半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

本:哲学する子どもたち バカロレアの国 フランスの教育事情

2019年08月11日 | 素敵な本

「哲学する子どもたち バカロレアの国 フランスの教育事情」という本をたまたま見つけたので、読んでみました。

 

私の今の一番の関心事は「教育」で、自分の子ども時代と大人時代を比較し、さらに今の子ども達の教育環境と子ども達の生き方を見て、自分なりに考えています。

そして、考察するときに一番良いのは「比較」するということ。

過去と未来はもちろん、外国とも比較するのもとても勉強になります。

例えば、以前、「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」という本の事を書きましたが、びっくりしたのが「アメリカの小学生が学ぶ歴史は戦争の歴史」という事でした。

日本の子は、日本という国が2000年以上続いている、という事を当たり前に思っていますが、私はピースボートで世界一周をした時に、「母国語が普通に話されている国」は世界では稀有だという事を気づいてびっくりしたのです。

つまり、世界中のほとんどの国は、イギリス、スペイン、ポルトガル、アメリカなどの植民地にされ、母国語と占領された宗主国の原語が普通なのです。

そして、独立国家としてきちんと体を成したのはこの数十年なのです。

国によっては2000年以降に設立しているところもあります。

ところが、日本は歴史もあるし、言語も日本語だけ。

つまり、そういった国は世界で稀有だということにびっくりしたのです。

同じように、アメリカの小学生が学んでいる教科書を見て、第1章が「アメリカ大陸の発見から植民地まで」から始まり、インディアンの虐殺に触れ、「独立戦争と新国家」「南北戦争」…「第二次世界大戦と冷戦」と、すべの章が「戦争」なことにびっくりしました。

これも「比較」することで、日本の歴史教育とアメリカの歴史教育の差異で気づかされることですよね。

 

という事で、他国の教育を見ると自国の教育の特徴がわかるので、フランスの教育本を読んでみたのです。

そして、まず根本的なところの違いとして著者があげていたのが「バカロレア」という制度で、なるほど、と思いました。

ざっくり言えば、「高校卒業資格=大学入学資格」みたいな感じなのですね。

 

日本では小中は義務教育で留年が無いですし、高校もその延長で留年はめったにありません。

そして、大学は「試験一発勝負」が基本です。

そして、大学卒業は、ゼミなどで論文を書いて先生の承認してもらって初めて卒業です。

 

ところが、フランスでは日本の大学のように「先生の承認してもらって進学」と言うのが基本なのです。

日本では大学入学はテスト一発勝負ですが、フランスではそもそもの受験資格が高校の成績の内申点次第で、高校の勉強の評価が悪ければ「あなたは〇〇大学の普通科は難しいので、技術系にいきなさい」と先生に学校や学科を割り振られてしまうのです。

イメージで言えば、日本の大学の4年生のゼミのようなものが、中高で普通にある。

「高等教育を受けるのは権利である」と、以前、バイオリストの五嶋みどりさんが本で書いていましたが、その通りなんですね。

勉強をするのは権利であり、しかし、勉強が出来ないならその上へ行く資格がない、というのが当たり前なんです。

 

フランスでは小中でも勉強が出来なければ「留年しなさい」というのも当たり前で、それも社会的に傷のような見方はされていません。

例えば日本でいう小学校から中学校に上がる際に、「1年留年したら」と勧める先生もいて、確かに無理に上へ進んでついていけず、内申点が低くなり、日本でいう高校への進学の際に選択肢が「あなたは普通高校は諦めて、商業高校にしなさい」となるなら、日本でいう中学に上がる際に日本でいう小6をもう1年やった方が良い、というのは学歴=仕事につながる社会であれば、正論といえば正論ですよね。

 

そして勉強が出来ないなら「高等教育が受けれる普通科への進学は認めません」と言う先生も、日本で考えれば凄い違いだな、と思います。

フランスでは、普通科と言うのは高等教育が受けれる学科で、いわゆるエリートコース、ホワイトカラーコースというのが明白です。

普通科に行けないならせめて理系、理系がダメな子は技術系に行きなさい、という学科によっての「ランク」が、日本以上の露骨に決まっているのです。

 

私も高校時代から「何で大学に行くんだろう?」とずっと思っていました。

高柳さんが「大学は真理を追究するところでしょ?」と言いますが、そんなことを思っている人はほとんどおらず、私の世代の親もそんなことを期待して子供を大学に行かせているわけでは無かったでしょうし。

私の世代は超氷河期と言われていましたが、やはり「良い大学に行って、良い会社に入りなさい」というイメージだったのではないでしょうか?

そして最近の日本の親御さんの話や社会情勢をみて、日本は結局は「大学に行きなさい」は、まあ、単純に言ってしまえば「大企業のホワイトカラーになりなさい」と言っているようなだという事がわかったのです。

というか日本の社会がそうなっている。

「ある程度の大学に入っているなら、採用しても問題ないでしょう」というのが企業側の論理でもあるわけです。

まあ、それが合理性を求めるフランスなどでは、日本以上に至極当然で当たり前なのです。

 

だから、フランスでは「良い仕事」に就くために「良い大学」に行く、そのために「中等教育」がある、その「権利」を得るために、評価を求める。

逆に高校卒業資格=大学入学資格を得るための中高なのだから、日本のような入学式は無く、部活も基本的には無く、あるとすれば先生の善意である活動ぐらい。体育祭なども当然、目的から離れているのでありません。

修学旅行も学校ではなく、担任やとっている授業の先生がたまたま「今度、ベネチアに行くから30人連れていくよ」となった場合、その先生とご縁が深ければ連れていってもらえる。

そういった先生がいない世代、あるいは「〇〇君はおしゃべりで集団行動を乱すから連れていきません」というのは当たり前に通る社会なのです。

「全員平等に」という事を一応掲げている日本と比べると、より合理的ですね。

 

日本の話で、知り合いのママさんが子供を私立中学に入れたのですが、中1の最初の入学式直後に「これから食っていける仕事とは?」という講義を親子で受け、今の子ども達が大人になっても食っていける仕事を考えて、それにあった学校に入るための6年間、という事を話しています。

非常に合理的な考えですよね。

ある意味、フランスに似ているというか、あいまいとしていた進学の事を「目的」=「良い仕事に就く」と明確にしているわけです。

 

一方で、私の中高時代を思えば、「勉強以上に大事なことがあったじゃないか」という思いもあります。

それは部活であったり、学園祭だったり、みんなで力を合わせて何かを必死にやり切った経験だったり。

私の中にあるのが、「子ども時代が大人になる準備期間である」とあまりに決めつけてしまうと、例えば思春期だからこその迷走するという経験、人間の振れ幅が狭まってしまって、大人になった時にそれこそ器が大きくならないんじゃないか、と思うわけです。

私の好きな哲学者の岸見一郎さんの「子ども時代は大人の準備期間ではない」という言葉は、私は大好きなのです。

 

日本の教育で言えば、知育、体育、徳育があり、一番大切なのは徳育だと私は思っています。

子どもに言っていますが、小さい内は「よく食べ、良く遊び、良く寝る」事が仕事。

中学ぐらいになると、「よく食べ、良く部活し、良く学び、良く寝る」事が仕事だと思います。

その上で、生きていく目的、勉強する目的はシンプルで「誰かの役に立つこと」、これが最大の目的です。

そして、生物界を見れば当たり前のことなのですが、「子孫のために役に立つこと」をするのが大人、成体なのです。

人間は「社会的動物」ですが、そうなると極めてシンプルに考えれば、「全ての大人は子ども達のためになる社会を作るために存在している」という結論になるのです。

 

そして、いずれ大人になる子ども達に伝えるシンプルな教育は、「どんな時も笑顔で誰にでも大きな声で元気に挨拶出来るようになりなさい」と言うのが、社会でやっていける一番の秘訣だと言っています。

基盤となる心を鍛え、体を鍛える。

そのためには、部活動のような集団で規律を守り、体を鍛えながら精神も鍛える、という活動はとても大切だと思います。

その上で、社会的動物であるからこそ、社会という事を考え、知的格闘をして社会問題を解決するために知性を鍛える、と考えています。

 

しかし、今の子は中学生で塾に行くのが当たり前。それも「勉強がわからないから」行く子もいれば「受験のため」に行く子もいます。

私の時代以上に勉強にキューキューとなっているように見えてしまいます。

それは何のためかというと、フランスのように明確ではないにしろ、やはり「進学=就職」という事になっています。

 

ただ、1つ根本的に違うのが、フランスの中高のテストは口頭論述や小論文みたいなものが多く、〇×や選択肢から選ぶ、というものではないんです。

だから、評価は毎学期、全教科の先生が決めます。

「成績決定会議」というのがあって、そこに先生達と保護者代表、児童代表なんかも出て決める。

先生が点数をつけて答案を返して、最後の通知表を渡す日本とはまた違うんです。

 

だから、フランスでは毎学年が大切で、受験直前に缶詰で気合が入れば短期間で出来るようになる、という質のものでは無いんですね。

だから、小・中・高と論理性や弁術力を鍛えて積み上げていかないと、とても無理。

だから、フランスではついてこれない子は「留年」を勧められるし、進学の岐路毎に「あなたは普通課は無理だから技術系(レベルの低い学校)に行きなさい」と割り振られてしまう。

そういう意味で、日本のようにテスト一発試験という制度は、良く言えばそれまで勉強が出来なかったとしても、一念発起さえすれば誰にでも高いレベルの学校に入れる門戸が開かれているとも言える、と著者は書いていました。

 

その他、所得層=住む地域=学校のレベルも日本以上に分かれていて、選択肢というのが所得、住む地域で予め結構制限がかかっているという違いもあります。

また、労働権利の意識が強く高3の担任が「産休」に入る場合、代理の先生も不足していて、かつ、「休職の1カ月前にならないと教育委員会は探さない」ため、受験前の3カ月担任が不在、なんてこともあるそうです。

日本のように「引継ぎが当たり前」と言うのは、日本だから常識であって、フランスでは「担任が不在になる」なんていうのは、良くあることだそうです。

また、試験で「喜びとは何か?」というレポートを理数系でも書かされるので、そういった事に付き合えるのは塾ではなく親であったり、家庭教師だったり。高校で親が勉強につきあう家は多いようで、塾はほとんどないそうです。

 

昔、カルロス・ゴーンの本を昔読んだ時も思ったのですが、日本以上に「出来る子はエリートへの道へ」、お勉強が出来ないなら「技術系に行きなさい」というのが明確になっているのが欧米。

日本は明治に作ったシステムを今も引継ぎ、また全国民に義務教育を課し、努力次第では国家公務委員や高収入も期待できる会社に入れる。

外国に暮らして子育てをして、「日本の教育が世界一だ」という本を読んだことがありますが、やはり、基本を積み上げてしっかりと誰でもわかってもらいたい、という事や、「学級経営」という事で集団行動や公を学ぶという所でいえば、日本は世界一なのでしょう。

例えば、アメリカではいじめや何かがあっても担任ではなく「それはスクールカウンセラーの仕事」というのが明確になっています。

合理的なのです。

そういう意味で、日本の教育事情は、日本独特の「公」や「集団の中の自分」というを意識させ訓練させられますし、先生も「学科の内容をマスターさせること以外にも、1人1人の事を考える」という事も大切と思われていて、特別なんだと思います。

もちろん、集団最優先で軍隊みたいになったり、フランスみたいに「いじめにあったら転校すればよい」という軽い感じでも無く、集団に所属出来ない時の問題もあったり。

でも、まあ、やっぱり日本人として育つなら、日本の教育が一番なんだろうな~と思うわけです。

あとは、学校に何でも責を求めないことですね。

高柳さんが昔、師匠に言われたことで「子どもの教育は親7割、学校2割、地域1割」というのがあったそうですが、本当に、教育というのは、一番は親次第ですからね。

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