半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

本:エネルギーと私たちの社会 デンマークに学ぶ成熟社会

2023年03月07日 | 素敵な本

「エネルギーと私たちの社会 ~デンマークに学ぶ成熟社会~」という本を読みました。

北欧は社会福祉が充実し、かつ、エネルギーについてもきちんと考えられている国家、というイメージがあります。

その一つのデンマークも「成熟社会」に向うために、どのようにエネルギーを考えるべきか、大きな議論が70年代にあったそうです。

というのは、デンマークはエネルギー、つまり石油などは海外に依存しており、2度の石油危機、特に1973年の石油危機直後に合計15カ所の原子力発電所を建設する計画を国が発表したそうです。これに大反発した市民団体が「エネルギー政権を民衆が決める権利」を主張するキャンペーンをはったそうです。

この対立は議会と国民を2分する大きな対立に発展し、原子力計画は膠着状態に。この時の市民側は「原発ではなく自然エネルギーと天然ガスを用いる」という方針だったそうです。

そして次の1979年の第二次石油危機に際し、政府が改めて原子力計画を発表します。それに対し、今度は市民側は「省エネルギー」に力点を置いた対抗案を提示。その対抗策のベースになったのがこの本だそうです。

シンプルに言えば、物に溢れた成熟社会で、これからは「高エネルギー社会」を選択するのか、「低エネルギー社会」を選択するのか、という事を議論しまとめている本です。

事例が沢山の切り口で出てくるのですが、例えば高エネルギー社会は新しいものをどんどん買い、使い捨てていきながらよりエネルギーを使った生活で幸せを求めていく社会。一方で、低エネルギー社会は物を長く大切に保有する事に喜びを持ち、あまりエネルギーをかけずとも自分達の時間を大切にしていくことに幸せを求めていく社会です。

そして、「今よりもっと働いて収入を増やしどんどん使っていく社会」より、「もう十分に持ったから、働く時間を減らして自由な時間を増やし、生活を充実させていく社会、つまり低エネルギー社会」を選択したデンマークから学ぼう、という本です。

 

もっともの話で、私も全く同感です。私の持論とぴったりな本でした

私は原発事故で大きな衝撃を受け、「そもそも原発に頼らなければいけない生活がおかしい」ということに気づきました。また、エコロジカルフットプリントという概念(食べ物や木々を育てる大地、空気、水、資源など、今の生活を保つのにどれだけ地球が必要なのか)というを知った時、日本人は既に地球約3個が必要な生活をしている、という事に更に大きな衝撃を受けました。

つまり、日本人と同レベルの生活を世界中がしたら、地球は2個じゃ足りなくなる、ということです。こんな馬鹿な話はないな、と今でも思っていますし、そんな生活をして地球を壊している大人を子供達が尊敬出来るわけない、とも思ったのです。

 

ちょっと私のことを書きますね。

原発事故があった時に、まず、無駄に電気を使っていること自体がそもそもの問題だと気づきました。原発は電気を作るためにあるわけですが、日常生活を見ると非常に無駄な電気の使い方をしていることに気づいたのです。

具体的に言うと、電気は火力発電であれば重油や石炭などを燃やして、原子力であれば核融合反応を使って、いずれにしろほとんどが「熱エネルギー」で水蒸気を作り、その蒸気でタービンを回して作ります。それを電線で運んでくるわけですが、それを今度は電気ストーブやIHなどに「再び熱エネルギー」に変えると50%ぐらいが損失されてしまうのです

つまり、「電気を熱に変えるほどあほらしいことはない」と知ったのです。そりゃそうです。ガスであれば各家々で燃やして直接熱エネルギーを取り出してお湯を沸かせるわけで、エネルギーの損失は極めて少ないですよね。ところが各家々が電気で発熱をしているのであれば、それは遠くの原発や火力発電所で燃やした「熱エネルギー」を、わざわざタービンを回す「運動エネルギー」に換えて、それを送電の時に抵抗で大分むだにしながら送られてきて、それをわざわざ最初の「熱エネルギー」に戻しているのです。小学生でもわかる、むちゃくちゃ非効率で不経済な話ですよね。

ということで、原発事故後、我が家ではトイレのウオシュレットの電源を抜き、電気ポットは止めて、お湯はその都度ガスで沸かすようにしました。

お茶が欲しい時にその都度飲む分だけお湯を沸かす、その手間ぐらいかけるのは誰でも出来るエコですよね。

 

また、資源の無駄遣いの話もあります。

例えば、今はLEDばかりになっていますが、私はLEDが一気に推進された時に「何を馬鹿な事をやっているんだ」と思いました。「LEDはエコ」と全世界に一気に広げられ、東京では買い換え補助金が出るほどで一気に増えていきました。

しかし、私からすれば、限られている資源を使って生きている事を棚に置き、今まで使っていた蛍光灯やライトを一気に「使い捨て」をしている愚かな行為に見えました。

一番のエコは「それを使いきり、壊れても修理して出来るだけ長く使っていくこと」だと思うのです。これは一時期、ブームになった「motainai」の精神でもありますよね。

しかし、LEDを推進するために、蛍光灯など今まで使っていた物を、まだ使えるのに大量破棄しました。まるで冷蔵庫などの家電が「年間の電気代が従来品より◎%減り、省エネになるから新しいのに買い換えよう」というキャンペーンと同様に。

そのくせ「ブルーライトは目に良くないから」と、家電製品の多くが「ブルーライトを従来品の99%カット」というPRをしています。もう20年も前にアメリカ・カルフォニア州では、夜間のLED照明で睡眠障害を引き起こすということで、州法で夜間の使用を制限しています。自然界に無かった光を創りだし、使用するエネルギーが少ないからといって健康被害は多少目をつぶってでも使おう、というのは、原発は多少のリスクはあるけどコントロール出来るしクリーンだから使おう、と言う論法に少し似ていませんか?

蛍光灯が壊れたら、随時、LEDに切り替えていく、ということであればまだ良かったのでしょうが、一気に切り替えた方が買い換えキャンペーンで経済指標も上がるし、製造側の経済効率も良い、ということで推進されました。しかし、それは経済コストの問題です。環境や資源の問題よりその時の経済効率優先で一気に変更して大量な破棄を出した事を、マスコミは騒ぎませんでした。

 

地デジのテレビもそうでした。我が家は未だにブラウン管を使っています。壊れないからです。あの時も地デジに切り替える、という名目で、大量のテレビが捨てられました。何故、壊れていないものを、使えるものを捨てなくてはいけないのか?と、うちの妻と母が怒っていたのを今でも覚えています。

昔は家電は20年でも30年でも持つように作られていました。ところが、「古い物は嫌われる、新しい物が良い」という価値観というか商業主義が日本でも広がってしまったため、「モデルチェンジ」という名のもと、次々と新しい物を買い換える文化になってしまいました。メーカー側も「長く持つ良い物を」という発想から、「5年、7年経ったらもう壊れて良い設計」にしてしまい、「買い換え」が当たり前になりました。修理費用も高いので、壊れたら買い換えるのを推奨する国になりました。motainai精神はどこかへいってしまったようです。

買い換えるということは、今までのを廃棄する、捨てる、ということです。そして新しい物を作るための資源が掘り起こされ続け、製造にエネルギーがどんどん使われていく、ということです。資源をゴミ化するのが消費なわけで、出来ればその速度を抑えたいですよね。

 

車もそうです。中古車市場的に言えば、3~4年で買い換えていくのが一番お得だと言われています。しかし、そんなことは実はないのです。我が家は10年落ちまでの中古車を50万ぐらいで買い、それを壊れたら直しながら10年乗りつぶします。壊れたら直す、というのが一番と思っています。

次々と買い換えるというのは、この本で言えば「資源を沢山使い続ける高エネルギー社会」そのものです。

車業界と言えば今は「EVだ」と世界中が騒いでいます。EUが先導したキャンペーンですが、無理やり推進するEUに対して日本の政府が舵取りが甘かったので、日本でも推進するしか無くなってしまいましたが、これも「見た目はエコ」に見えますが、実際は環境破壊や資源の無駄遣いや競争を生んでいる「高エネルギー社会」の実例だと私は思います。SDG'sと同じで、見かけ上は良いことをやっているように見せて、実体はエコでは無い、という典型です。

アメリカはもちろんEUも「その産業が世界的競争で勝つために規制を作る」のが当たり前です。日本人はのんびりしていて、安全とかのために規制があると思っていますが、そんなことはありません。

例えば、日本の車が世界を席巻した時に、欧州自動車業界は燃費でも勝てない、コンパクトさや乗り心地、コスト競争でもボロ負け。それで出てきたのが「日本車は燃費を追求してフレームを軽く作っていて壊れやすい。EUでは剛性など安全基準を作って、それをクリアーしていないのは売れないようにしよう」として規制を作りました。それでボルボなど「事故でも安心」というPRで一気に復活しました。

ところがそれも余裕で日本は改良してしまったので、今度は「排ガス規制だ」と言うのを作りました。そうしたら、今度はお膝元のフォルクスワーゲンが偽装で排ガス規制をクリアーしていないことがばれてしまい、大問題になった事件にまで発展しました。

そんなこんな動きがある中で、4年ほど前のEUで大々的にドイツを中心に爆発的に広がった「地球温暖化を防がないとこのままでは大変な事になる」という警鐘の波は、排ガス規制とも絡み合い、世界で最先端の環境先進国が集まっているEUとして、一気にEVシフトを戦略的に決定しました。当たり前の話と言えばそうなのですが、環境問題だけでなく、自動車業界とくっついて出てきたのがEV推進です。

自動車開発で遅れていた中国、環境と自動車業界の復建を目指すEU、国の基幹産業である自動車業界を守らないといけないアメリカは、今までの内燃機関=エンジン開発とは切り離され、全く新しい技術で一から勝負が出来るEVに国を挙げて無茶苦茶な補助金を出して、デファクトスタンダード競争に打って出ました。

LEDや家電と同じで、ハイブリッドや古い車を破棄してEVに一気に切り替えた方がエコなのか、というと、そうではなく、むしろ無茶苦茶な大量廃棄、そして買い換え、そして、爆発的な資源の乱開発が起きています。とても環境負荷が大きいのです。

この前、トヨタの豊田社長がついに会長に退きました。豊田社長は本当に素晴らしい経営者だったと、私は尊敬しているのですが、昨年までは「EVにシフトしようとしている世界に対して、日本政府は何も対策を打たない。自動車業界は日本の基幹産業の1つで、このままでは日本の産業がダメになる。雇用も失われる。日本もなんとしてくれ」と、必死に訴えていました。

日本一の会社はトヨタであり、日本の産業はやはり自動車が軸で、そのサプライチェーンの中に多数の会社、技術、雇用が関わっていたからです。その中心がガソリンエンジンでありEVへのつなぎとなるハイブリッド車だったわけです。

そして、EVはもちろん、ガソリン車もハイブリッド車も平行で進めていくんだ、フルラインナップでやっていくんだと豊田社長が頑張っていたもう1つの理由は、リチウム電池など電気自動車には大変な環境負荷があり、資源採掘競争があり、決して地球全体ではエコではないのにも関わらず二酸化炭素排出量だけを規制して、そこだけを考えているヨーロッパの異常な規制に反対をしていたわけです。

あるいは日本政府として、あえてEVへうって出るなら同様の補助金を出して国を挙げて世界と戦わなければいけないし、そうではなくトヨタのようにフルラインナップでバランスを取りながらやっていくのか、どっちに方針の舵を取るのか決めないと、自動車業界は後手に回ってしまう、という危機感からでした。

ところが、日本政府はもたもたして、その第一陣の波に乗り遅れてしまいました。トヨタは独自でリチウム電池の鉱山開発に着手しつつ、同時に一番良い落としどころを探していましたが、ついに、中国・EU・アメリカの攻勢にこのままでは負けてしまうと判断し、EV主体に切り替えるべく、戦略転換を行うことになり、後任に社長を譲りました。

もう30年前だと思いますが、トヨタがプリウスを出した時に良く言われていましたが、「プリウスを1台作る時に、膨大な二酸化炭素が出るから、結局ガソリン車と比べてエコではない」ということ。それが今も起きています。

ちなみに、これは原発の論理と同じですね。

原発推進派は、原発を稼働している時に二酸化炭素の排出量は少ないから「エコでクリーンなエネルギー」と言いますが、安全基準を満たすための建設コスト、あるいはウランなどの資源採掘、そしてそれを運び込み、、、という事を考えると、決して二酸化炭素排出量は少なくなく、かつ、原発誘致や安全保障のために多大なお金が支払われ、稼働中も多大な管理コストがかかり、かつ事故が起きた時は取り返しがつかない、と言うことを計算に入れたら、決してクリーンなエネルギーでもエコでもないのです。ランニングコストだけ見るのではなく、開発から最終処理までのトータルコストで考えれば、原発は経済効率は悪いわけです。

今の電気自動車は決してエコでは無く、ちょっと言葉を悪くすればクレージーなレベルだと私は思うのですが、その資源競争で世界が大変な事になっており、かつ、電気は再生可能エネルギーを使えば良い、ということで邁進しています。だから「電気が再生可能エネルギーだけでは足りないのだから、原発も必要だ」という論理になるんです。

それは40年前のデンマークの原発反対派の論理と同じですね。「足りない分は再生可能エネルギーで補填すればよい」というのでは、結局、「どっちが経済効率が良いか」という同じ土俵の議論になってしまったわけです。

その議論から次元を変えたのが、2回目のオイルショックの際に「そもそも、電気を無駄に使う高エネルギー社会に未来があるのか?」という投げかけをしたこの本なんですね。そして、「幸せというのはGDPといったお金に換算する指標では表わせないものである」という事、それが「低エネルギー社会であり成熟社会のあり方である」という事、そういった事を言えるのは、政府や産業ではなく市民であるということ。

 

地球環境問題を本気で議論するなら、全体最適を考えていたトヨタの豊田社長のフルラインナップで計画的に変化させていきながら、最適解を世界ですりあわせをしながら進めるべきなんですが、それは国家間の競争があるから、理想論に過ぎないと言われてしまうでしょう。でも、そういう事を続けてきたから、地球温暖化はここまで来てしまったわけですよね。

環境問題も経済優先で話を進めるから、「誰が一番早く動いて先行車メリットを受益するか」といった競争になってしまう。

 

じゃあ、今のデンマークがどうなっているのか、というと、この本はもう何十年も前の本なので書いていません。ただ、その何十年も前に、「生活の豊かさはGDPでは測れない」という思想のもと、無駄なエネルギーを使わない、という発想に立って政策を作り、様々な解決策を実行してきたという事例が沢山あること自体、今でも参考になるのは間違い無いと思います。

 

ちょっとしたことの例として、本に書いてあることを抜粋すると、例えば、昔は徒歩や自転車で通える場所が仕事場だったのが、今は校外に家を建て車で30分かけて通うのが当たり前になってしまった。一見、幸せな生活になったようで、実際はその自動車の維持費やランニングコストをまかなうために働く時間も増え、かつ通勤時間は結局は変わらない。

昔は食物を作ったり買ってきて家で作るのが当たり前だったのが、外食中心になることで、作ってくれる人の人件費やお店の利益の分まで含めて高コストで料理にお金を払うようになった。そこで外食の時間は楽しみになっている反面、自分で作るよりもより多くの時間を働いてお金を稼がなくてはいけない生活になった。

今の人が趣味と言っているキャンプ、釣り、DIYなどはそもそもは日々の生活の仕事の中にあって、そもそも仕事には楽しみがあった。ところが今は組織の中の一部で区切られた仕事をさせられるので、仕事への誇りや楽しみが失われ、その穴埋めとして余暇にお金をかけて趣味の時間をわざわざ持つようになった。

どれもGDPには表されることで経済的に幸せになっていると思ってしまうが、自分でやるのではなく外部から持ち込んだり使い捨てて新しい物を買ったりと、高エネルギーを使った社会を維持するためのお金を稼ぐために、自分の人生の時間を使わなくてはいけない、というので本当に良いのか?という投げかけが、この本には細かく書かれています。

今の日本では半農半Xだとか、田舎暮らしといった切り口で、都市部の消費社会から離れようとしている人が爆発的に増えていると思いますが、これを「高エネルギー社会」と「低エネルギー社会」という切り口で分けてみる、という視点は、案外面白い視点かな、と思います。

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