ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

息が足りないこの世の息が

2016年04月18日 | 随筆・短歌
 主題は、2010年8月に、64歳で亡くなられた私の尊敬する歌人、河野裕子さんの辞世の短歌から頂きました。河野裕子第15歌集「蝉声」の最後の歌です。(以後敬称を略させて頂きます)

 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」

 何と切ない歌なのでしょう。死の前日に詠んだ歌だそうです。
 短歌が好きな私は、河野裕子の歌がとても好きで、何冊か歌集も持っています。ずっと以前、この「蝉声」という歌集に感激して、ブログにも書きました。
 先頃矢張り河野の短歌が好きな夫が、河野の夫で歌人でもある永田和宏の、「歌に私は泣くだらう」という河野との出合いから晩年、そして死までを書いた新潮文庫を買って来ました。それを読みながら、時折「とても感激するし、泣ける」と言いました。私も早く借りて読みたかったのですが、夫は、じっくり味わって読んでいて、暫く待たされました。夫が読み終わるのを待って、早速二日間で読み終えました。内容の深刻さに涙なしには読めませんでした。
 「歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る」という永田和宏の歌から採った題名の本です。
 『永田はこれは河野裕子が乳がんの宣告を受けてから、亡くなるまでの十年、私にとっても河野にとっても、もっとも辛く厳しい時期のことを書いたものである。/ 書くことには初め大きなためらいがあった。河野が精神的に不安定な時期が続き、その攻撃性の発作のために家の中がある種地獄のような様相を呈した時期に触れざるを得ないからである。中途半端なものに終わってしまえば、河野を傷つけるだけにしかならないのではないか。』と書いています。 (参考までに、この本は2013年の第29回講談社エッセイ賞を受賞しています。)
 永田は河野の最後の歌を書いた後に、『近代以降、死に臨んで、この一連のような密度の高い歌を残した歌人はほとんどいないと言っていいかも知れない。それは彼女の意志の強さにもよるだろうが、その前に苦しむだけ苦しみ、家族みんなを巻き込む形で自らの死という理不尽に抗い尽くした果てに、ある種の納得、断念と引き換えに得た悟りに近い思いだったのかも知れないと思うのである。敢えて、河野の苦しかったことを公にすることは、河野裕子という歌人の作品の現場、歌の背景を知って欲しいという思いからであった』
と書いています。
 私は、此処で『自らの死という理不尽に抗い尽くした果てに、ある種の納得、断念と引き換えに』とあるところについて、想い出す書籍がありました。それはエリザベス・キューブラー=ロスの「死ぬ瞬間」という本です。キューブラ=ロスという人は、精神科の医師で大学教授でもありました。癌の宣告を受けて、死期の近づいた患者が、死ぬ迄に辿る様々な心理の過程を、世界各国を巡り、聞き取りをして纏めたものです。その結果「人間は自分の死を受容する過程で、心理的に5段階のプロセス、すなわち「否認・孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」の5つの過程を多かれ少なかれ踏むものである」と。これは有名なものですから、皆さんもお聞きになった方も多いかと思います。
 私は、この過程を河野裕子も踏んで来ていると感じたのです。
永田の著書を読んで行くうちに、それは確信に近いものに思えました。様々な出来事と、添えられた二人の短歌を詠んで、歌集を通して知って居た河野とはひと味違って、河野が一層人間的な悩みや苦しみを持った歌人であったと思えました。
 河野裕子の晩年について、その病状や、ガンと闘う河野や家族の様々な苦しみや苦労が、有りのまま書いてあって、読者の胸を息苦しいまでに打つ作品になっています。此処まで家族の赤裸々な関係や愛憎・そして悩みや温かい愛情を書いた作品に、私は出会ったことがありませんでした。

 永田の著書の書き出しは、『全てはこの一首から始まったと言っていいのかも知れない。』とあり

 左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり玉子大なり(裕子)

 とあり検査の結果乳がんだと診断されます。二人はお互いに引かれ合って結婚した仲の良い夫婦であり、またいたわり合って日々を過ごしてきていました。紅(こう)と淳という二人の子供に恵まれて、家族全員が歌人でした。しかし、この癌発見により、次第に河野の様子が変わって行きます。

 歩くこと歩けることが大切な一日なりし病院より帰る(第九歌集より 裕子)

 このように穏やかな歌を詠み、「歩く」と言う第九歌集にして息子の青磁社から出版し、自分が癌であることを発表しました。
 永田は『河野は、戦後生まれの代表として、一貫して歌壇の先頭を走って来た歌人である。当然のことながらやっかみや嫉妬の対象でもあった。一家全員が歌人であるということも、羨望の的である以上にやっかみ半分に揶揄されることも多かった。癌であると告白することは、少なくとも歌壇をリードしていく存在からはドロップアウトすることにもなるだろう」と発表を反対しました。しかし、『河野の意見は最初から決まっていたようだった。「断固、公表する。それでなければ自分の言葉が濁る」とゆずらなかったのです。
 そして『いざ息子の青磁社の初めての出版物として出版される時、トラブルが生じた。刷り上がった帯の緑の色がちょっと明るすぎると感じた永田が「見本は、確かにもう少しくすんでいて、いい感じやったのになあ」と言ったのがいけなかった。河野はすぐさま息子の淳の携帯に電話して、ものすごい剣幕で「この歌集は出しません」「あんたこの色は何ですか。最初に見せたものと全然違うじゃないですか。私はだしませんからね」と言い、ガシャンと電話を切ってしまった。こういうとき横で取りなしたり、淳の弁護などすれば、火に油を注ぐようなもので、私はただ聞いているだけであった。翌朝河野が少し落ち着いているのを見計らって、何とか納得させた』とあり、この頃から河野が精神に異常を来し始めたと、永田は思っていたようです。
 機嫌の悪い日が度々あり、不機嫌のおおかたは、自分の身の不具合でありました。

 四年まへ乳腺外来に行きしかど見過ごされたりこれも運命か(裕子「日付けのある歌」)

とあるように、その時に見つかっていればと言う思いから、「責任の半分日は俺にある」と言う永田の言葉に、やがて「あんたのせいで、こうなった」と河野が非難するようになったのです。
 やがてある日、河野は突然いなくなります。車は駐車場に止めてあるのに、姿が見えません。行き場所の無い彼女は、死のうと思って出て行ったのだと思います。呼び寄せられた子等が集まり、紅は服を調べ、無いものがあると言います。やがて淳が電話機から母の電話先を調べて、局番から三重県であることが解ります。直ぐに掛けて見ると、矢張り居たのですが、「出たくない」と出て来ません。 連絡を考えて淳を家に残し、紅と二人で伊賀上野の旅館に迎えに行き、やっと旅館を見つけたのが、午前2時を回っていたそうです。 この事件があってから、河野は何がきっかけかわからないことが多かったけれど、落ち込み、やがて苛立ち、攻撃的になり、それは彼女にも制御出来なくなっていったようです。

   病院の横の路上を歩いているとむこうより永田来る。
 何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋じゃない(裕子)
 
 永田はこの歌に『私のそれまでの人生でこの一首ほど辛い一首は無かったと言っていい』と書いています。
 
 やがて河野は不眠症になり、ハルシオンを飲んで眠るようになりました。その頃『河野裕子がもっとも憎んでいたのは、私だったろう。私の不注意から、ある女性を話題にし、褒めたことが原因であった。彼女はその女性を憎むとともに、私を憎んだ。私とその女性とのあいだに、何もないことは誰よりもわかっていたし、自分でもそう断言していた。それでも私を許せなかった。私の回りに女性がいることがゆるせなかった。』とあります。しかし、二人の短歌を詠んでいる私には、これらはお互いに深い所で愛し合っているからこそ、言えること、書けることだと思っています。しかしこの時は、河野は弧独を感じていたのです。「何処かへ出掛ける時も着物や帯まで永田に尋ね、着て行った程の愛情と信頼感がある一方で、独占欲の裏返しとして、病気以降永田が離れていくのではないか、見捨てられるのではないか、という恐怖心に、縛られて行ったのではないか、」と永田は言っています。

 白木槿あなたにだけは言ひ残す私は妻だったのよ触れられもせず (河野裕子「葦舟」)

 『この一首は、河野が精神的な危機を乗り越えてからの歌であるが、(中略)私はどうしても河野を避け、腫れ物に触るように接していた』とあります。家に帰るのも次第に遅くしており、河野の異常な興奮が一ヶ月以上続き、へとへとになった永田は、ある日とうとう堪えきれず爆発します。気が付いた時は、部屋の中のものを手当たり次第に叩き付けて壊しました。淳が後ろから止めてくれました。彼は淳の肩にすがって泣き、淳は黙って肩をかしつづけるのです。
 淳の肩にすがりて号泣したる夜(よ)のあの夜(よる)を知るひとりが逝きぬ(永田和宏 夏・2010)

 どこをどうふらつきをりし魂か目覚むれば身は米とぎに立つ(裕子)

 あの時の毀れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて(裕子)
  
 『河野は紛れもなく良き妻であった。どんな日であろうと私に食べさせる米をといだ。後年「毀れた私を抱きしめて」の一首を見た時、それまでの錯乱にも似た発作と激情の嵐、私への罵言の全てを許せると思った』と書いています。
 普通の癌は五年経てば完治したと思われるのに、乳がんはそのたぐいに入らず、八年経って河野の癌は再発しています。

 一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ 永田和宏「夏2010」)

 『歩くのがやっとで寂光院に行って、地蔵尊の手から垂れている紐を手に取り、長く祈った。今迄にない河野の姿にショックを受けた。彼女はもう別の世界をはっきりと視界に捉え初めている。そう感じた。「やめろ」と言いたかったが、そんな言葉を静かに撥ねつけてしまうかのように、彼女の挙措ははかなげなのであった。「準備をしている」、確かにそう感じさせるなにかが彼女には漂っていた。』

 みほとけよ祈らせ給へあまりにも短きこの世を過ぎゆくわれに(裕子「京都歌紀行」)
 その日彼女はこの一首を作った。

 わたくしはわたくしの歌の為に生きたかり作れる筈の歌が疼きて呻く(裕子「蝉声」)

 悔しいときみが言ふとき悔しさはまた我のもの霜月の雨(永田和宏「夏・2010」)
 
 2010年1月歌会始に二人ででかけます。2003年から永田は詠進歌選者になっていて、河野も2008年から選者になっています。『竹橋のホテルに宿を取り、部屋に入ってしばらくすると女官長から電話があり、これから皇后様のスープをお届けしたいとのこと。しばらくして、侍従の一人が魔法瓶に入った皇后様のスープを届けて下さった。河野が食欲がなく、食べられないことをお知りになり、お手ずから作って下さったスープをわざわざお届けいただいたことに、私達は感激した。その日も何も食べていなかった河野であったが、おいしいと言いながらいただいた。私もお相伴したが、やさしく澄んだコンソメスープであった。
 夜には、直接皇后さまからお見舞のお電話もいただいた。体調の悪さを押して、歌会始に出席する河野を気遣っていただいたことがよくわかり、心にしみた』とあります。
 『歌会始めから半年あまり経ち、河野の病状が重くなり自宅介護に移ったころ、皇后様からはもう一度、スープをお届けいただいた。その時は、わざわざ東京から京都まで、川島裕侍従長が自らスープを持ってきてくださったのである。その懇ろなお心遣いをかたじけなく思ったことだった』

 ふた匙なりともの御言葉の通りやっとふた匙を啜り終へたり(裕子)

その年の選者のなかでは河野の歌が披講されることになっていた。

 白梅に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅(裕子)

 私は、「蝉声」で皇后様が河野にスープを賜ったことは存じており、我が事のように感激しました。ご自分でも短歌をお詠みになる皇后様が、如何に河野裕子の才能を高く評価しておられたかを知って、私は嬉しく思いました。皇后様のお優しさに直接触れたような感動を覚えました。

 癌は次第に進み、「母系」で「迢空賞」や「斎藤茂吉短歌文学賞」を受賞し、紅も結婚式を挙げ、病院の緩和病棟に入院したりした後、河野は自分の家に帰り、介護を受けました。それでも短歌を詠み続け、何にでも歌を書き、ティッシュの箱にも書かれていたそうです。最後まですさまじい歌人魂です。

 わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし

 さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ

 泣いている暇はあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく

 長生きしてほしいと誰彼(だれかれ)数へつつつひにはあなたひとりを数ふ

 のちの日をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで (以上裕子)

 歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る(永田) 
 河野裕子と言えばご存知の人も多いかと思いますが、「たとへば君ガサッと落ち葉すくふやうに私を攫って行ってはくれぬか」という歌が代表作で有名です。解りやすい言葉で平易に、しかし的を射た表現、それも前半に対して後半の変換がとても上手い歌人だったと私は思います。

 雨?と問へば蝉(せん)声(せい)よと紅は立ちて言ふ ひるがほの花

 たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

 私が河野裕子氏を知ったのは、もう40年も昔のことです。尊敬出来る優れた歌人です。
大勢の歌人が辿るように、私も石川啄木の短歌に憧れ、やがて茂吉に傾倒し、釈迢空に引かれました。NHKの短歌教室で、様々な講師の先生のご指導を仰ぎ、やがて日経新聞の当時の選者だった岡井隆先生に憧れて投稿を始め、地方紙の選者として、馬場あき子氏、宮英子氏、高野公彦氏、などにぽつぽつと拾って頂けるようになりました。
 何処の結社にも属さず(これは勉強するという意味からして、あまり望ましい事ではないらしいのですが、)コツコツと本を読んだりしながら、一人で紡いで来ました。以来活字になった短歌は約500首を数えます。
 永田和宏氏は、大学の講師をして居られた頃から、優しく温かな人間性に富んだ歌を詠まれる歌人として、尊敬していました。
 「歌に私は泣くだろう」というこの本は、夫が求めて来るまでは知りませんでした。全編を通して、末期の病人を支えた温かい家族の愛情が、すさまじい迄の情景の中で綴られていて、とても感動致しました。改めて河野裕子さんに哀悼の意を表します。
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