![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/34/049d16174a6fb5a836e8967045891c0d.jpg)
『幸せパズル』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。
(1)映画はアルゼンチンのもので、同国の映画は、昨年は『瞳の奥の秘密』を見ましたが、なかなか印象深い作品でしたので、この映画もと期待しました。
ですが、映画は、殺人事件を巡って展開される『瞳の奥の秘密』とは打って変って、中年の主婦を巡るちょっとした出来事(まあホームドラマといえるでしょう)が描かれているにすぎません(原題Rompecabezas:英題Puzzule)。
でも、だからといって、つまらないというわけでは決してなく、むしろなかなか味わい深い、したたかな作品ではと思いました。
主人公となる主婦が、誕生日の贈り物としてジグソーパズルを親戚からもらって、試しにやってみたところ、その面白さにはまってしまい、ついには競技大会に出場し、優勝してしまうに至るというストーリーです。
とはいえ、いうまでもありませんが、映画は、そのような出来事を描くことだけが狙いではなさそうで、むしろジグソーパズルにのめり込む主人公を取り巻く人間関係の変化を子細に描き出したいのだと思われます。
一番の中心は、もちろん主人公の主婦マリア(マリア・オネット)と、彼女とペアを組むことのなる金持ちのロベルト(アルトゥーロ・ゴッツ)との関係でしょう。それと、彼女とその旦那フアン(ガブリエル・ゴイティ)との関係、さらには彼女と二人の息子との関係、があります。
主人公が、パズルにはまる前に占めていた家の中での位置が、物語の展開とともに微妙に変化していき、ラストになるとさらに変化が見られます。
簡単に言えば、物語の展開は次のようなものでしょう。
主婦のマリアは、料理等の家事をせっせとこなしているにもかかわらず、このところ、夫のフアンや2人の息子との間に溝ができている感じです(注1)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/04/2c097ee50743bfa1a2e0a5dc8c948e06.jpg)
そうしたところ、50歳の誕生日に贈られたジグソーパズルにはまり込んでしまい、挙句は、その競技大会に出場すべく、富豪のロベルトのところに密かに出かけて練習をするようになります(注2)。
そうなると、家族との溝は一層深まり出すものの(注3)、マリアとロベルトのペアは、とうとう大会で優勝してしまいます。
そこでもう一歩先へとなるところ、なんとか踏みとどまって(注4)、また夫たちもマリアの優勝を祝福し、そしてまたもとの家族関係を取り戻そうと皆が努めます(注5)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/20/aa3d789598159c25db4d162d330c68bb.jpg)
ラストでは、湖畔の土地で、マリアが一人で果物を食べている姿が映し出されますが、はたしてマリアの気持ちは天気のように晴れやかなのでしょうか?
マリアの役を演じる主演のマリア・オネットは、この映画で初めて見ましたが、自分の家でせっせと料理を作りながらも、他方でいそいそとロベルトのもとに通うという、一歩間違えば不倫関係になってしまいそうな微妙なところを、実にうまく演じているなと感心しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ad/5c20c55c8e4a3ce72b863d9790212311.jpg)
(2)普通の主婦にすぎないマリアがジグソーパズルに目覚める前兆となるのは、彼女の誕生日のホームパーティの際に、うっかり落としてしまった皿の破片を拾って、椅子の上で元の形になるように繋ぎ合わせようとしたことです。
そういうことがあってから偶然贈られたジグソーパズルを手にしたために、これは面白いに違いないと感じるものが内にあったのでしょう、ドンドンはまってしまうのです。
ところで、このジグソーパズルについては、粉川哲夫氏が、そのレビューで、「断片が組み合わさって全体を形成するジグゾーが一つのメタファーになっていないわけではないが、そのメタファーは、むしろ、人間の「欲望」(ガタリ/ドゥルーズ以後の)の形態と動態を示唆する。人は、ふと、ジグゾーの破片が欠如したような「欠乏」の経験(虚しさ)を感じ、それを埋めようとする。破片が埋まったとき、ハッピーな気持ちを経験する。が、ジグゾーにさまざまな(ほとんど無限に)セットがあるように、欲望の充足は、かぎりない。一つのセットを組み上げたら、また次のセットに挑戦すればよい。ジグゾーの破片の「欠如」も、いずれは埋めれれるべき「欠如」であって、欠けているのは一時的なものにすぎない」と述べています。
むろん、そうした見方もできるでしょうが、ジグソーパズルは、それが完成しても何か新しい絵を創造するわけのものではなく、予め描かれている絵を取り戻すにすぎないものだ、とも解釈できるのではないでしょうか(注6)。
主婦マリアに様々な出来事が起こりますが、結局はジグソーパズルと同じで、予め決められている位置にスポッと再度はまり込んで、元の構図が再生産されるだけのことにすぎない、と見ることもできるのではないでしょうか(注7)。
つまりは、粉川哲夫氏が、本作について、「この映画の面白さ、新しさは、マリアがロベルトと出逢い、やがて性的な関係を結ぶことになっても、それで夫との関係がダメになるわけではない――という雰囲気を映画として生み出した点だ」と述べていることも、ジグソーパズルの持つ意味合いそのものなのでは、と思えてきます。
(3)本作も、前回取り上げた『ツレがうつになりまして。』と同じように、『家族X』と関連付けられる面を持っています。
というのも、『家族X』では、家族内のコミュニケーションがうまくいかないのですが、その表れとして会話がないというだけでなく、妻の路子(南果歩)が時間をかけて作る料理に対して、夫の健一も長男の宏明も、ほとんど関心を示さなくなっているのです。
せっかく料理を作っておいても、帰りが遅くて食べなかったり、朝の忙しさで食べずに出かけて行ってしまったりして、結局は路子が一人で食べることになり、余ったものは捨てざるを得なくなってしまいます。
これなら、スーパーでお弁当を買ってきても同じじゃないとして、路子はいくつか買ってくるのですが、それも結局路子が全部食べてしまいます。
いったい、自分はこの家で何の位置も占めていないのでは、という思いに路子は囚われていきます。
翻って、本作の場合、マリアは、大勢が集まるホームパーティに際しても、すべての料理を自分で作るほどの力を持っています。にもかかわらず、夫フアンは、食事療法の観点からその料理に文句を言い、また息子たちもベジタリアン的なことを言い出したりして、長年の彼女の努力を評価しようともしません。
また、食事の際には、父親と息子達とで、マリアをそっちのけにして、サッカーの話に興じたりしてしまいます。
マリアの場合は、ジグソーパズルという興味の対象を見出したからいいようなものの、そうしたものが手近になければ、『家族X』の路子のように、ブチ切れて家を飛び出してしまうことになったかもしれません!
(4)福本次郎氏は、「物語は幸福な隷属に甘んじている専業主婦が味わう束の間の自由と、その変化に対応しきれない男たちの戸惑いを描く。ヒロインの繊細な胸の内をマリア・オネットがミニマルな感情表現で演じ、甘酸っぱい余韻を残す」として60点をつけています。
(注1)マリアは、郊外の湖の近くに持っている別荘用の土地を売却し、それで得たお金を息子にあげて住宅を購入してもらおうとしたところ、長男は自分で稼ぐから要らないと言い(元々、父親が携わっている家業を継がず、別のところで働きたいと考えています)、次男はそれでインドに半年ばかり旅行に行きたいと言い出す有様。
この家族は、『家族X』と違って、相互のコミュニケーションはあるとはいえ、実際にはバラバラになりかかっていると言えるでしょう。
(注2)主婦マリアと富豪のロベルトとの関係は、ジグソーパズル専門店で、競技大会出場のためにパートナーを求める案内ポスターを見たのが切っ掛けです。
マリアの方からロベルトを訪ねると、ロベルトは、マリアのやり方が普通とは違うものの大変な才能があることを認め、ペアを組んで大会に出ようと誘い、マリアも、暇を盗んで(いうまでもなく、フアンの目から隠れて)ロベルトの家に通って練習を積むことになります。
なお、映画によれば、ジグソーパズルの普通のやり方は、先ず枠を作ってから中をこしらえていくというもの、ところがマリアの方法は、中からドンドン作って行ってしまいます。でも、こうしたやり方をそのまま続けた結果、彼らのペアは、全国大会で優勝してしまうのです。
(注3)フアンは、「お前は、パズル漬けになって、俺の食事療法のことも考えないし、息子が探した家を見ようともしない」などとマリアを非難し、午前3時過ぎまでパズルをやっているときには、そのパズルを壊してしまったりします。
(注4)国内大会に優勝した日、マリアはロベルトとベッドをともにしますが、世界大会にドイツへ一緒に行こうとの誘いは断って、ロベルトとの関係もそれきりにしてしまいます。
ただ、帰宅する途中で涙が出てきたことや、ドイツ行きの航空券を破棄しないで残しておいていることなどから、未だ未練は残っているのかもしれません。
(注5)マリアは、家の倉庫の片づけに精を出したりします。
(注6)映画では、マリアが取り組むジグソーパズルには、エジプトの「王妃ネフェルティティ」(イクナートンの正妃)が描かれています。
(注7)劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事おいて、本作のナタリア・スミルノフ監督は、「映画づくりはジグソーパズルと似ているのでは?」との質問に対し、「もちろん!ただし、百万ピースのパズルですね」云々と述べていますが、いくら一つ一つのピースをよく知らないと全体が完成しない点が似ているとしても、映画作品の場合は、元の絵に相当するものが存在せず、できあがったものがオリジナルだ、という点でジグソーパズルとは異なる、とも言えるでしょう。
★★★★☆
象のロケット:幸せパズル
(1)映画はアルゼンチンのもので、同国の映画は、昨年は『瞳の奥の秘密』を見ましたが、なかなか印象深い作品でしたので、この映画もと期待しました。
ですが、映画は、殺人事件を巡って展開される『瞳の奥の秘密』とは打って変って、中年の主婦を巡るちょっとした出来事(まあホームドラマといえるでしょう)が描かれているにすぎません(原題Rompecabezas:英題Puzzule)。
でも、だからといって、つまらないというわけでは決してなく、むしろなかなか味わい深い、したたかな作品ではと思いました。
主人公となる主婦が、誕生日の贈り物としてジグソーパズルを親戚からもらって、試しにやってみたところ、その面白さにはまってしまい、ついには競技大会に出場し、優勝してしまうに至るというストーリーです。
とはいえ、いうまでもありませんが、映画は、そのような出来事を描くことだけが狙いではなさそうで、むしろジグソーパズルにのめり込む主人公を取り巻く人間関係の変化を子細に描き出したいのだと思われます。
一番の中心は、もちろん主人公の主婦マリア(マリア・オネット)と、彼女とペアを組むことのなる金持ちのロベルト(アルトゥーロ・ゴッツ)との関係でしょう。それと、彼女とその旦那フアン(ガブリエル・ゴイティ)との関係、さらには彼女と二人の息子との関係、があります。
主人公が、パズルにはまる前に占めていた家の中での位置が、物語の展開とともに微妙に変化していき、ラストになるとさらに変化が見られます。
簡単に言えば、物語の展開は次のようなものでしょう。
主婦のマリアは、料理等の家事をせっせとこなしているにもかかわらず、このところ、夫のフアンや2人の息子との間に溝ができている感じです(注1)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/04/2c097ee50743bfa1a2e0a5dc8c948e06.jpg)
そうしたところ、50歳の誕生日に贈られたジグソーパズルにはまり込んでしまい、挙句は、その競技大会に出場すべく、富豪のロベルトのところに密かに出かけて練習をするようになります(注2)。
そうなると、家族との溝は一層深まり出すものの(注3)、マリアとロベルトのペアは、とうとう大会で優勝してしまいます。
そこでもう一歩先へとなるところ、なんとか踏みとどまって(注4)、また夫たちもマリアの優勝を祝福し、そしてまたもとの家族関係を取り戻そうと皆が努めます(注5)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/20/aa3d789598159c25db4d162d330c68bb.jpg)
ラストでは、湖畔の土地で、マリアが一人で果物を食べている姿が映し出されますが、はたしてマリアの気持ちは天気のように晴れやかなのでしょうか?
マリアの役を演じる主演のマリア・オネットは、この映画で初めて見ましたが、自分の家でせっせと料理を作りながらも、他方でいそいそとロベルトのもとに通うという、一歩間違えば不倫関係になってしまいそうな微妙なところを、実にうまく演じているなと感心しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ad/5c20c55c8e4a3ce72b863d9790212311.jpg)
(2)普通の主婦にすぎないマリアがジグソーパズルに目覚める前兆となるのは、彼女の誕生日のホームパーティの際に、うっかり落としてしまった皿の破片を拾って、椅子の上で元の形になるように繋ぎ合わせようとしたことです。
そういうことがあってから偶然贈られたジグソーパズルを手にしたために、これは面白いに違いないと感じるものが内にあったのでしょう、ドンドンはまってしまうのです。
ところで、このジグソーパズルについては、粉川哲夫氏が、そのレビューで、「断片が組み合わさって全体を形成するジグゾーが一つのメタファーになっていないわけではないが、そのメタファーは、むしろ、人間の「欲望」(ガタリ/ドゥルーズ以後の)の形態と動態を示唆する。人は、ふと、ジグゾーの破片が欠如したような「欠乏」の経験(虚しさ)を感じ、それを埋めようとする。破片が埋まったとき、ハッピーな気持ちを経験する。が、ジグゾーにさまざまな(ほとんど無限に)セットがあるように、欲望の充足は、かぎりない。一つのセットを組み上げたら、また次のセットに挑戦すればよい。ジグゾーの破片の「欠如」も、いずれは埋めれれるべき「欠如」であって、欠けているのは一時的なものにすぎない」と述べています。
むろん、そうした見方もできるでしょうが、ジグソーパズルは、それが完成しても何か新しい絵を創造するわけのものではなく、予め描かれている絵を取り戻すにすぎないものだ、とも解釈できるのではないでしょうか(注6)。
主婦マリアに様々な出来事が起こりますが、結局はジグソーパズルと同じで、予め決められている位置にスポッと再度はまり込んで、元の構図が再生産されるだけのことにすぎない、と見ることもできるのではないでしょうか(注7)。
つまりは、粉川哲夫氏が、本作について、「この映画の面白さ、新しさは、マリアがロベルトと出逢い、やがて性的な関係を結ぶことになっても、それで夫との関係がダメになるわけではない――という雰囲気を映画として生み出した点だ」と述べていることも、ジグソーパズルの持つ意味合いそのものなのでは、と思えてきます。
(3)本作も、前回取り上げた『ツレがうつになりまして。』と同じように、『家族X』と関連付けられる面を持っています。
というのも、『家族X』では、家族内のコミュニケーションがうまくいかないのですが、その表れとして会話がないというだけでなく、妻の路子(南果歩)が時間をかけて作る料理に対して、夫の健一も長男の宏明も、ほとんど関心を示さなくなっているのです。
せっかく料理を作っておいても、帰りが遅くて食べなかったり、朝の忙しさで食べずに出かけて行ってしまったりして、結局は路子が一人で食べることになり、余ったものは捨てざるを得なくなってしまいます。
これなら、スーパーでお弁当を買ってきても同じじゃないとして、路子はいくつか買ってくるのですが、それも結局路子が全部食べてしまいます。
いったい、自分はこの家で何の位置も占めていないのでは、という思いに路子は囚われていきます。
翻って、本作の場合、マリアは、大勢が集まるホームパーティに際しても、すべての料理を自分で作るほどの力を持っています。にもかかわらず、夫フアンは、食事療法の観点からその料理に文句を言い、また息子たちもベジタリアン的なことを言い出したりして、長年の彼女の努力を評価しようともしません。
また、食事の際には、父親と息子達とで、マリアをそっちのけにして、サッカーの話に興じたりしてしまいます。
マリアの場合は、ジグソーパズルという興味の対象を見出したからいいようなものの、そうしたものが手近になければ、『家族X』の路子のように、ブチ切れて家を飛び出してしまうことになったかもしれません!
(4)福本次郎氏は、「物語は幸福な隷属に甘んじている専業主婦が味わう束の間の自由と、その変化に対応しきれない男たちの戸惑いを描く。ヒロインの繊細な胸の内をマリア・オネットがミニマルな感情表現で演じ、甘酸っぱい余韻を残す」として60点をつけています。
(注1)マリアは、郊外の湖の近くに持っている別荘用の土地を売却し、それで得たお金を息子にあげて住宅を購入してもらおうとしたところ、長男は自分で稼ぐから要らないと言い(元々、父親が携わっている家業を継がず、別のところで働きたいと考えています)、次男はそれでインドに半年ばかり旅行に行きたいと言い出す有様。
この家族は、『家族X』と違って、相互のコミュニケーションはあるとはいえ、実際にはバラバラになりかかっていると言えるでしょう。
(注2)主婦マリアと富豪のロベルトとの関係は、ジグソーパズル専門店で、競技大会出場のためにパートナーを求める案内ポスターを見たのが切っ掛けです。
マリアの方からロベルトを訪ねると、ロベルトは、マリアのやり方が普通とは違うものの大変な才能があることを認め、ペアを組んで大会に出ようと誘い、マリアも、暇を盗んで(いうまでもなく、フアンの目から隠れて)ロベルトの家に通って練習を積むことになります。
なお、映画によれば、ジグソーパズルの普通のやり方は、先ず枠を作ってから中をこしらえていくというもの、ところがマリアの方法は、中からドンドン作って行ってしまいます。でも、こうしたやり方をそのまま続けた結果、彼らのペアは、全国大会で優勝してしまうのです。
(注3)フアンは、「お前は、パズル漬けになって、俺の食事療法のことも考えないし、息子が探した家を見ようともしない」などとマリアを非難し、午前3時過ぎまでパズルをやっているときには、そのパズルを壊してしまったりします。
(注4)国内大会に優勝した日、マリアはロベルトとベッドをともにしますが、世界大会にドイツへ一緒に行こうとの誘いは断って、ロベルトとの関係もそれきりにしてしまいます。
ただ、帰宅する途中で涙が出てきたことや、ドイツ行きの航空券を破棄しないで残しておいていることなどから、未だ未練は残っているのかもしれません。
(注5)マリアは、家の倉庫の片づけに精を出したりします。
(注6)映画では、マリアが取り組むジグソーパズルには、エジプトの「王妃ネフェルティティ」(イクナートンの正妃)が描かれています。
(注7)劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事おいて、本作のナタリア・スミルノフ監督は、「映画づくりはジグソーパズルと似ているのでは?」との質問に対し、「もちろん!ただし、百万ピースのパズルですね」云々と述べていますが、いくら一つ一つのピースをよく知らないと全体が完成しない点が似ているとしても、映画作品の場合は、元の絵に相当するものが存在せず、できあがったものがオリジナルだ、という点でジグソーパズルとは異なる、とも言えるでしょう。
★★★★☆
象のロケット:幸せパズル
マリアのような不満を持つ奥さんは日本だっていくらでもいると思うんですよ。で、仮にそんな奥さんが自分なりの1ピースを見つけても、だからと言って即家族がバラバラにはならないですよね、現実的には。
それだけマリアたち一家の存在は私たちにとっても身近な出来事なのではないかと感じました。つまり!私の妻や母も同じことを考えている可能性があるかもという…(笑)
きっと一家はまた元通りになると思います。でも今度はマリアは自分を確立している、それは家族により大きな幸せをもたらすと信じます。
まさに、クマネズミの「妻や母も同じことを考えている可能性があるかも」ですが、男性陣の一隅を汚す者としては、女性陣が「自分なりの1ピースを見つけても、だからと言って即家族がバラバラにはならない」と信じたいものです!
それまで不満に思っていた家族の態度も許せたりするんですよね
妻から爆弾発言があったら旦那様にはうろたえず落ち着いて妻を受け入れ妻の言葉に耳を貸して欲しいです
お願いです^^
「妻から爆弾発言があったら旦那様にはうろたえず落ち着いて妻を受け入れ妻の言葉に耳を貸して」との誠に貴重なアドバイス、あの時そうすればと身にしみて感じる今日この頃です!
多分、陰惨な殺人事件が起こるのはこの映画の後です。
> ドイツ行きの航空券を破棄しないで残しておいていることなどから、未だ未練は残っているのかもしれません。
確か、換金可能と言っていたので未練だけとも言えないでしょう。それを渡す渡さないでもめていたので、知らずに渡された体を装ってくれたことは彼の優しさであり、未練と言うより、その彼の優しさへの思い出として取っておいてるのかもしれません。
「陰惨な殺人事件」が起きれば、今や判事のイレーネと引退したベンハミンの再登場という事態になるのかもしれません!
それはさておき、「換金」の話は聞き漏らしてしまいました。そうであれば、マリアが航空券を残しておくのは、おっしゃるように、ロベルトの「優しさへの思い出」とも解釈出来るでしょう。