最近また論語が懐かしくなり、読み返しています。親しまれている一つに、次の文があります。
「子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」
恕とは思いやりです。「人間の一番大切なことは(思いやり)である。自分が望まないことは、人にやってはならない」ということです。この思いやりは、孔子の哲学の根本の「仁(じん)」の中心にあるものだといわれます。
自分と同じように他人を思いやる、優しくする、相手を許す、といった事を実践する事、と解釈すれば良いのでしょうか。
私は、最近の経済至上主義が、人間の心の荒廃につながって来てはいないか、と心配しています。豊かな経済、豊かな暮らしは誰しも望みますが、その欲望は何処までいっても満足出来ないものであって、その結果自己本位が強くなり、自分さえ良ければ、人のことなど考える暇も無ければ余裕も無い人間が満ちあふれた社会になって行くことでしょう。その兆候として、責任を取ろうとしない人が政界・経済界・官僚はたまたマスコミの中に跋扈(ばっこ)している気がします。
そこでこの孔子の教えを引いて来ますと、一番大切なことは思いやりだと説いています。
企業は金、かねと儲けることを第一目的にするのではなく、そこで働く社員を大切にすること、また教育も豊かな人間性を育むことを第一に考えるようになれば、自ずといじめも減って、心地よい労働や勉学にいそしめる環境が生まれて来るのではないでしょうか。そうなって初めて平和を愛する国家、人間を大切にする国家へと変って行くものと思います。
私達は、戦後の食糧難を知っています。あの時は、少ない食料を分けて食べました。お米一粒たりと無駄にしませんでした。それが今日では、コンビニなどで、時間切れの食べ物がどっさり捨てられていると聞きます。目を転ずれば、戦後と同じく日々を心安らかに食べられない子供たちが、この日本にもいるのです。
眼の前の困っている人に手を貸してあげないとか、自殺者が増えても、殺人のニュースが毎日でも、平気になってはいないでしょうか。自分が困らなければそれで良い、将来の子供たちがどうなるか、等考えもしないというのは、矢張り人間としての教育をしっかり受けて来なかったからでしょうか。または、自ら目を背けて生きているのだろうかと思います。
小渕経済産業大臣が、親として原発は心配だ、しかし原発は動かすことに決まっているから。と苦しい本音を言われましたが、福島の人達のことを考え、日本の未来を考えれば、原発の稼働は大いなる誤りだと思えます。
政治にも経済にも疎い私ですから、こんなことを書いたら笑われるかも知れませんが、電気料が高くなっても、節約して何とか支払える位しか使わず、自然のエネルギーを巧みに使うことも、私達の年齢の人の中に、工夫する人も出るでしょう。
日本中の人が室温29~30℃位まで団扇で我慢したら、原発無しでも乗り切れるのではないでしょうか。現在でも原発は一基も稼働していません。それでも何とかやっているではありませんか。
また、現在高齢者の皆さんは、戦後の何もない時代から立ち上がり、高度経済成長時代の担い手ともなり、もう働けなくなって、年金暮らしになっています。恐らく日本の政府にとっては、こういった働けない人は少ない方が良いでしょう。しかしそうも行かないので年金の支給額を削って、帳尻を合わせようとしています。みな黙って我慢しているようですが、哀しいことですね。高齢者が年々増えていると政府が発表する度に、身を縮めて暮らさなければならないのはとても辛く淋しいことです。税金の無駄遣いをしないように、此処を切ったというはっきりした事実を聞きたいものです。
私が愛読しているブログに「末永遍(すえながあまね)新・心の原風景・苦悩の克服」というのがあります。2014年8月30日付けで「古代と現代の政治姿勢」というのが載っていました。その中の次のような所に目を引かれました。
『日本の歴史 04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏著 講談社学術文庫)を読みました。それによりますと、大宝律令(西暦701年制定)のもとでは、八十歳のご老人にはヘルパーさんがつくような仕組みになっていたそうです。ヘルパーは血縁者がなり、課役を免除されるなど様々な特権が与えられたそうです。九十歳になるとヘルパーが二人つき、百歳になると五人つくことになっていたそうです。
当時はそんなに長生きする人はほとんどいなかったでしょうから、この制度がどれくらい生かされたか疑問ですが、このように高齢者と申しますか、弱者を大切にする発想が、国の方針としてあったことに驚かされます。国としては財政上、得なことではなかったでしょうが、損得勘定を度外視した福祉政策を持っていたわけです。中国を見習って作った律令ですから、中国にそういった制度があったのかも知れませんが、それでも立派なことだと思います。
(以上引用文)
私は大いに驚きました。確かに今とは長生きの年齢が違うでしょうから、そのままは現在の日本にも応用することは無理ですが、そういう心が当時の為政者にあったことが驚きです。
多分私達の年齢の人達は、我慢することには慣れていると思いますが、それでも自分が亡くなった後の未来の日本の事が心配です。年を取って初めて解ったこと、それは未来をもっと大切に、その時代に生きる人々のことを真剣に考えて政治を行い、国民はそれを注視しなければならないという事です。
思いやりの心、それこそが、これから益々大切にしなければならないことでしょう。その教育は何処で誰が、どの様に行ったら良いのでしようか。それすらも考えられていないように思えて、不安なのです。そうしなければ、日本人の美しい心は毀れて行くばかりです。私も含めて、このことの重大さを広く認識してもらい、大いに努力したいものです。
廻り来る自然の則に従ひて紅葉も吾も秋を生きゐる
虫たちの妙なる楽を聞きながら鳴けない虫に心寄す夜半
(某誌に掲載)
「子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」
恕とは思いやりです。「人間の一番大切なことは(思いやり)である。自分が望まないことは、人にやってはならない」ということです。この思いやりは、孔子の哲学の根本の「仁(じん)」の中心にあるものだといわれます。
自分と同じように他人を思いやる、優しくする、相手を許す、といった事を実践する事、と解釈すれば良いのでしょうか。
私は、最近の経済至上主義が、人間の心の荒廃につながって来てはいないか、と心配しています。豊かな経済、豊かな暮らしは誰しも望みますが、その欲望は何処までいっても満足出来ないものであって、その結果自己本位が強くなり、自分さえ良ければ、人のことなど考える暇も無ければ余裕も無い人間が満ちあふれた社会になって行くことでしょう。その兆候として、責任を取ろうとしない人が政界・経済界・官僚はたまたマスコミの中に跋扈(ばっこ)している気がします。
そこでこの孔子の教えを引いて来ますと、一番大切なことは思いやりだと説いています。
企業は金、かねと儲けることを第一目的にするのではなく、そこで働く社員を大切にすること、また教育も豊かな人間性を育むことを第一に考えるようになれば、自ずといじめも減って、心地よい労働や勉学にいそしめる環境が生まれて来るのではないでしょうか。そうなって初めて平和を愛する国家、人間を大切にする国家へと変って行くものと思います。
私達は、戦後の食糧難を知っています。あの時は、少ない食料を分けて食べました。お米一粒たりと無駄にしませんでした。それが今日では、コンビニなどで、時間切れの食べ物がどっさり捨てられていると聞きます。目を転ずれば、戦後と同じく日々を心安らかに食べられない子供たちが、この日本にもいるのです。
眼の前の困っている人に手を貸してあげないとか、自殺者が増えても、殺人のニュースが毎日でも、平気になってはいないでしょうか。自分が困らなければそれで良い、将来の子供たちがどうなるか、等考えもしないというのは、矢張り人間としての教育をしっかり受けて来なかったからでしょうか。または、自ら目を背けて生きているのだろうかと思います。
小渕経済産業大臣が、親として原発は心配だ、しかし原発は動かすことに決まっているから。と苦しい本音を言われましたが、福島の人達のことを考え、日本の未来を考えれば、原発の稼働は大いなる誤りだと思えます。
政治にも経済にも疎い私ですから、こんなことを書いたら笑われるかも知れませんが、電気料が高くなっても、節約して何とか支払える位しか使わず、自然のエネルギーを巧みに使うことも、私達の年齢の人の中に、工夫する人も出るでしょう。
日本中の人が室温29~30℃位まで団扇で我慢したら、原発無しでも乗り切れるのではないでしょうか。現在でも原発は一基も稼働していません。それでも何とかやっているではありませんか。
また、現在高齢者の皆さんは、戦後の何もない時代から立ち上がり、高度経済成長時代の担い手ともなり、もう働けなくなって、年金暮らしになっています。恐らく日本の政府にとっては、こういった働けない人は少ない方が良いでしょう。しかしそうも行かないので年金の支給額を削って、帳尻を合わせようとしています。みな黙って我慢しているようですが、哀しいことですね。高齢者が年々増えていると政府が発表する度に、身を縮めて暮らさなければならないのはとても辛く淋しいことです。税金の無駄遣いをしないように、此処を切ったというはっきりした事実を聞きたいものです。
私が愛読しているブログに「末永遍(すえながあまね)新・心の原風景・苦悩の克服」というのがあります。2014年8月30日付けで「古代と現代の政治姿勢」というのが載っていました。その中の次のような所に目を引かれました。
『日本の歴史 04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏著 講談社学術文庫)を読みました。それによりますと、大宝律令(西暦701年制定)のもとでは、八十歳のご老人にはヘルパーさんがつくような仕組みになっていたそうです。ヘルパーは血縁者がなり、課役を免除されるなど様々な特権が与えられたそうです。九十歳になるとヘルパーが二人つき、百歳になると五人つくことになっていたそうです。
当時はそんなに長生きする人はほとんどいなかったでしょうから、この制度がどれくらい生かされたか疑問ですが、このように高齢者と申しますか、弱者を大切にする発想が、国の方針としてあったことに驚かされます。国としては財政上、得なことではなかったでしょうが、損得勘定を度外視した福祉政策を持っていたわけです。中国を見習って作った律令ですから、中国にそういった制度があったのかも知れませんが、それでも立派なことだと思います。
(以上引用文)
私は大いに驚きました。確かに今とは長生きの年齢が違うでしょうから、そのままは現在の日本にも応用することは無理ですが、そういう心が当時の為政者にあったことが驚きです。
多分私達の年齢の人達は、我慢することには慣れていると思いますが、それでも自分が亡くなった後の未来の日本の事が心配です。年を取って初めて解ったこと、それは未来をもっと大切に、その時代に生きる人々のことを真剣に考えて政治を行い、国民はそれを注視しなければならないという事です。
思いやりの心、それこそが、これから益々大切にしなければならないことでしょう。その教育は何処で誰が、どの様に行ったら良いのでしようか。それすらも考えられていないように思えて、不安なのです。そうしなければ、日本人の美しい心は毀れて行くばかりです。私も含めて、このことの重大さを広く認識してもらい、大いに努力したいものです。
廻り来る自然の則に従ひて紅葉も吾も秋を生きゐる
虫たちの妙なる楽を聞きながら鳴けない虫に心寄す夜半
(某誌に掲載)