映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

プレシャス

2010年06月17日 | 洋画(10年)
 映画『プレシャス』に出演したモニークという俳優が、アカデミー賞助演女優賞を獲得しているというので、それならばいい映画に違いないと見込んでTOHOシネマズ・シャンテで見てきました。

(1)この作品の主人公プレシャスは、恐ろしいほどの肥満体質に加えて、読み書きが出来ず、いつも一人でいます。
 おまけに16歳という年齢でありながら、映画の開始の時点では2度目の妊娠中。それも、母親がとっかえひっかえする父親のレイプによるとのこと〔最初の子供―なんとダウン症なのです!―は、お祖母さんが養育中〕。
 失業していて麻薬中毒の母親は、そんな事情もあってか、彼女に酷く冷たく当たります。
 さらに、プレシャスは、通っていた学校を妊娠のせいで停学になり、オルタナティブ・スクールに通うことになります。
 そこでプレシャスは若い女性教師レインと出会うのですが、これが彼女の転機になります。その親身な指導のおかげで彼女は読み書きを覚え、次第に希望の光を見出し始めます。
 とはいえ、そのまま一本調子で進むわけではなく、ラスト近くになると、プレシャスは、父親にレイプされた際にエイズをうつされたことがわかったり、マライア・キャリー扮する市福祉課職員の前で母親と対決するなどのさまざまの試練が待ち受けています。



 ですが、主役を演じるガボレイ・シディベの類い稀なる資質によるのでしょう、そんな厳しい状況に置かれているプレシャスにも何かいい未来があるのかもしれないと、観客に希望を持たせてくれます。

 また、プレシャスが出会う教師レインを演じたポーラ・パットンは、黒人ですがなかなかの美貌で、教師役としての演技も素晴らしいものがありました。



 確かに、プレシャスの母親を演じたモニークは、難しい役を実にうまく演じていますが、映画からは、こちらのポーラ・パットンの方が強い印象を受けました。



 なお、映画の設定は、1987年のニューヨークのハーレムとなっているところ、米国社会の詳しい事情のわからない者にとっては、20年前と今との差はあまり分かりません。このお話は、まさに現代の状況ではないかと思えてしまいます〔黒人極貧層を巡る状況は、現在でもあまり変わってはいないのではないでしょうか?〕。

(2)プレシャスは、通常の学校では授業についていけないこともあって、「イーチ・ワン・ティーチ・ワン」というオルタナティブの学校に入りますが、そこで先生が、各人にアルファベットを順番に黒板に書かせるシーンがあります。
 ところが、驚いたことに、皆、筆記体ではなく活字体でアルファベットを書くのです。

 しばらく前のことになりますが、日本でもそんなことが言われていて、3月15日のTV番組「ズームイン」では、この話題が取り上げられました(注)。
 本家でも分家でも、同じ事態になっているのかもしれません。
 尤も、日本の場合、パソコンの普及で、筆記体アルファベットどころか、易しい漢字さえも、書く必要がなくなってきたためもあって書けなくなっているようで、むしろそちらの方を嘆くべきなのかも知れません。


(注)同番組では、「今、英語の筆記体を書けない若者が増えているそうです。学力が落ちているわけではなく、英語が得意でも筆記体だけ出来ないのです。2002年から学習指導要網が変わり、筆記体は教えなくなってもいいことになったため、この時、中学生だった、現在の22歳より下の世代は筆記体を学校で習ってこなかったのです」云々という問題意識から、この話題を取り上げたようです。


(3)映画評論家は、この映画に対して、総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「主人公を演じる新星ガボレイ・シディベの問答無用の力強さ、彼女を導く教師役ポーラ・ハットンの凛とした美貌。そして、嫌悪感そのものを体現するような母親役モニークの凄みはどうだ。怠惰で暴力的、精神的に病んでいるとしか言いようのない母親メアリーの終盤の独白は、すさまじい迫力で圧倒される」として80点もの高得点を、
 福本次郎氏も、「映画は彼女に明るい未来を示唆するような甘い結末を用意するわけではない。それでも運命は切り開いていくものだという人生の真実をプレシャスは学び、己の力で歩きだす決心は前向きな希望を与えてくれる」として80点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田有一氏は、「別に実話じゃないのだし、下手な先入観を持たぬためにもテーマの普遍性を強調する意味でも、舞台はもっとぼかしてもよかったろうと思う」として60点しか与えていません。
 とはいえ、「舞台設定をぼかす」ことによって「テーマの普遍性が強調」されるというのは、前田氏の酷い思い込みであって、逆に時代性を強調することによって、テーマのリアルさが強調され、ひいてはその普遍性も確保されるのではないかと思われます。
 さらに、「87年のハーレムというのは、今の日本人からするとあまりに遠い世界で現実味がない」と前田氏が言うのは、どういう意味合いなのでしょうか?ハーレムの年々の変貌ぶりなど知らない日本人が大部分であって(アメリカ人だってそうかもしれません!)、20年前のハーレムの世界が「あまりに遠い世界で現実味がない」などと言いうる日本人は、前田氏を含めごくわずかではないでしょうか?

(4)なお、この映画について、神戸女学院大学の内田樹教授は、そのブログにおいて、概要次のようなことを述べています(注)。
 「これまで作られたすべてのハリウッド映画は、本質的に「女性嫌悪」映画だったが、『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。
 本作は、たぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
 本作の政治的意図は誤解の余地なく、ひさしく女たちを虐待してきた男たちに「罰を与える」ことにある。だが、その制裁は決して不快な印象を残さない。それは、その作業がクールで知的なまなざしによって制御されているからである。
 本作は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。その意味で、本作は映画史上画期的な作品であると私は思う」。

 ここまで大仰に言えるのかどうかは別として、仮にそうであるならば、その日本版が、あるいはひょっとして石井裕也監督の『川の底からこんにちは』ではないかとも思えてきます。
 何しろ、同映画に登場する男性陣はみなダメ人間ばかりで、逆に女性陣は、主役の木村佐和子をはじめとして皆がんばりやで、シジミ工場の再生に取り組もうとしているのですから!社歌を歌う女性従業員の姿は、内田氏が言う「女性たちだけのホモソーシャルな集団」に該当しないでしょうか?
 それに、「男性のクリエイターが男性嫌悪的なドラマを進んで作り出すようになった」結果が『プレシャス』だとしたら、『川の底からこんにちは』を製作したのは、主に監督・脚本の石井裕也氏以下の男性スタッフで、その意味でも通じるものがあるといえるかもしれません。

 尤も、『川の底からこんにちは』のプロデュサーは女性(天野真弓)ですし、映画には男性陣もかなり登場します〔『プレシャス』では、先生のレインがレズビアンという設定をすることなどによって、徹底的に男性が排除されています〕、また「ダメ人間」の男性を、女性陣は「罰を与える」ことなく、結局は許してしまっている節も見受けられるところで、『プレシャス』ほどの筋が入った作品になってはいないといえるかもしれません。
 また、それが「辺境」に位置する日本という国で映画を製作することなのかもしれませんが!

(注)劇場用パンフレットにも、その中核部分が掲載されています。



★★★☆☆


象のロケット:プレシャス



最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (vic)
2010-06-20 09:22:16
男性嫌悪映画!なるほど!
フリースクールを勧めた校長も
フリースクールのスタッフも
ソーシャルワーカーも、救いの手を差し伸べるのは女性ばかりでした。
面白い視点ですね!

でも、プレシャスにとって最大の敵であったのは母親だし
生まれてきた「プレシャスの希望」そのものの子どもは男の子だったし
男性の看護士のいたわりにも救いを感じました。

うまくバランスをとっているようにも見えました。
返信する
男性嫌悪映画?! (クマネズミ)
2010-06-21 05:43:32
vicさん、実に貴重なコメントをいただき、心から感謝いたします。
おしゃるように、内田樹教授による「男性嫌悪映画」だとする見方は、大変「面白い視点」だと思います。
ただ、クマネズミは、内田氏の議論を全面的に受け入れているわけではありません。彼の見解には、評論家特有の“物事を図式的に割り切る姿勢”が見られ、そう簡単に言ってしまってもいいのかな、という感じがするのです〔そこには、内田氏の近著『日本辺境論』(新潮新書)で見受けられるのと同様な姿勢が窺われるところです〕。
というのも、元々、主人公が女性なのですから、彼女に関与するのが大部分女性になるのは、ある意味で当たり前のことでしょう〔米国のみならず日本でも、例えば女性犯罪者には、女性警官とか女性刑務官などが付くでしょう〕。
それに、vicさんがおっしゃるように、この映画では「男性の看護士のいたわり」も描かれています〔尤も、この点につき内田氏は、「2シーンだけ、台詞もわずか。プレシャスの成長を暖かく見守る「いい人」という記号的なかたちでしか物語に関与しない」と述べています。ですが、そう単純に割り切れるものでもないでしょう〕。
また、vicさんが述べられるように、「プレシャスにとって最大の敵であったのは母親」です〔この点につき内田氏は、「母だけは例外的に暴力的でエゴイスティックな悪女だが、彼女がこのような人間になったことについての責任も結局は「諸悪の根源」たる父に送り戻される」と書いているところ、それは物事の半面であって、彼女の責任に帰するところが多々あったはず、とも思われます〕。
さらに、vicさんの言われる「生まれてきた「プレシャスの希望」そのものの子どもは男の子」ながら、“ダウン症”でもあるという点の解釈も、「男性嫌悪映画」とする視点からはオカシナものになりかねません。
そういうことで、クマネズミも、vicさんがおっしゃるようにこの映画は「うまくバランスをとっている」のでは、と思いました。
そこで、ブログの記事においては、仮に内田氏の様に言えるとしてもとした上で、むしろ中心的な男性の描き方という点を他の映画と比べて議論した方が面白いのではと思って、邦画『川の底からこんにちは』を持ち出してみたわけです。
返信する
こんにちは (de-nory)
2010-06-24 12:29:17
クマネズミさん。
こんにちは。寄って頂いたようで、ありがとうございます。

男性嫌悪映画。
私も自分の記事の中で、「女性の方が楽しめるのでは…」と書きました。
多分、全てでは無いですが
⇒きっとクマネズミさんが感じているのと同じくらいの感じで。
そんな雰囲気を感じました。

返信する

コメントを投稿