2本前に公開した我がエッセイ 「全治2ヶ月の骨折はどうなっているの!?ですって?」 宛に、Facebook上で相互に“友達登録”している男性某氏よりコメントを頂いた。
それがきっかけとなり、某氏との間でFacebookチャット機能を通して「人間関係」に関する議論が展開されることと相成った。
これが「人間関係」も主たる我がエッセイカテゴリーテーマとしている原左都子にとっては、ネット上では久しぶりに何とも面白い議論展開となったのだ。
仮にFacebook上の友達名を「mitoさん」と呼ばせていただく事として、mitoさんと原左都子とのチャットのやり取りを、(一部個人情報を削除しつつ)以下にほぼ全文を紹介しよう。
(参考のため、mitoさんは東大ご出身で首都圏に位置する大学の現役教授でいらっしゃる。)
原左都子
mitoさん、コメントありがとうございます。 私の場合人の世話になるのが苦手なところがあります。 後で恩を売られるのが嫌と言いますか、「倍返ししろ」と言われたらもっと嫌と言いますか… とにかく、我がままなのですよ。 だからこそ若い頃から一人で生きて行くことを志向しているのだと思います。 (例え今後また骨折したとて)、何とか人の世話にならずに人生を終えたいものです。
mitoさん
サムライですね。ももクロじゃないほうの。(笑)
あっ、でも、バッシングされる人の特徴かも。
みんな主義の人たちから。
原 左都子
ところでmitoさんは、「みんな主義」ですか? 「バッシングされ派」ですか? mitoさんと知り合った当初、私はてっきりmitoさんは「みんな主義」かと思っていたのですよ、実は。(笑) Facebook上で反応を頂けるようになってから、意外とそうではなくて、両刀遣いかあるいはもっと違う個性の持ち主かと考察しています。
mitoさん
ぼくを好まない人が一人でもいると、学生に対してでも、なんでなんで、そんなわけないでしょ、と追求する、
つまり、みんなから愛されたい派です。
しかし、自分自身は、みんなにあわせるなんて、くそくらえ、自分は自由に生きるんだ、というタイプです。
かなりエネルギー使いますよ。
バッシングする人は、みんな主義の、つまんないやつだ、と思ってけっこう、
ストレス感じずにやっていけます。
何度も言うけど、エネルギーは使うんですよ。
原 左都子
mitoさんがエネルギーを使っていらっしゃることは十分承知ですので、ご安心下さい。 ずっと前に東京某所に行った時に、Eさんと「mitoさんて、いい人」談義をしたことを思い出しました。 人柄を知る程に「いい人」評価が上がるmitoさんですね!
mitoさん
ありがとうございます。
ただし、みんながいい人だと思ってくれるわけではありません。
そこが残念です。というより、そこのところは、執念深いです。
原 左都子
私にとってはmitoさんのような「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」はむしろ面白い、と言うか興味深いですよ。 私などその対極で、「嫌われてこその我が存在感」だと自負していますから。 ただ、「お前が嫌いだ!」とストーカーっぽくしつこく言われるのは、やはり勘弁願いたいですね。 私が嫌いならば、静かに私の前から去って欲しいものです。 私は勝手に好きな人同士でまみえて人生を送りたいのですから。 そういう意味では、結局mitoさんの思考と共通点があるのかもしれません。 ところでこの議論面白いですね。 近々、我がエッセイのテーマに取り上げたいものです。
mitoさん
ぜひ、実名付きでもいいから、取り上げてください。
やはり、原さんとぼくとは、二律背反タイプだと思います。
好きと嫌いは同義語です。
反意語は、無関心です。
ぼくが嫌いだという人を追い求めるのは、ぼくの職業柄かもしれません。
教員としても、ろんぶんでも、ぼくを承認しない人の存在を認められないのです。
これに対して、好きな人同士で目立たずに交流していれば満足というのは、好きな人以外には無関心という男前な心です。
原 左都子
mitoさん、ガッテン致しました! たとえネット上とはいえ議論がピンポンで続く現象とは、私はその議論が生命を宿している証拠と捉えます。 必ずや後日、我がエッセイ集でmitoさんから発信頂いたこの議論をエッセイとして綴り公開します!
あっと、この場で私の見解も書いておきますが、たとえ私が「嫌いな奴は切り捨てて好きな人同士で交流したい」と言えども、決してそれは“目立たず”ではあり得ません! 私がそもそも“目立ちたがり屋”であることは、70年代ディスコ趣味でも共通項のあるmitoさんは、既にご存知の事と心得ます。 今後も、嫌いな奴を切り捨てつつ、「目立って」我が人生を貫きますよ~♪♪
mitoさん
確かにそうでした。(笑)
さて、私論に入ろう。
まずは原左都子なりに、上記チャット上で出没した用語の解説から始めよう。
mitoさんがおっしゃるところの 「みんな主義」 とは?
(あくまで原左都子の解釈範疇を超えていない事をお許し頂きたいが)、この場合の「みんな主義」とは、自分とかかわる相手に関して「好き」とか「嫌い」とかの概念判断を下さず(あるいは度外視)して、とりあえず周囲に迎合し集団内では「無関心」を貫き、自らが事なきを得たいとの思想に基づき行動する主義と解釈する。
それに対し、原左都子が表題に提示した 「人間関係こだわり派」 とは?
私自身、自分側がとことん好む人間関係を厳選しつつ生きている事は歴然と言える。 上記に紹介した通り、相手方が私を本気で嫌いならば静かに去ってくれたら幸せなる「嫌われてこその我が存在感」、これこそが我が人生の信条でもある。
要するに私自身の「人間関係こだわり」とは、あくまでも自分が好きな人と交流して生きて行きたいとの方針である。
ところが、これに関してmitoさんとのチャット交流により 「人間関係こだわり派」 にも多様性があるものと私は学習した。
私から観察して、一見「みんな主義」かと考察する人物の中には、mitoさんのように「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」が存在する事を改めて認識させてもらえた気がする。 みんなに好かれるために日々“執念深く”努力を重ねている人物が存在する事を、私はmitoさんを通じて初めて知った思いだ。
もしかしてmitoさんのように、みんなに好かれることをエネルギッシュに全うできたならば、これぞ「世の平和」が叶うのかもしれない。
この発想は明らかに、単純に周囲と迎合せんとする「みんな主義」とは異質のものと私も承知する。
それでも、mitoさんのお気持ちとは「嫌われてこその我が存在感主義」の私の信条と確かに一致する部分があるのだ。
両者の共通項とは、「人間関係」に於ける“こだわり”と私は結論付けたい。
恐らく私は、年齢を重ねる程に私なりの“人間関係こだわり感”が強くなりそうな予感がある。 (mitoさんも、そうであられるかもしれない??)
(最後に参考ですが、「原左都子エッセイ集」に関するコメントは現在本ブログ上では受け付けておりません。 もしよろしければFacebookに登録頂き、原左都子との友達申請手続きをして頂けますと、Facebook上でのコメント受付が叶います事を付け加えさせて頂きます。)
それがきっかけとなり、某氏との間でFacebookチャット機能を通して「人間関係」に関する議論が展開されることと相成った。
これが「人間関係」も主たる我がエッセイカテゴリーテーマとしている原左都子にとっては、ネット上では久しぶりに何とも面白い議論展開となったのだ。
仮にFacebook上の友達名を「mitoさん」と呼ばせていただく事として、mitoさんと原左都子とのチャットのやり取りを、(一部個人情報を削除しつつ)以下にほぼ全文を紹介しよう。
(参考のため、mitoさんは東大ご出身で首都圏に位置する大学の現役教授でいらっしゃる。)
原左都子
mitoさん、コメントありがとうございます。 私の場合人の世話になるのが苦手なところがあります。 後で恩を売られるのが嫌と言いますか、「倍返ししろ」と言われたらもっと嫌と言いますか… とにかく、我がままなのですよ。 だからこそ若い頃から一人で生きて行くことを志向しているのだと思います。 (例え今後また骨折したとて)、何とか人の世話にならずに人生を終えたいものです。
mitoさん
サムライですね。ももクロじゃないほうの。(笑)
あっ、でも、バッシングされる人の特徴かも。
みんな主義の人たちから。
原 左都子
ところでmitoさんは、「みんな主義」ですか? 「バッシングされ派」ですか? mitoさんと知り合った当初、私はてっきりmitoさんは「みんな主義」かと思っていたのですよ、実は。(笑) Facebook上で反応を頂けるようになってから、意外とそうではなくて、両刀遣いかあるいはもっと違う個性の持ち主かと考察しています。
mitoさん
ぼくを好まない人が一人でもいると、学生に対してでも、なんでなんで、そんなわけないでしょ、と追求する、
つまり、みんなから愛されたい派です。
しかし、自分自身は、みんなにあわせるなんて、くそくらえ、自分は自由に生きるんだ、というタイプです。
かなりエネルギー使いますよ。
バッシングする人は、みんな主義の、つまんないやつだ、と思ってけっこう、
ストレス感じずにやっていけます。
何度も言うけど、エネルギーは使うんですよ。
原 左都子
mitoさんがエネルギーを使っていらっしゃることは十分承知ですので、ご安心下さい。 ずっと前に東京某所に行った時に、Eさんと「mitoさんて、いい人」談義をしたことを思い出しました。 人柄を知る程に「いい人」評価が上がるmitoさんですね!
mitoさん
ありがとうございます。
ただし、みんながいい人だと思ってくれるわけではありません。
そこが残念です。というより、そこのところは、執念深いです。
原 左都子
私にとってはmitoさんのような「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」はむしろ面白い、と言うか興味深いですよ。 私などその対極で、「嫌われてこその我が存在感」だと自負していますから。 ただ、「お前が嫌いだ!」とストーカーっぽくしつこく言われるのは、やはり勘弁願いたいですね。 私が嫌いならば、静かに私の前から去って欲しいものです。 私は勝手に好きな人同士でまみえて人生を送りたいのですから。 そういう意味では、結局mitoさんの思考と共通点があるのかもしれません。 ところでこの議論面白いですね。 近々、我がエッセイのテーマに取り上げたいものです。
mitoさん
ぜひ、実名付きでもいいから、取り上げてください。
やはり、原さんとぼくとは、二律背反タイプだと思います。
好きと嫌いは同義語です。
反意語は、無関心です。
ぼくが嫌いだという人を追い求めるのは、ぼくの職業柄かもしれません。
教員としても、ろんぶんでも、ぼくを承認しない人の存在を認められないのです。
これに対して、好きな人同士で目立たずに交流していれば満足というのは、好きな人以外には無関心という男前な心です。
原 左都子
mitoさん、ガッテン致しました! たとえネット上とはいえ議論がピンポンで続く現象とは、私はその議論が生命を宿している証拠と捉えます。 必ずや後日、我がエッセイ集でmitoさんから発信頂いたこの議論をエッセイとして綴り公開します!
あっと、この場で私の見解も書いておきますが、たとえ私が「嫌いな奴は切り捨てて好きな人同士で交流したい」と言えども、決してそれは“目立たず”ではあり得ません! 私がそもそも“目立ちたがり屋”であることは、70年代ディスコ趣味でも共通項のあるmitoさんは、既にご存知の事と心得ます。 今後も、嫌いな奴を切り捨てつつ、「目立って」我が人生を貫きますよ~♪♪
mitoさん
確かにそうでした。(笑)
さて、私論に入ろう。
まずは原左都子なりに、上記チャット上で出没した用語の解説から始めよう。
mitoさんがおっしゃるところの 「みんな主義」 とは?
(あくまで原左都子の解釈範疇を超えていない事をお許し頂きたいが)、この場合の「みんな主義」とは、自分とかかわる相手に関して「好き」とか「嫌い」とかの概念判断を下さず(あるいは度外視)して、とりあえず周囲に迎合し集団内では「無関心」を貫き、自らが事なきを得たいとの思想に基づき行動する主義と解釈する。
それに対し、原左都子が表題に提示した 「人間関係こだわり派」 とは?
私自身、自分側がとことん好む人間関係を厳選しつつ生きている事は歴然と言える。 上記に紹介した通り、相手方が私を本気で嫌いならば静かに去ってくれたら幸せなる「嫌われてこその我が存在感」、これこそが我が人生の信条でもある。
要するに私自身の「人間関係こだわり」とは、あくまでも自分が好きな人と交流して生きて行きたいとの方針である。
ところが、これに関してmitoさんとのチャット交流により 「人間関係こだわり派」 にも多様性があるものと私は学習した。
私から観察して、一見「みんな主義」かと考察する人物の中には、mitoさんのように「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」が存在する事を改めて認識させてもらえた気がする。 みんなに好かれるために日々“執念深く”努力を重ねている人物が存在する事を、私はmitoさんを通じて初めて知った思いだ。
もしかしてmitoさんのように、みんなに好かれることをエネルギッシュに全うできたならば、これぞ「世の平和」が叶うのかもしれない。
この発想は明らかに、単純に周囲と迎合せんとする「みんな主義」とは異質のものと私も承知する。
それでも、mitoさんのお気持ちとは「嫌われてこその我が存在感主義」の私の信条と確かに一致する部分があるのだ。
両者の共通項とは、「人間関係」に於ける“こだわり”と私は結論付けたい。
恐らく私は、年齢を重ねる程に私なりの“人間関係こだわり感”が強くなりそうな予感がある。 (mitoさんも、そうであられるかもしれない??)
(最後に参考ですが、「原左都子エッセイ集」に関するコメントは現在本ブログ上では受け付けておりません。 もしよろしければFacebookに登録頂き、原左都子との友達申請手続きをして頂けますと、Facebook上でのコメント受付が叶います事を付け加えさせて頂きます。)