世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(64)

2011-01-26 12:04:55 | Weblog

しかもロシアはウラジオストクに4隻の巡洋艦を持っていた。旅順に目が行っていたため、ウラジオ艦隊は日本近海に出没しては、日本商戦や輸送船を攻撃していた。そのため上村彦之丞司令長官(中将)の第2艦隊を派遣しウラジオ艦隊捜索するも、なかなか発見できずに、1904年6月15日には常陸丸が沈められ陸軍兵士1,000名余りが戦死している。この件もおいおい述べる。

なお上村彦之丞中将については、2010/12/3のNO.33のブログでも言及しているので、参照願いたい。「ブラボー!アドミラル上村」と賞賛された上村である。

さて特に単縦陣での水雷攻撃については、改革すべき点が多々あったものの、大東亜戦争でも改善されていなかったと言う。事実に即した分析と改善が等閑にされた結果であり、日本軍の、否日本人の悪さがこの時から現れていたように、小生には感ぜられる。

しかもロシア側では、2月8日の夜は太平洋艦隊司令長官スタルクの自宅では、マリア命名祭でパーティーが開かれていたと言う。これは、NHKの「坂の上の雲」で放映された通りの様であった。



話は変わるが、日本政府はロシアに国交断絶を伝えると同時に、1904年2月6日にロシアと満州在留の日本人に帰国命令を出した。このように外交関係が緊迫の度を増すと、如何に在留邦人を救出するか、が問題となる。先の「旅順口急襲」によれば(奇襲でなく急襲が正しい)、シベリア在留の日本人はウラジオストクから大多数が避難出来たが、満州在住者はハルビンまで来て、そこから多分東清鉄道支線で旅順または大連に行き、そこから船で脱出する手筈となっていた。旅順口急襲は、 2月8日夜から2月9日にかけて、行われている。旅順では、2月8日昼までに英国船により多数が帰国していたが、まだ多数の在留邦人が旅順に取り残されていた。しかも2月9日の昼には、日本艦隊の攻撃があった。旅順の日本人はチーフー行きの温州号に乗り込むことが指定されていたと言う。結局2月13日にハルビンから最終の日本人103名が到着し、総数304名は、2月14日午後4時出港許可がおり、ようやく脱出することが出来る。ハルビンからの日本人は途中、ロシア兵による略奪を受け着用衣類以外は何も持たない状態だったと言う。それでも、出港までの間にロシア側からは、食料の差し入れなどがなされている。もちろん日本に居たロシア人は自由な帰国が許可されており、略奪などは一切なかった。大東亜戦争時の満州での日本居留民へのロシア軍や中国軍の残虐な仕打ちに比べれば、かなり穏当な扱いであったようだ。しかし旅順市内では、すでにロシア兵による略奪などにより、治安はかなり悪化していた。

近い将来、朝鮮半島で戦乱が起こるかも知れないと言われているが、その時韓国在留の日本人をどのように保護し、無事帰国させるのか。果たして韓国兵は日本人を保護してくれるのか、それとも壬午軍乱甲申事変の時のように、略奪や虐殺をしてくるのか。多分に後者の状況となろう。その時日本政府はどうするつもりなのか。その時は即座に自衛隊を出動させて邦人保護に当たらなければならないし、それが出来るように国内法の改正や韓国政府と詰めておかなければならないだろう。第2次朝鮮戦争が起こる可能性がある、などとまことしやかに論じられている現状を鑑み、日本政府や自衛隊は物心両面での準備は必須である。おさおさ怠りのないように願いたい。

(続く)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日韓併合100年(63) | トップ | 日韓併合100年(65) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事