映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

一命

2011年10月30日 | 邦画(11年)
 『一命』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)原作の滝口康彦著「異聞浪人記」(注1)を映画化したものとしては、小林正樹監督の『切腹』(1962年)があり、それに甚だ感銘を受けたことがあり、また『十三人の刺客』の三池崇史監督の作品ということもあって、映画館に行ってみました。

 原作では、結核に冒された妻や子供の治療代を“狂言切腹”で手にしようとした浪人・千々岩求女の哀れな顛末と、その理不尽さを暴こうとした義父・津雲半四郎の誇り高き姿が簡潔に描き出されています。
 その原作を、本作はどのように料理しようとしたのでしょうか?

 この点を巡っては、本作が、『切腹』をオリジナルとするリメイクとはされておらず(注2)、あくまでも原作との関係が強調されていることが注目されます(注3)。
 すなわち、『切腹』(最近、DVDを借りてきて、再度見てみました)は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしていると言えると思います(注4)。

 具体的には、例えば、『切腹』のラストでは、津雲(仲代達矢)が刀を抜いて、井伊家の家臣たちと斬り合いを演じ、4名を斬り殺したりするのですが、本作では、津雲(市川海老蔵)は、なんと竹光を抜いて家臣団と対峙するのです(注5)。
 また、『切腹』における斎藤勘解由は、原作に随分と近い姿で描かれているように思われます。原作においては、勘解由は、津雲半四郎が玄関先に現れた際の委細を聞くと、「またも来おったか、性こりもなく」と言って「にやりと笑った」とありますし(P.9)、また庭先で津雲の話を聞いたあとにも、「勘解由の口もとには、すぐにふてぶてしい笑いが刻まれた」と述べられているところ(P.35)、『切腹』における勘解由の描き方はほぼその通りであり、さらに勘解由を演じるのが三國連太郎であることがその感を一層強くします。

 他方、本作における斎藤勘解由は、役所広司が演じることもあって、一切そのような素振りは見せませんし、津雲と勘解由とのやりとりの内容自体は、両作でそれほど異なるとは思われませんが、勘解由は大層真摯に対応しているフシがうかがわれます。
 それに、勘解由は、足に障害があるような歩き方までするのです(注6)。



 モット言えば、自宅に戻ってきた千々岩求女の遺体には、井伊家で求女に差し出された菓子が添えられていたところ、妻の美穂満島ひかり)は、それをわざわざ死んでいる子供の口につけてから自分の口に入れた後、懐剣で自害するのですが、あたかも津雲に対して、井伊家への復讐などするな、と言っているような感じです。

 こんなところから、本作は、『切腹』とはかなり異なる作品ではないかとも考えられるところです。
 ただ、そうだからと言って、本作に対する評価が高まるとは直ちには言えない気もします。
 やはり、『切腹』におけるように、「復讐譚」とする方がスッキリと分かりやすいですし、ラストの殺陣の場面も、竹光と真剣の対峙では見ている方で拍子抜けしてしまいます。
 また、『切腹』では津雲(仲代達矢)と沢潟彦九郎丹波哲郎)とのチャンバラシーンが一つの山場となっているところ、本作ではそうしたシーンはいともアッサリと描かれてしまっているだけなのも、なにか物足りない感じがしてしまいます(注7)。

 また、『十三人の刺客』と比べると、冒頭に大名屋敷の大きな門が出てくるところ(『十三人の刺客』は、そこで家老が“切腹”をするところから始まります!)、事件の発端に女性が絡んでいることとか(本作では妻の満島ひかり、『十三人の刺客』では谷村美月と“芋虫”状態になった女)、少人数(本作では1人ですが)が多数を相手に挑みかかること、など類似する点があるものの、肝心の殺陣の場面では『十三人の刺客』に及びませんでした(義父の刀が竹光では致し方ありません!)。

 とはいえ、“狂言切腹”でありながら切腹する破目に追い込まれてしまう若い浪人を演じる瑛太も、なかなかよくやっていると思います。



 また、こうした時代劇となれば、その義父を演じる市川海老蔵は抜きんでていると思いました(ところどころは、台詞回しやしぐさが余りに歌舞伎調になるフシもうかがえるものの、大した役者だなと思います。とはいえ、現代劇ではどうなのでしょうか?)。



 さらに、千々岩求女の妻の美穂を演じる満島ひかりは、これまでの役柄とは全く違って、若い妻の役を実に初々しくこなしていますが、やはり『愛のむきだし』や『川の底からこんにちは』のような元気のいい彼女を見たいものだと思いました。



 なお、この映画には3D仕立てのものもありますが、3Dは『トランスフォーマー3』でもう結構と思いましたので、最初から見る気はありませんでした。

(2)この物語には、思いつきめいた事柄で恐縮ですが、いくつか問題点があるように思われます。

a.物語の背景として(注8)、大名改易に伴って大量の失業者(浪人)が出たとされますが(注9)、津雲半四郎と千々岩求女の場合、自業自得の面もあるとはいえ、なぜあれほど酷く困窮しているのだろうかと、いささか不思議な感じがします。
 というのも、例えばこのサイトを見ると、改易された大名家の家臣が他家に仕える例がないわけではなさそうですし、そうでない場合にも、津雲は、剣術の腕前は相当のものがあるのですから、道場を開くこともできたでしょうし、千々岩も、高い教養を身に着けているのですから、寺子屋の教師としてもっと活躍できたように思えます。

 それに、彼らは、福島家が改易されたときに、どこに住んでいたのでしょうか?本作では、広島城とか千々岩家の屋敷が描かれていることからすると、広島の城下にある程度の広さを持った屋敷を所有していたものと思われます。主家の改易に伴い、その屋敷にいられなくなったのかもしれませんが、どうしてわざわざ江戸まで出てくる必要があったのか、よくわかりません(広島に居さえすれば、親類縁者もいることでしょうし、ある程度の暮らしは維持できたのではないでしょうか?)(注10)。

b.原作でも本作でも、巷では「狂言切腹」が流行り出しているとされているところ(注11)、口上として言われるものには飛躍がある感じで(注12)、果たしてこんな言い草で切腹が認められるものなのか、疑問に思えるところです。

c.原作では(『切腹』も同様ですが)、本作と異なり、浪人・求女が苦しさの余り舌を噛み切ってから介錯したとされていますが(注13)、それではわざわざ介錯人を設ける意味がなく、また作法通りとも言えないのではと思われます。
 それはともかく、井伊藩としては、こうした「狂言切腹」の再来を防ぐべく求女の口上に従うとしても、切腹の作法どおり取り行えば済むところを、なぜあのように凄惨な結果を招くことになってしまったのか、責任問題が発生するものと思われますが、そんな気配は映画からは窺えません。

d.特に本作では、介錯人・沢潟彦九郎がなかなか刀を振り下ろそうとしないのに業を煮やした江戸家老・斎藤勘解由が、自分自身で求女の介錯をしますが、これは単に作法通りのことをしたまででしょう。
 ただ、勘解由は、そこまで本件にかかわるのであれば、作法どおり行動しなかった沢潟彦九郎らを処罰すべきではなかったでしょうか?そうはせずにそのままにしておいたために、津雲の登場となったものと思われます。
 井伊藩における津雲の狼藉の責任は、ひとえに勘解由の責任と見ることもできるのではないでしょうか(注14)?

e.にもかかわらず、津雲の非難は、沢潟彦九郎らの求女切腹に直接かかわった者にだけ向けられて、その場の全体責任者である斎藤勘解由には向けられてはいないように見えます(この点にも、本作の復讐譚でないとする姿勢が表れているように思われますが)。

f.それに、沢潟彦九郎らに対しその理不尽な対応の仕方を非難するのであれば、津雲は、彼らに武士にあるまじき恥辱を与えるべきであり、単に髻を切っただけでは不十分ではなかったでしょうか?現に、3人とも、“武士らしく”切腹しているのですから!



(3)なお上記(1)で、“映画『切腹』は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしている”、と申し上げましたが、だからといって、本作が『切腹』とマッタク無関係に制作されているかというと、その点は大いに疑問です。

 このあたりについては、ブログ「お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法」の10月19日のエントリで展開されているブログ管理者の「Kei」さんの見解は、実に鋭い点を衝いていると思われます。

 すなわち、ブログ管理者の「Kei」さんは、「なんとまあ、橋本忍の脚本をほとんどなぞっている。井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成、最後の大乱闘…と、ほとんど同一脚本と言っても過言ではない。/特に、原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加したり、これも原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開したり、といった橋本忍がオリジナルで改変し、膨らませた部分がそのまま登場している。/半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す、これも原作にない橋本オリジナルの重要シーンも、若干変えてはいるがちゃんと盛り込まれている…等、これではどう見ても橋本忍脚本のコピーである」と述べておられます。

 ただ、「井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成」といったものは、滝口康彦の原作の通りであって、ことさら橋本忍のオリジナルだとはいえないのでは、と思われます。
 更に、「原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加した」とされる部分は、原作でもほぼ中央に置かれており、「竹光で切腹する残酷なシークェンス」もそれなりに原作で描かれていると思われます。

 とはいえ、「原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開」したり、「半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す」場面などは、本作にも取り入れられているところです。
 それだけでなく、千々岩求女が切腹をする井伊家藩邸の中庭とか、求女と美穂が暮らす廃寺の様子なども、『切腹』と同じような感じになっていると思われます。

 そんなことから、本作は、大枠のところでは『切腹』に依拠している、あるいは相当の影響下にあると考えられるところです。
 ただ、本作を復讐譚としないとするという基本的コンセプトを重要視するとすれば、「Kei」さんがおっしゃるように「原脚本:橋本忍、潤色:山岸きくみ」とまで記する必要があるのか疑問に思えるところです。

(4)渡まち子氏は、「終盤のクライマックスの大立ち回りは、リアリティよりも、映像美を優先した独創的なものだ。実年齢で5歳しか違わない市川海老蔵と瑛太を父子役に据えるの は、あまりに無理があるのだが、無理を押してまで、海老蔵の所作の美しさを優先させたことを見れば、様式美へのこだわりが理解できる」として65点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「倒産した会社の元社員が日雇派遣に転職したり、生活費や家のローンに困った挙句に心中を図るなど、21世紀の現代でもありそうな題材で求女らの置かれた状況が非常に身につまされる作品だった」として60点を付けています。



(注1)講談社文庫『一命』所収。

(注2)劇場用パンフレットの「カンヌ国際映画祭ルポ」と題する記事によれば、三池監督は、「『十三人の刺客』はリメイクでしたが、『一命』は再映画化です」と述べています。

(注3)ちなみに、米国映画『モールス』は、スウェーデン映画『ぼくのエリ』をオリジナルとするリメイク作だとされますが、実際のところは、映画のタイトルからしても原作小説(『モールス』)を再映画化したものと考えるべきだと考えます。

(注4)上記「注2」で触れた「カンヌ国際映画祭ルポ」によれば、「今なぜこの作品を?」との記者質問に対し、三池監督は、「原作の津雲半四郎は誰も殺さないんです。彼は復讐ではなく、武士の本分というものを正しに行った。……そこで仇を斬っちゃったら終わりなんですよ。斬ってしまったら、何を言ったって復讐の連鎖を呼ぶ。……」と言います。
 また、脚本の山岸きくみ氏も、「この映画は復讐譚ではない。ですから半四郎は求女同様、自分をゼロにして竹光で対峙する、その姿を描きたかったのです」と述べています。

(注5)原作では、「津雲半四郎が、乱刃に斬り苛まれて息絶えた」とだけ述べられています(P.39)。

(注6)本作における斎藤勘解由に足の障害があるのは、関ヶ原の戦いによるものと想像され、津雲半四郎と同様、彼に実戦経験があるところを強調するためだと思われます(劇場用パンフレットにおいて、脚本の山岸きくみ氏は、「上映時間の関係などもあり、本編の中では描かれてい」ないものの、「この2人は関ヶ原でアイコンタクトをしていた……という設定で書き進めていきました」とまで述べています)。

(注7)ただ、この点に関し、『切腹』には疑問があります。丹波哲郎演じる沢潟彦九郎は神道無念一流の達人とされ、津雲半四郎も随分と手こずりますが、そうした立派な武人であるなら、千々岩求女の切腹に際し竹光の脇差しを使わせるような理不尽なことをさせなかったと思われ、また津雲に髻を切られたなら、恥辱の余りその場で直ちに自害したのではないかと推定されるところです。それを、おめおめと自宅に戻って、病と称して隠れ潜んでいたとは、剣術の達人とも思えません。
 この点は、本作『一命』における沢潟(青木崇高)の描き方の方が、受け容れやすいのではと思われます。

(注8)時代設定は、原作が「寛永年間」としているところ、本作では「寛永十一年」(1634年)と特定されています。

(注9)Wikipediaによれば、福島正則は、元和五年(1619年)に、安芸・備後50万石を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡及び越後国魚沼郡〔4万5,000石(高井野藩)〕に減封されています。

(注10)原作には、「主家没落ののち、愛宕下の藩邸を立ち去る時は、美穂はまだあどけない少女にすぎなかった」とあり(P.26)、これからすると、津雲や千々岩は江戸詰めの家臣ではなかったか、とも思われるのですが。

(注11)原作には、「元和のなかばから、寛永の初めにかけて、改易、あるいは厳封された諸侯の名は、数えるに暇もないくらいであった。そして、主家の廃絶によって、いやおうなく路頭に投げ出されたおびただしい浪人の群は、うたかたのようにはかない仕官の望みを抱いて、その大部分が江戸へ集まっているのである」(P.12)とあります。

(注12)原作では、「今日まではなんとか糊口をしのいできたものの、もはやこれ以上の辛抱はなりかねる。このままむなしく陋巷に呻吟していつまでも生き恥をさらすより、武士らしく、いっそいさぎよく腹かっさばいて果てようと思う故、晴れの死場所に、願わくは御当家の玄関先を貸してはいいただけまいか」といったような意味合いのことを津雲半四郎が述べたとされています(P.9)。
 ただ、こうした口上を述べる浪人と「御当家」との間に何らの関係もないのが普通でしょうから、いくら面倒なことを避けたいとしても、上に取り次ぐまでもなく、門番や家臣が直ちに追い出すべきところではないでしょうか?

(注13)「周囲からどっとおこる、嘲罵の渦の中で求女が舌を噛みちぎった時、はじめて解釈人の白刃がひらめいたのである」(P.25)。

(注14)本作においては、江戸家老・斎藤勘解由は、沢潟彦九郎に対し、「どんな輩であれ、当家に参ったのだ。礼は尽くせ」と命じてますが、沢潟彦九郎らのやり方は「礼を尽く」したものとなっていないように思われます。従って、そのことについて、沢潟らを処罰すべきではなかったでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:一命