昨日のブログで触れた「KY」について補足します。
以前行った堂ヶ島洋ランセンターのランたち
KYとは、場の雰囲気・状況を察することが出来ない人のことを指す流行語ですが、今日は脳機能からの解説です。
この場合の「場」というのは「社会生活の場」、もしくは家庭生活の場合でもある程度の成熟が条件です。
赤ちゃんや子供には、もともと「その場の空気を読むこと」は要求されていません。このKYという略語が、若者たちの携帯メールから発生したことを考えてください。
このように「ある程度の成熟」という条件がつくときには、言い方を変えれば、叱責するにしろ、激励するにしろ「その年齢になってるのだから」ということばが文頭に付くことになります。以下の例を見てください。
「その年齢になってるのだから」恥を知れ
「その年齢になってるのだから」責任を果たせ
「その年齢になってるのだから」気を利かせろ
「その年齢になってるのだから」臨機応変にやれ
「その年齢になってるのだから」我慢しろ
「その年齢になってるのだから」根気よくやれ
「その年齢になってるのだから」自分で考えろ
「その年齢になってるのだから」が文頭に付くとき、脳機能から言えば前頭葉が関与していることのサインだと思って間違いないでしょう。
前頭葉は、白紙状態で生まれ、親の価値観を受けながら体験を重ねていくうちに、その人なりの色をつけていきます。
「その年齢になってるのだから」という、この状況をうまく反映してると思いませんか?
場の雰囲気・状況を察する役割は、当然のことながら前頭葉にあります。
その人らしさの根源をなす前頭葉の働きは実に多岐にわたっています。
発想・計画・工夫・創造 ・好奇心・感動・ユーモアetc
その中でも、もっとも大切な働きに「脳全体の司令塔の役割」があります。
周りの状況を判断して何をどのようにするか、運動野をどのように使うか、左脳をどのように使うか、右脳をどのように使うか、すべて前頭葉が決めているのです。「私の」前頭葉が運動野・右脳・左脳に対して、行動の命令を出す結果、私たちは、ほかの誰でもなく「私らしく」毎日を暮らしていくことになるのです。
確かに、その場の空気を読むのは、前頭葉の機能です。
つまり、最近の若者たちの間に、その場の空気を読むことができない人が増えているのだとしたら、若者たちの前頭葉機能のうちの「脳全体の司令塔の役割」に問題がある人が増えているということになります。
若者たちに限らないという指摘もありますが。
それでは何故、前頭葉を障害されている訳でもない、単に右脳を障害されているだけの人たちは「その場の空気が読めないのか」?
マニュアルAの6ページ3頭立ての馬車を読み返してください。
前頭葉が判断するための情報は、右脳や左脳を介して前頭葉に届けられます。
コミュニケーションをしているとき、右脳も左脳も前頭葉もそれぞれの役割を担っています。
右脳は身振りや表情、微妙な言い回しや言外のニュアンスや言葉のトーンなどのアナログ情報を受け取り、前頭葉に伝える。
左脳は言葉の情報を受け取り、前頭葉に伝える。
そしてそれらを基にして、前頭葉はその場の状況を判断して、右脳・左脳に指令を下す。これの連続です。
右脳障害の場合には、前頭葉に渡すべき、身振りや表情、微妙な言い回しや言外のニュアンスや言葉のトーンなどのアナログ情報が、不足または欠落してしまうのです。
左脳障害なら、言葉そのものの情報の不備ということになります。
前頭葉がその場の空気を読むために不可欠な情報は、右脳のアナログ情報でしょうか?それとも左脳のデジタル情報なのでしょうか?
右脳障害の人と左脳障害の人と会話をしてみるとわかりますが、どう考えてもアナログ情報なのです。障害の程度にもよりますが、右脳障害の人よりも失語症の人とのコミュニケーションの方がやりやすいことに驚かれると思います。
最近の報告で、会話を成立させるのは80パーセントが言語外の情報と読んだこともあります。
どんなに立派な御者であっても、馬自体の能力に問題があるとしたら、判断も的確さを欠くし、その馬を走らせることもできません。
コミュニケーションの場においては、前頭葉機能が万全であることが十分条件。
ただしその前提として、右脳・左脳が十分機能していることが必要条件になります。大方の予想に反して、必要度が右脳のほうが高いということなのです。