半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

花見をするのは町の人

2017年04月06日 | 農的体験・生活
東京では先週から桜が満開だそうですが、この辺りでは今日で9分咲き。

明日、あさっては満開でしょう

花見は月曜日にやったのですが、その時は1分咲き

明日、明後日、しあさってと色々あり、しいていえば明後日の午前しか空いていないのですが、今年は満開の桜の下での花見は出来ないかな~。

なんて話を農家さんにしてみたら、みんな「俺らは花見なんかしないぞ」と言うのです

「えっ、そうなんですか」とびっくりしている私に対し、「花見をするのは町の人だろうな。俺らはしないよ」とそこにいた農家さん達は同じ反応なのです。


「俺の家の前に桜はあるけど、別にいつも見ているし、わざわざ見にいくとか酒を飲んだりはしねぇぞ」

「俺もしないな。まあ、いつも通る道に山桜があって、それはきれいだな~ってみることはあるけどな」

「おう、俺も山桜は見るけど、あれはきれいだよな」

「まあ、忙しいっていうのもあるけどな。まあ町の人だけだろうよ」

という会話がされて、びっくり

花見というのは、「町の人」の文化だったのですね~。


私からすれば、日本人はみんな花見をするものだと思っていましたが、「桜は確かにきれいだよな。でも花見はしねぇな」という農家さんからすれば「町の人は違うよな」ということなんでしょうね。

文化の違いってこういうところにあるんですよね。

自分が当たり前と思っていたことが、そうじゃない。

だからどう、というほどのことではないのですが、私にとっては「へ~」という発見でした
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「教え」は争いの元にもなる

2017年04月02日 | 自分の時間
古事記の小野先生という方の講座に今年、久々に出たことから、ちょっと思ったことを。

世の中の争いに宗教戦争があります。

世界的な宗教戦争は、実際は経済に絡んだものだったり、政治に力で内部分裂をしかけるよう外部が仕掛けた宗教戦争もありますから、一概に言えませんが、例えば、家が代々宗教をやっていて、こちらにその教えをさも当たり前に素晴らしいものだからやりなよ、と言ってくる人もいます。

政治的に、意図的に、教えや儀式を勧めてくる人もいれば、純粋にそれが良いと思って勧めてくる人もいます。

あるいは、飛び込みで良くエホバの証人とかきますよね。


仏教の場合は日本に根付いているので、その教義を押し付けてくる人はお目にかかったことはありませんが、ただ、宗派によって意見が食い違うのは、田舎にいると良く感じます。

「ブッダは死後の世界がどうだなんて1つも言っていないんだよ。俺ら禅宗の者から言わせれば、葬式も実際は意味が無いんだよ。まあ習慣にあわせてやっけどな。仏教は生きている人の教えなんだよ」という話を聞くと、「なるほど~」と思う一方で、他の宗派や神道と合体した先祖崇拝の仏教とは違うものもあるんだな~と知るわけです。

で、たまたま私は「古事記のこころ」という著作がある小野先生の講義にたまに行くご縁を得たので「神道」について少しかじったのですが、それを聞きながら、また普段の生活、あるいは新宗教を家族でやっているのを見ていたりすると思うことがあるのです。

それは、「教え」というのは、生きていく上で必要。
「教え」があることで、それを生きていく上での基盤になり、人は安心して生きていける。
しかし、「教え」というものを「信じる」からこそ、自分に確固たるものが出来るということは、一方で、その「教え」以外にものは受け入れにくくなる、ということ。

信じることで、心の安定がもたらされるわけですが、それを「広めよう」とか次の行動に移る時に、「相手の気持ち」を考えない人もいるわけです。

そんなことを考えると、小野先生の「神道というのは宗教じゃなく「道」だ」という見解で観た場合、「あぁ、なるほど、だから2000年以上続いてきたんだな」とわかります。

神道には明確に「教え」を示しません。
それは1人1人の心で感得するもので、自然やかみさまに感謝して生きること。

職人の道、芸術家の道、かみさまへの道、それぞれ道というのは「どう生きるか」ということ、それは以心伝心で言語化が出来るものではない、というところがまた難しく、また深いわけですが。

きちんとした教えがある方が、理解が進み、広がります。
言語化がされていないと、広がりが見えない分、批判や攻撃をされること、あるいは他を攻撃することも少なくなります。
あくまで自分の生き方の問題であって、1人1人が生かされていることへの感謝を思って、その感謝の心から自分が離れるたびに、祓って祓って、というのが神道らしいのです。

決してこれは日本の神道ではなく、いわゆるアミニズムもそうですが、世界各国で原住民というのでしょうか、その地域に根差して生きて来た民族のほとんどが持っている信仰です。

その地域の自然にかみさまを見て、先祖はかみさまになり、自分たちもその先祖やかみさまとつながっている。
毎日、そのかみさまや先祖に自分たちと同じように食べ物をお供えし、お祈りし、感謝の祭りを収獲の時などに行う。
その地域で出来た自然の恵みから衣食住をまかなって生きていて、その恵みに感謝をして生きてきたわけです。

原始的な宗教といえば大体同じだと思うのですが、これは原始的に生きてきた時代は世界中の民族誰もがやっていたことのようです。

そこから唯一絶対神や唯一絶対の教え、というのではなく、その地域でその人々が生きていく上で、自然とつながって畏敬の念をもって感謝して、という生き方そのものなんですよね。

だから川の神様、お日様の神様、畑の神様、と自然を神様としていた。

だから、明確な教えというより、自然への畏敬の念、生かされていることへの感謝、という原始的で根源的なものを体感できるかどうか、それを生きる上の中心に出来るかどうか、というのは教えても体得できるものではなく、自分で体得するしかない、ということだそうです。

そういったものを国家が出来る時に大和朝廷が政治の中心に置き、仏教やキリスト教なども取り入れながら、今も国の中心の1つとして残っているのは、唯一絶対の教えというものではなかったからなんだろうな、と思います。

そして、これからの世界に、そういった原始的だけど根源的な思想を持っている人の方が、争いは少ないんだろうな、と思います。
例えば、大地に根差し、今も「俺らは自然に生かされているんだよ」と言いながら生きている農家さん達のように。

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