「原左都子エッセイ集」4本前の2014.5.16バックナンバーに於いて、「“みんな主義派 V.S “人間関係こだわり派”」と題するエッセイを綴り公開した。
上記エッセイは、私がペンネーム「原左都子」名で登録しているFacebook上の友達(通称)mito氏とのチャットやり取りをエッセイにまとめて公開した内容である。
mito氏が当該エッセイをFacebook上でリンクして下さったお陰で、このバックナンバーにはその後数多くのアクセスを頂戴している。 その現象に、この世には人間関係で苦悩する市民の数多さを再確認させられる思いでもある。
(参考のためここでmito氏の略歴を述べるならば、東大ご出身、現役大学教授であられる。)
さてその後、Facebook上でmito氏及び当該エッセイにコメントを頂いたmito氏のご友人との間で、チャットはまだ続いた。
この内容こそが今回のエッセイを綴るきっかけとなったため、以下にその一部を紹介させていただこう。
原左都子
mitoさんと原左都子との関係とは実におもしろい♪のです。 そもそも知り合ったきっかけキーワードが「70年代ディスコサウンド」であり、お互い実際にディスコダンスを踊り合ったのが最初の出会いでした。 私にとってはこの突拍子もない出会いが最高だったとも言えます。 その後Facebookに場を移して後は、お互いに自由議論が成り立っていると私は解釈しております。
mitoさん
ネットの醍醐味ですね。
ぼくは、ディスコダンスを教えてあげるつもりで、
たまたま見つけた原さんのディスコ音楽のブログ書き込みに、
某ディスコ大会へのお誘いをレスしました。
本当に来てくださいました。
と、その前に、ディスコについては、
彼女はクィーンであることを身に知らされました。
ほんと、かっこよかったです。
ぼくは昔から、ステップを教えるのは上手なんですが、
自分が踊るのは下手くそなんです。
ぼくらの若い頃は、
ディスコで上手に踊ってる女の子は、
みんなかっこ良くて、
高嶺の花でした。
それよりは若い世代ですが、
原さんはそういう女性だったのです。
僕らが淡く憧れていた不良少女だったかどうかは、
まだ聞いておりません。(笑)
原左都子
mitoさんは私より少し早く70年代ディスコデビューされたようですが、好きなディスコナンバーがかぶっていて都内某所では何曲も一緒に踊りました!
mitoさん、私が不良少女だったかどうかは不明(と言うよりヒ・ミ・ツ)ですが、長い独身時代を通じてずっと主体的に「自由人」を貫いたのは確かです。♪♪
(以上、Facebook上でのmito氏とのやり取りのうち、原左都子にとって“都合のいい部分”のみをちゃっかり引用したもの)
さて、今回のエッセイ本題に入ろう。
「恋愛・男女カテゴリー」に位置付けた本エッセイに於いては、要するに、mitoさんよりの上記Facebookご質問に回答するべく、原左都子がこと“男関係”に於いて、「不良少女」だったか否かに関して自ら論評せんとするものである。
結論から言うと、上記mitoさん宛の返答内でも述べているように、(私自身の解釈では)あくまでも独身時代は「自由人」を貫いただけの話で、決して「不良少女」ではなかったと自己分析している。
ここから、原左都子若かりし時代の私事を語ろう。
新卒入社で東京に本社を有する民間会社(参考のため現在東証一部上場企業)に、私は医学専門社員として勤務していた。
その当初まさに時代が70年代後半期であり、私は週末には新宿・六本木等々のディスコへ会社の女性友人らと共に通い詰めていたとも表現できるであろう。
元々ダンス好きの私はディスコの最前列にしゃしゃり出て、得意のダンスを披露したものだ♪ そんな私に目を付ける男性ディスコ客が多かったのも事実だ。 ただし、元々客観力が取り柄の私としては、必ずや声をかけてきた男性と十分なる会話の上に虎視眈々と相手の“人となり”を見極める作業は欠かさなかった。(酒に強かった我が身体的条件にも助けられたのだが。)
我が20代前半頃の民間会社内に私事を移そう。
勤務先に於いても、20代前半の“うら若き”私に「お誘い」を寄越す男性は少なくなかった。(このシチュエーションの場合、ディスコで知り合う相手と比較すると、おそらく学業・職業的バックグラウンドとしてはある程度一致していると考察して間違いないであろう。) 片やそれら男性どもに対しても当然ながら私なりの好みはある。 第一関門としてまずは「外見」で切り捨て、それをクリアした男性に関して私は「面談」方式を採用したのだ。
ところが、私が当時採用した「面談方式」が社内同年代女性社員よりバッシングされる運命だった!
彼女らが言うには、「あの人(私の事だが)、『誰にでもついていく』タイプね」
ところが、時代は未だ「適齢期」なる俗語が蔓延っていた頃である。 その言葉で私を蔑んだ彼女らはさっさと結婚・出産して会社を去って行った…。
最後に、原左都子の私論に入ろう。
我が20代前半期に、私を「誰にでもついていく女」と蔑んだ彼女らの思いも十分理解可能だ。
要するに70年代後半期に民間企業に勤務していた彼女達は、“適齢期”に狭き社内で“寿退社”を狙い結婚相手を模索するのに血眼状態だったのだろう。
ところが我が理想は遥か遠いところにあった。 結婚などしている場合ではないとの。
自己実現意欲に燃え続けていた私にとっての男の存在とは、自分の夢に付き合ってくれるキャパ無くして成り立たないのだ。 そんな男を追い求め、近づいてくる男の「面談」を実施するため会合を持っただけの話である。
要するに、決して誘いをかけてくる男に受け身で「ついて行った」のではない。 独身を貫きたい私側として、それを理解出来るキャパある男を私側から選別するべく積極的に対応しただけの話なのだ。
で、それがいつも成功したか、ですって?
いやいや我が若かりし時代には、相手男の「外見」にこだわり過ぎての失敗もあったことは事実だ。
そんな原左都子20代前半期の恋愛失敗談に関しては、2008.5.22「傘を返して欲しい」、2008.6.13「別れて下さい」 等々バックナンバーでも公開しておりますので、そちらをご覧頂けますように。
(不謹慎ながらも、私自身が今読み直しても結構面白い内容ですよ~~♪♪)
上記エッセイは、私がペンネーム「原左都子」名で登録しているFacebook上の友達(通称)mito氏とのチャットやり取りをエッセイにまとめて公開した内容である。
mito氏が当該エッセイをFacebook上でリンクして下さったお陰で、このバックナンバーにはその後数多くのアクセスを頂戴している。 その現象に、この世には人間関係で苦悩する市民の数多さを再確認させられる思いでもある。
(参考のためここでmito氏の略歴を述べるならば、東大ご出身、現役大学教授であられる。)
さてその後、Facebook上でmito氏及び当該エッセイにコメントを頂いたmito氏のご友人との間で、チャットはまだ続いた。
この内容こそが今回のエッセイを綴るきっかけとなったため、以下にその一部を紹介させていただこう。
原左都子
mitoさんと原左都子との関係とは実におもしろい♪のです。 そもそも知り合ったきっかけキーワードが「70年代ディスコサウンド」であり、お互い実際にディスコダンスを踊り合ったのが最初の出会いでした。 私にとってはこの突拍子もない出会いが最高だったとも言えます。 その後Facebookに場を移して後は、お互いに自由議論が成り立っていると私は解釈しております。
mitoさん
ネットの醍醐味ですね。
ぼくは、ディスコダンスを教えてあげるつもりで、
たまたま見つけた原さんのディスコ音楽のブログ書き込みに、
某ディスコ大会へのお誘いをレスしました。
本当に来てくださいました。
と、その前に、ディスコについては、
彼女はクィーンであることを身に知らされました。
ほんと、かっこよかったです。
ぼくは昔から、ステップを教えるのは上手なんですが、
自分が踊るのは下手くそなんです。
ぼくらの若い頃は、
ディスコで上手に踊ってる女の子は、
みんなかっこ良くて、
高嶺の花でした。
それよりは若い世代ですが、
原さんはそういう女性だったのです。
僕らが淡く憧れていた不良少女だったかどうかは、
まだ聞いておりません。(笑)
原左都子
mitoさんは私より少し早く70年代ディスコデビューされたようですが、好きなディスコナンバーがかぶっていて都内某所では何曲も一緒に踊りました!
mitoさん、私が不良少女だったかどうかは不明(と言うよりヒ・ミ・ツ)ですが、長い独身時代を通じてずっと主体的に「自由人」を貫いたのは確かです。♪♪
(以上、Facebook上でのmito氏とのやり取りのうち、原左都子にとって“都合のいい部分”のみをちゃっかり引用したもの)
さて、今回のエッセイ本題に入ろう。
「恋愛・男女カテゴリー」に位置付けた本エッセイに於いては、要するに、mitoさんよりの上記Facebookご質問に回答するべく、原左都子がこと“男関係”に於いて、「不良少女」だったか否かに関して自ら論評せんとするものである。
結論から言うと、上記mitoさん宛の返答内でも述べているように、(私自身の解釈では)あくまでも独身時代は「自由人」を貫いただけの話で、決して「不良少女」ではなかったと自己分析している。
ここから、原左都子若かりし時代の私事を語ろう。
新卒入社で東京に本社を有する民間会社(参考のため現在東証一部上場企業)に、私は医学専門社員として勤務していた。
その当初まさに時代が70年代後半期であり、私は週末には新宿・六本木等々のディスコへ会社の女性友人らと共に通い詰めていたとも表現できるであろう。
元々ダンス好きの私はディスコの最前列にしゃしゃり出て、得意のダンスを披露したものだ♪ そんな私に目を付ける男性ディスコ客が多かったのも事実だ。 ただし、元々客観力が取り柄の私としては、必ずや声をかけてきた男性と十分なる会話の上に虎視眈々と相手の“人となり”を見極める作業は欠かさなかった。(酒に強かった我が身体的条件にも助けられたのだが。)
我が20代前半頃の民間会社内に私事を移そう。
勤務先に於いても、20代前半の“うら若き”私に「お誘い」を寄越す男性は少なくなかった。(このシチュエーションの場合、ディスコで知り合う相手と比較すると、おそらく学業・職業的バックグラウンドとしてはある程度一致していると考察して間違いないであろう。) 片やそれら男性どもに対しても当然ながら私なりの好みはある。 第一関門としてまずは「外見」で切り捨て、それをクリアした男性に関して私は「面談」方式を採用したのだ。
ところが、私が当時採用した「面談方式」が社内同年代女性社員よりバッシングされる運命だった!
彼女らが言うには、「あの人(私の事だが)、『誰にでもついていく』タイプね」
ところが、時代は未だ「適齢期」なる俗語が蔓延っていた頃である。 その言葉で私を蔑んだ彼女らはさっさと結婚・出産して会社を去って行った…。
最後に、原左都子の私論に入ろう。
我が20代前半期に、私を「誰にでもついていく女」と蔑んだ彼女らの思いも十分理解可能だ。
要するに70年代後半期に民間企業に勤務していた彼女達は、“適齢期”に狭き社内で“寿退社”を狙い結婚相手を模索するのに血眼状態だったのだろう。
ところが我が理想は遥か遠いところにあった。 結婚などしている場合ではないとの。
自己実現意欲に燃え続けていた私にとっての男の存在とは、自分の夢に付き合ってくれるキャパ無くして成り立たないのだ。 そんな男を追い求め、近づいてくる男の「面談」を実施するため会合を持っただけの話である。
要するに、決して誘いをかけてくる男に受け身で「ついて行った」のではない。 独身を貫きたい私側として、それを理解出来るキャパある男を私側から選別するべく積極的に対応しただけの話なのだ。
で、それがいつも成功したか、ですって?
いやいや我が若かりし時代には、相手男の「外見」にこだわり過ぎての失敗もあったことは事実だ。
そんな原左都子20代前半期の恋愛失敗談に関しては、2008.5.22「傘を返して欲しい」、2008.6.13「別れて下さい」 等々バックナンバーでも公開しておりますので、そちらをご覧頂けますように。
(不謹慎ながらも、私自身が今読み直しても結構面白い内容ですよ~~♪♪)