前回のブログでは、左脳障害の後遺症による失語症のことを話しました。
左脳障害はおもに言葉の障害です。聞き取りに問題があるちょっと理解しにくい言語の障害もありますが、それでも後遺症としてはわかりやすい障害だと思います。
今日の写真は紅葉たけなわの中尊寺(11月3日)金色堂
もともと私は脳の機能分担については「脳が壊れると、こわれた場所によってできなくなることが違うので、それをよく観察することでその場所が担っている脳機能を知ることができる」と考えています。
と、言うことはさらにもうひとひねりすれば、
「脳の一部分が障害を受けても、なおできることを知れば、それは障害を受けていない脳の機能である」ということにもなりますね。
前回のブログを書いた後で、テレビを見ていたら興味深い話を聞くことができました。
左手だけでピアノの演奏活動をされている館野泉さんのインタビューでした。舘野さんのことについては2005年にこのブログでも左手だけのピアニストとして触れましたが、その時は舘野さんの手記から説き起こしたものでした。
そのブログでも、舘野さんが脳卒中で失った右手の機能(左脳障害による後遺症)に重点を置くよりも、障害を受けなかった右脳がどれほどの機能を有しているかにスポットライトを当てるべきだということを話しました。
インタビューを聞いて、さらに生々しく右脳の機能ということを感じました。
手記では、左手のためのピアノ作品を、左手だけで演奏してみたら
「その瞬間、目の前に大海原が広がった。氷河が溶け出したように心の奥底から流れ出るものがあった。・・・左手だけでの演奏であるが・・・ただただ生き返るようであった。そこには間違いなく私の音があった。・・・理屈ではなく、身体で悟っていった。」(文藝春秋2005年5月号より)
と書かれていましたが、今回のインタビューではご本人は
「その楽譜を目にした途端、ここには音楽があることが分かった」と言われました。
演奏をして音を耳にしなくても、見ただけでそこに音楽を感じることができることが訓練された右脳の能力であり、それは左脳だけでは決してできない芸当です。
舘野さんは2002年に脳卒中に襲われ懸命のリハビリに励まれたそうですが、右手はピアノを弾くまでには回復されませんでした。とは言いながら、かなり自由に動かすことがお出来になっていました。
少なくとも、右手をポケットに入れておかなければいけない状態では全くありませんでした。前回のブログで話したように、右の上肢に麻痺がある場合には、ことばを話すことが難しくなるタイプの失語症を伴うことが多いのです。ただ、このタイプの失語症は当初みられる障害の重さから予測するよりも、ずっと回復できることが多いと思います。
舘野さんは、インタビュアーとの話はほとんど問題なく進めていかれましたが、ご本人にしたらもどかしく思われることも何度もあったに違いないと私は思いました 。
それでも、発病直後の「まったくしゃべれませんでした」というところから日常生活には支障がないところまで回復されたのですから、素晴らしいことです。
ここまで回復されるには、多くの努力を積み重ねられたことと思います。
と、書きながら、「これも右脳が存分に働けていたから」とう思いがわきあがってきます。
左脳に損傷を受けた人たちの多くは、発病後早い段階で非常に落ち込むことが多いのです。
「話せない。利き手である右半身にはまひがある。これから先どうすればいいのか・・・」
その時期を乗り越え、右手がどうしても使えないということを受け入れることができたら、左手で書いたりお箸を持ったりし始め、それから後は涙ぐましい努力を惜しみません。
右脳障害の後遺症として病態失認ということがあります。
自分に起きた左側のマヒを認めなられないのです。
一人で座ることもままならないのに「どこも悪くない」と答えられると、びっくりしますが、それ以上にその人が突然立ち上がろうとするのにも驚かされます。
右脳障害を受けた人たちの中で、この左半側麻痺を否定するタイプの人たちは、リハビリに意欲を出すことはありません。もう少し改善しそうなものだと期待されながら、改善がはかばかしくなくて重い後遺症を抱えることにつながりやすいのです。
麻痺という状態を理解できないのと同様に、今の自分の置かれている状況そのものの理解も悪いのでしょう。だから口ではいろいろ言いますが、行動とは大きなギャップがあることが多く、周りの人たちとの関係性にも問題を起こしてしまうこともよくあります。
舘野さんは繰り返し言われました。
「こういうこともできる。あんなこともわかる」
「次にはどんなことが待っているのだろう」
「脳卒中をやって開けた世界がありました」
感動的なほどのポジティブな考え方は、多分天性のものだろうとは思いました。
それでも右脳を障害されていたら、このような生き方はちょっと難しかったかも知れないと思ったことでした。