高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

2014年藩校サミット(前編)

2014-07-07 00:18:01 | 歴史
江戸時代の教育機関は、塾や寺子屋、そして江戸時代も後期になりますと、競うように藩校が設立されました。明治になると藩校は廃止されますが、藩校の流れは現代に脈々と継承されてきました。藩校サミットの目的は、江戸時代の藩校の歴史を現代に生かそうとするものです。
湯島の昌平坂学問所から始まったサミットは、今年で12回を数え、今年は武蔵国忍藩(おしはん)の藩校「進脩館」があった埼玉県行田市(ぎょうだし)で開催されました。
忍藩は藩の名前と市の名前が一致しないので、どこにあるか迷いますが、かっては10万石クラスで幕府の老中を多く輩出します譜代の雄藩でした。最近は和田竜原作の歴史小説の映画化「のぼうの城」で注目されています。


(今年の藩校サミットは埼玉県行田市です)

 
(今回の開催地の行田市)


(蘇った原始的な特徴を持つ古代蓮)

行田市でよく知られているのは、忍城と足袋の生産そして約2千年前の地層から蘇った古代蓮(行田蓮)、「さいたま」の地名のもとになった「さきたま古墳群」などです。古代蓮はオオガハス(大賀蓮)とともに古代のロマンを伝える蓮としてよく知られています。今回は時間がなく、忍城以外は見学することができませんでした。


(忍城御三階櫓)

 
(忍城大手門)

 
(藩校「進脩館」の門)

 
(鐘楼と忍城の由来)


(歴代の忍城主)

 
(「のぼうの城」と本丸跡に建つ博物館の入口)

 
(行田市のPR「忍城おもてなし甲冑隊」)


(御三階櫓から眺めた行田市街)

「のぼうの城」は成田氏が城主の時で、豊臣秀吉が小田原城を攻めた時代のことです。石田三成が北条方の忍城を土塁を築いて水攻めにしますが、小田原城が落ちるまで持ちこたえました。小田原城の支城で落ちなかったのは忍城だけだったとのことです。
後編のサミットの模様は、明後日にしたいと思います。
(埼玉県行田市)          (つづく)

コメント (8)
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