ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

或る孤独死

2009年05月06日 | 随筆・短歌
 私には独身のまま母と同居して一生を過ごし、最後まで母の面倒を看た弟がいます。弟は国家公務員で転勤族でしたから、母は田舎の家を空にしたまま弟に付いて、転勤の先々で暮らして来ました。とても親孝行の弟で、その孝行振りは兄弟の誰も真似が出来ません。 年老いた母の身の回りの世話をして、良く面倒を見ていました。娘達は皆嫁入りして、れぞれに家族がいましたし、息子達は遠い地に家庭を持っていました。、父が亡くなった頃実家から通勤していた弟は、母と二人で暮らすようになったのです。定年間近になってから私達の住む市に転勤して来ました。
 私は弟が出勤している時間は、3LDKの官舎に独りになる母が寂しくない様に、話し相手として毎週必ず訪ねていました。姉も同じ市に住んでいましたので時折は顔を出し、母の介護が必要になった時は、二人で交代で弟の官舎へ通いました。入院してからは、矢張り二人で交互に付き添い、弟が帰るまでの時間を病院で過ごしました。
 しかし看病の甲斐なく、母は病院で亡くなりました。独りになった弟は、寂しかったに違いありません。もっと良く面倒を見てやれば良かった・・・と泣きながら何度も電話を掛けて来た事は以前書きましたが、やがて落ち着いた頃、持病の糖尿病を悪化させて、入院する事になりました。そして人工透析が始まったのです。職場に迷惑を掛けられないと弟は退職しました。当時58歳でした。私達は母の時の様に夫の車で入院治療中の弟を毎週見舞いに行きました。時として私の息子も顔を出すと、弟は抱きつかんばかりにしてとても喜びました。
 母がまだ生存中に、弟の眼が良く見えなくなっていると心配していた位でしたので、入院した頃は可成り糖尿病性網膜症が悪化していました。私と夫は市役所に「糖尿病で中途失明した人はどのような施設で面倒を見て頂けるのか」と聞きに行った事があります。全国的にその施設は少なく、なかなか入所出来ないようで、出来ても一時的で退所になるそうで、弟の老後をどのように面倒を看たらよいのかと、夫婦で心配していました。
 退職した弟は官舎を出て、病院に透析に通う為に田舎の家に帰らず、アパートを借りて独り暮らしを始めました。時折電話を掛けてやったり、様子を見に行ったりして、過ごしましたが、ある日の夕方、姉から突然「弟が死んでいる」という電話がありました。病院から「透析の予定日なのに未だ来ないから様子を見るように」と連絡が来て、姉が見に行ったのです。私と夫は急いで車で駆けつけました。
 やがて病院の医師も見え、急性心不全ということでした。医師は「あっという間の突然死で、本人は殆ど苦しまなかったでしょう」と仰いました。お風呂から上がって洗濯物を室内に干し、電気ストーブを小さく付けたまま、 着替えたばかりの下着姿でベッドに横になっており、傍のオーデイオから、モーツァルトがエンドレスに流れていました。
 翌日遠くから駆けつけた兄弟達も、突然の死を悼みながらも、好きなクラシックを聴きながら苦しむいとまもなく、眠っているような死顔をみて、「自分もこんな死に方をしたいものだ」と言い合っていました。 キッチンの鍋にはおでんが煮てあり、未だ箸をつけてありませんでした。
 細雪が時折烈しく降る日に、元の職場の人達も沢山見送る中を弟は黄泉へと旅だって行きました。夕方骨箱に小さく納まった弟を抱えて外に出ると、骨箱は未だほんのりと温かく、母を最後まで看取った弟の心のぬくもりが私の腕に伝わって来て、「お疲れ様、ゆっくり休みなさい」と心の中で語りかけていました。
 こんな孤独死もあるのかと、美しく昇天していった弟の死が、何時までも心に残りました。

モーツァルト聴きつつ独り居の弟は秘かに逝きぬ星降る夜に
母看取り程なく逝きし弟の孤独死の顔安らかなりし
孤独死の弟の骨箱胸に抱けばほのかにぬくし霏霏(ひひ)と雪降る(全て実名で某誌に掲載)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする