました。
倒れた直後は一時朦朧としまたが、その後又しっかり解るようになりました。このまま快方に向かうのか、と思われる日々もありましたが、最後に近くなってからは点滴だけで生きていましたから、約一ヶ月後に儚くなりました。
親しい人に突然逝かれると、後の喪失感で、身近な家族は元気をなくしてしまいます。でも、一ヶ月という看病の日々は、家族にも、十分看て上げられたと云う気持ちを与えてくれます。まして私のように、「有り難う」と云う言葉を義母に真夜中に告げられて、その後に義母は逝ったのですから、私は本当に有難くて、夜中目覚めたままの看病の大変さも、何処かへ飛んで行ってしまいました。
けれども思いかえすと、お葬儀が滞りなく済んで、お供えした沢山のお花を、葬儀屋さんが仏壇やその前に飾ったり、玄関前のアプローチにまで並べて下さったのですが、心身ともに疲れ果てた私は、片づけをする元気が出る迄少し時間が掛かりました。
実父母や義父母、娘の時も、悲しみの涙が心を癒やしてくれました。幾度も書きますが、高野山の金剛峯寺の金堂の掲示板に、「小雨が大地を潤すように、少しばかりの悲しみが人の心を優しくする。心配せんでもよい。必ず良い様になるものである。」と云う言葉の真実が、今も私を慰めてくれています。
かつて何回か載せた「ちょうどよい」という藤場美津路の詩の教えとこの言葉とは、合い通う内容であることに心強いものを感じます。人はその人らしく人生の幕を下ろすのでしょう。
自分は何時死ぬのか、どういう風に死ぬのか、誰も解る人はいません。ただ私の親友のように、自分がガンである事を知り、キューブラ・ロスの「死への五段階」を、恐らく十分に理解し、主治医に感動を与え、先立たれたご主人との再会を楽しみに逝かれたような立派な方もいます。
先頃夫が「90歳まで元気で生きて、最後にガンで死ぬのが一番しあわせだ。」とある医師が雑誌に書いていた、と云いました。眼鏡屋さんを出ての帰り路、死は生の総決算だとすれば、どう生きたかが、死の一瞬に凝縮されているような、とても厳粛な気持ちになりました。
生も死も仏の意志と思う日は秋明菊を買い来て飾る (あずさ)