福井など日本海側の豪雪に心痛みます。ここ伊豆は風は冷たいのですが雲一つない晴天が続いています。
私は春隣という季語が好きです。去年の今頃は初めて黒文字の花を見た感激をつづっていました。
「1月半ばにいただいたときは固い固い蕾でしたが、植物は季節をよく知っているのですね。お花の下部の膨らみは直径5ミリくらいです。そこからツンと角のように花柄が出て、その先の蕾は1ミリ!なんとかわいい」
私は単純に花が咲いたと喜びましたが、これを「もう少し」とみるか「まだ、まだ固い」と感じるかは、全くその人の感じるところで決まります。
この芽を見て「もうここまで膨らんだ」でも「まだまだだなあ~」でも、間違いはありません。(今日の写真は1/30に撮影)
閑話休題
小ボケというのは、脳機能から説明すると、前頭葉機能は低下しているのですが世の中でいうところの知能テストには合格する人たちのことです。この考えを知らないと、年齢相応の衰えはあるにしても普通!と思われている人たちです。
そのような認知症の初期に、問題が大きく出てくる人たちがいます。いちばん多いのが「妄想的なことを言い立てる」でしょう。後半領域の脳機能(普通の知能テストで測られるもの)が合格ラインですから、説明が真に迫っていて周りが振り回されることがよくあります。
その状態を説明するために用意してある図です。
いい、悪いは別にして、それぞれ性格の傾向がありますね。楽観的―悲観的。内向的ー外向的。神経質ー大雑把等々。
一番上の楽観ー悲観の軸で考えてみましょう。多くの人たちは、やや楽観的からやや悲観的までのあいだに入ります。それがごく普通の人たちになりますね。
どちらであっても、ごく少数の外れのはずれに位置する人は、日常生活がやりにくくて、当然若い時から精神科に受診するでしょう。悲観的過ぎ(自分がつらい)だけでなく、楽観的に過ぎ(周りが困る)ても同様です。
普通といわれる範囲と病的な状態だけに分かれるものではなく、その間にもグラデーションでいろいろなレベルの人たちがいるはずです。(山の中腹の人たち)その人たちは、通常の生活を行っていくときには、自分の性格傾向を、より中央寄りに引っ張って適応していることが多いと思います。特に日本ではその傾向が強く求められることは否めないでしょう。
1月30日の日経新聞。海老原嗣生さんの署名記事「就活のリアル」がとても興味深かったのでご紹介します。
「若者の離職の原因は、その会社との相性にある」という主張です。以下青字は引用です。
①周囲との関係 競争↹協調(一番を目指せ、目立て↹縁の下の力持ちでいい、スタンドプレーなどやめろ)
②発想の方向性 革新↹伝統(昨日と同じものでは意味がない↹奇をてらわず過去の伝統をしっかり守る)
③判断の基準 理↹情(情に流されず怜悧に↹計算ばかりでなく情を大切に)
④評価の基軸 行動↹思考(能書きを垂れるのでなく動け↹考えもせず動くのは意味がない)
会社の求めるものと自分の性格傾向と一致させることは大切です。自分はどのあたりにいるのか、ちょっと立ち止まって考えてみるということは、就職という人生の大きな岐路に際しては、大切というか無理なく仕事をするための必須条件だということがよく理解できますね。
でも、仕事の局面ではどうでしょうか?端に近づくほど生きにくいことは確かですが、新しい仕事を切り開くときには、そういう「人」が必ず見える気もします。「人」だけでなく「会社」そのものも極端さの中に新局面があるような気もします。
どちらかというと、この図でいえば右側でしょうか。
花と同日に撮った大室山の麓の雪景色です。
極端な生き方(価値観)ををベースにチャレンジしながら、新しい仕事を楽しんでやり遂げた後、退職後は20年も30年もあります。その時、自分で新しい生き甲斐を見つけることができたら、もちろんその人の人生はオッケー!!
このタイプの人たちの前頭葉は、皆に合わせるような働き方はしてきてないわけですから…普通、中心から外れるほど、その人は前頭葉がいろんなレベルで自分の性格の極端さを修正するものですが(協調性)、そこに価値を見出さず、数十年を過ごしてきた前頭葉。大丈夫かと気になります。
矛盾することを承知で言い足します。自らの性格傾向をがんばって中心に向けてコントロールし続けるというのも、なんだかもったいないような。
無理することなく、より自然に、自分らしく生きていく。そして同時にその生き方が周囲に受け入れられるということは可能なのでしょうか。
認知症予防は(乳)幼児からの全人的な教育にかかっている面はありますね。
もうすぐほころびます。