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宝塚にプロ球団 100年前に

2024年08月31日 | ニュース

2024/08/30 読売新聞オンライン

プロ野球の前史を彩った宝塚運動協会の選手ら。ユニホームの胸には頭文字「T」がある

熱戦が展開された宝塚大運動場。コンクリート製のスタンドがあり、1万人を収容できたという

大劇場そば拠点「宝塚運動協会」

100年前、宝塚に関西初となるプロ野球チームが誕生した。「宝塚運動協会」。宝塚大劇場近くに建てられた球場を本拠に、同じ年に開場した甲子園球場(西宮市)とともに草創期の野球人気を支えた。わずか5年で姿を消した球団の足跡をたどった。

通算255勝 5年で幕 草創期支え

 ■日本で3番目

阪急文化財団(大阪府池田市)が、チームの主将で捕手として活躍した片岡勝氏の遺族から資料提供を受けるなどし、調査してきた。

1920年、早稲田大学野球部OBらが、早慶戦など学生野球人気の高まりを受け、東京で日本初のプロ球団「日本運動協会」を設立。芝浦球場を本拠地に活動したが、23年の関東大震災後、解散に追い込まれた。

チームを引き受けたのが、阪急東宝グループの創業者、小林一三。1万人収容の宝塚大運動場(宝塚球場)を拠点に24年2月、宝塚運動協会を創設した。日本で3番目のプロ球団だった。

実業団の強豪「大毎野球団」との対戦は人気カードとなり、朝鮮半島や中国に遠征したほか、米国の大学チームを招いて対抗戦を開くなど、一時代を築いた。

財団の正木喜勝学芸課長は「プロ野球の前史を担う存在だった」と言う。

■選手生き生き

若い選手たちは球場近くの合宿所で暮らした。練習は午前10時~午後1時半、午後3~5時には簿記や英語の授業を受けた。給料をもらうと大阪までレコードを買いに行った。

住民は選手たちに温かい目を向けた。当時のスポーツ雑誌「野球界」は「宝塚町民の協会軍を愛する念は非常に強かった」と記す。冬にも試合があり、スタンドに「降雪 霏々ひひ たる中に泰然として試合を注視する女性ファン」がいたという。 

住民は選手たちに温かい目を向けた。当時のスポーツ雑誌「野球界」は「宝塚町民の協会軍を愛する念は非常に強かった」と記す。冬にも試合があり、スタンドに「降雪 霏々ひひ たる中に泰然として試合を注視する女性ファン」がいたという。

■紡いだ歴史

しかし、29年にライバルの大毎が解散し、チームは終幕を迎える。通算成績255勝104敗6分け。「野球界」では、「発展の中途で挫折したのは野球界の一大恨事」としつつ、「武庫河畔に培われた職業野球の精神」は「本邦職業野球樹立のマイル・ストーンたる事を信じて疑わない」との記事が載った。

その通りに7年後、阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)につながる「阪急」が発足。阪急は西宮球場が完成するまで、宝塚球場に本拠地を置いた。

球場の跡地は、宝塚映画製作所や宝塚ファミリーランドと姿を変え、歴史を紡いだ。現在は、関西学院初等部の校舎などが立ち並んでいる。 

誘致の小林一三「先見の明」

市在住の作家・増山さん 

宝塚市在住の作家、増山実さん(65)はデビュー作「勇者たちへの伝言」の執筆の際に宝塚運動協会の存在を知り、驚いたことを覚えている。

作品は、西宮球場に本拠を置いた阪急ブレーブスを巡る昭和の人間模様がテーマ。宝塚運動協会で朝鮮半島出身の選手が活躍していたことにヒントを得て、この選手をイメージし、北朝鮮帰還事業にも触れた。

協会があった時代は学生野球が花形で、スポーツを商売にすることへの批判があった。「大リーグにヒントを得たのだろうが、宝塚にプロ野球チームを誘致した小林一三は先見の明があった」と評する。

1世紀が過ぎ、「宝塚市民でも球場や球団のことを知る人は少ない。100周年の今年、プロ野球の原点が見直されていい」と語る。

 

 

 

 

 

 

 

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