ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

短歌に魅せられて

2018年11月05日 | 随筆
 特別に動機があった訳ではなく、短歌に惹かれてNHKの生涯学習講座で短歌入門を受講したのは、1991年(平成3年)6月でした。その年の1月に義父が旅立ち、お世話になった義両親の最後の親孝行の看病が終わりました。
 職を退いてからは、今迄出来なかった好きな事を学ぶのが、長い間の念願でもありました。
 受けた講座は再学習を除いても、30種類以上になります。短歌講座だけに絞ってみると入門から始めて現在に至る迄、入門を繰り返すこと6回、途中で少し休んだりして、次ぎの実作講座を1年間、そして平成10年4月以来、短歌友の会でずっと続けて学んでいます。原則この講座は添削はしないのですが、講師先生のほんの一言や一文字、僅か添削して頂いても、短歌は一変します。こういう経験を繰り返すほど、指導者の素晴らしい力量を感じて、研ぎ澄まされた感性に感動するのです。
 私の傍らにはいつも短歌の本があり、歌語字典、類語辞典、古語辞典、逆引き頭引き日本語辞典など辞書類も増えました。独りで静かな家の中でこつこつ学んだり短歌を推敲することが、現在の私の生活の中では、最高の幸せな時間です。
 創作活動は時間がかかりますが、充実感は格別です。沢山作ってパソコンに書き込み、時折夫が暇そうにしている時に、読んで意見を聞きます。大抵は即座に「ダメ」が出ます。一度で「いいんじゃないか」と合格することなんて滅多に無いことです。推敲し直しても、「もう一息、心を打つような言葉はないか」とか云われて、なかなか合格しません。手垢が沢山付いた様な言葉はいやですし、それが夫の作戦です。実際私には更に推敲して何とか良い作品をつくりだす、熱意の手助けにもなっています。
 しかし、中々良い短歌なんてスラスラ出来る訳もなく、根負けして最後は残念ですが、妥協の産物の短歌になったりします。折角ですから、挫折して放り出す事もしたくないし、何とかギリギリで、ハガキに書いたり、ネットで投稿して来ました。力不足の私には、幸せな時間と云いつつも、苦労の多いノルマです。
 思えば始めて新聞に載せて頂いた歌は、地方紙で馬場あき子選の平成8年6月の短歌です。

☆身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花  

 ところが平成9年8月のNHKテレビの歌壇に岡井隆選で

☆ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿あめ金魚  
を放映して頂きました。
 すっかり嬉しくなって、次々に新聞やテレビの歌壇に投稿しはじめたのです。
NHK全国短歌コンクール入選 平成9年11月

☆夏祭り果てて出店を畳み居る男は一瞬暗き目をする

日本経済新聞 岡井隆選 平成9年11月
☆玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある

NHK友の会機関誌 「彩歌」 秋号 平成10年11月
☆新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝

などと次々に採って頂きました。自分の歌が活字になったりテレビ放映される等とは、全く考えてもみない経験でしたから、その喜びは喩えようもありませんでした。
 全国放送の時は兄弟姉妹にも知らせました。NHKから予め電話でお知らせがあったので、テレビの前に夫と並んで観ていたのですが、10首の発表があった後に順位の発表があり、そこで岡井隆選者から、「第2席」に採用して頂いたのです。急に心臓の鼓動が早くなって来て、起きていることが苦しいようで、放映が終わると早々に寝てしまいました。
 山口県の湯田温泉へ家族で旅行中の弟家族は、家族全員で観たと知らせて来ました。録画して送ってくれた別の弟や、姉妹からも電話や手紙が届いて、喜びを分かち合ってもらいました。今考えると何とも言えない想定外の経験だったのです。
 目の前に新しく生きる道が一筋見えて、サッと眼前が開けた感じです。人生には予想出来ない事が起きることもあるのですね。
 
 過去に幾度も自分は理系だと思っていたと書きましたが、男の兄弟は全員工学部に進みましたし、私自身も数学が好きでしたから、理系だと思い込んで来ました。しかし、後に父も数学を学ぶ為に渡米しようと、英語を学んでいて、そのまま高校の英語教師になったと聞いて、似ているのかも知れないと思っています。
 でも私は語学はとても苦手なのです。なのに何故か子供達は、語学は得意だったようです。表現力も私はずっと以前から我が子には叶わないのです。従って下手の横好きの如き現状は、私自身にも信じ難いところなのです。
 この話を今回夫にしましたら、夫が自分は理系だと思って、大学入試も理系を選択したら、担任教師に「君は文系なのに理系へ進むのか」と云われ、その時のショックは今も忘れないと云います。今思うとその教師の仰ったことが正しくて、自分という人間を正確に把握していなかったと、つくづく述懐しています。
 私も今になって、このように短歌を詠んだりブログを書いたりする等は、高校時代は到底想像も出来なかったのです。
 高3の頃に私と机を並べていた友人は、授業の合間にちょっとした暇があれば、ノートの端に窓の外の景色を、鉛筆でスラスラと見事な小作品に仕上げたり、紋様を幾つも重ねて素晴らしい美術作品を描いたりしていました。その上成績も良かったのです。やがて彼女は美術の教師になりました。早くに才能に目覚めた例と言えるでしょう。
 私達はそれぞれに、何世代も昔からの祖先のDNAを引き継いでいて、兄弟姉妹で似ている処があり、幼い時代や老いてからも、折に触れてDNAを強く感じることがあります。神様は各人に様々なDNAを選んで与えて下さり「どれでも好きなものを選んで生きて行きなさい」と教えて下さっているように思えます。
 私が職を退いてから、NHKで学習した事が一生の趣味になるとは思いもせず、又「ブログでも書こうかな」とポツリとつぶやいた時「それは良いね」とさっと私のブログを立ち上げて「さあ書いて」と息子に急かされました。そうでなかったら、私にはブログを立ち上げる程にインターネットの操作の技術は無く、到底無理でした。文章を書いてブログに上げる作業は簡単で、誰にも出来ることです。
 今迄見えなかったけれども、こんな得意分野があったのかと、自分でも驚く程に書く事が好きになりました。2009年3月3日から始めたブログは、455編の随筆になっています。
 まだこの先にどんな動機で何に興味を持ち、どんな事が起きるのか、私のこれから先の「生きる楽しみ」にも繋がっていると思ったりしています。
 人間とは、自分が何者なのか死ぬまで解らずに、ともかく根気良く日々努力を重ねているのでしょうか。その99%の努力に1%のひらめきを持つことが出来た人が、エジソンのように特別な結果と幸せを引き寄せる事が出来るのかと、興味は尽きません。
 今迄興味も覚えず、全く知らなかったことが解るようになったり、出来るようになったりする事は、この歳をしても大変な感激です。
 しかし、楽しみは苦しみも伴います。一つのリポートに5首の短歌を提出するのが、NHKの私の講座のノルマですし、週2~3首新聞などの投稿があります。それを仕上げるのに、四苦八苦することもあります。
 この様な年月を持てたことが、時に引っ張ったり押したりして、つき合ってくれた家族との、何よりの幸せでもありました。短歌は万葉集から始まって、現在まで続いている文学です。日本の歴史に花を添えています。私がNHK講座や歌壇の他に、購読している新聞に投稿したという行為も、きっかけは夫の一言であったり、何かに導かれたようでもありました。過去を振り返って考えると、そのような行動を起こした事と、それがたまたま活字になった喜びがエネルギーになって、現在も苦しみつつ歌材を探し、推敲に呻吟しながら、生きて居る充実感を頂いて居ると云えます。
「若い頃の苦労は買ってでもせよ」との格言がありましたが、今となっては買うことは出来ても、花を咲かせたり実らせたりする時間は無いようです。進む方向に戸惑うばかりの人生でしたが、世界に又と無い日本特有の文学であり、その粋を凝縮させた短歌に出会えたことを、深く感謝しています。

来し方の苦しき日にも歌ありて三十一文字に託す我が生 あずさ


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