原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

職責よりも我が子の入学式を優先する教員のプロ意識の程

2014年05月02日 | 時事論評
 冒頭より私事を語らせていただこう。 

 我が子の小学校入学式の日を、私は一生忘れる事はないであろう。

 14年前のあの日、入学式等すべての式典日程が終了した後我が一家は教室に残り、娘の担任先生と最初の個人面談を持つことが叶ったお陰で、我が娘は現在の目覚ましいまでの成長を遂げていると言って過言ではないのだ。


 我が子が出生時のトラブルにより多少の事情を抱えてこの世に生を受けている事に関しては、当該エッセイ集にて幾度か述べている。

 そんな娘の真なる成長を願った私は、その方策の一環として小学校段階から娘が抱えている事情に理解があるとの私学への入学を志し実行しようと試みた。 ところがその当時の私立学校現場とは、“弱者排除思想”がまかり通っていたものと思われる。 残念ながら我が娘の持つ“事情”を公開したがばかりに、受験した全ての私学から「不合格」との通知が届く羽目と相成った。

 この世の無常に落胆しつつ、それでも義務教育である小学校へは親の義務として我が子を入学させねばならないため、今度は地元教育委員会が主催する「就学前相談」を訪れた。
 その場で教育委員会担当者より言い放たれたのが以下の言葉だ。 「今時の障がい児を持つ親とは、権利ばかり主張して困る。 障がい児を産んだ親とは学校現場や保護者皆に“迷惑をお掛けして申し訳ありません。”と頭を下げお詫び行脚をするべきだ。 そもそも障がい児とはその存在自体が迷惑である事を親としてもっと認識してはどうなのか。」  その教育委員会担当者は我々父母が“(自分よりも)高学歴”である情報を得た後は、決して「あなたがその親に該当する」とは告げなかった。 だからこそ尚更、私は当該担当者のこの言葉で当時の公教育のお粗末さレベルを痛い程認識させられたものだ。
 そんな教育委員会が操る公立小学校へ我が子を入学させる事とは、“谷底へ突き落す”よりも残酷な現状と心得つつ、私は悲痛な思いで我が子の入学式の日を迎えた。

 当日は小学校の入学式受付で親子が引き離され、私は入学式会場へ、そして娘は上級生に手を引かれて教室へと向かった。
 その後入学式が終了し、私は娘のクラス教室で再び娘と再開できた。 担任先生の児童達への話しかけに多くの児童が「は~い!」などと元気に応えるのに対し、我が子のみがうつむいて押し黙ってた姿をいつもの事として記憶している。
 そして教室での保護者への伝達事項が終わりに近づいた時、担任先生が以下のように話して下さった。 「もしも個人的にお子様の件で何か担任に話したい事がありましたら、この後教室に残ってご遠慮なくお伝え下さい。」
 それに反応したのは保護者の中でも2,3家族だっただろうか。 その他の皆さんは速やかに元気な子供と共に帰宅した様子だ。  恐らく我が家が持っている事情が一番深刻だと推し量った私は、一番最後に担任先生に個人面談を申し出た。

 そうしたところ、担任先生が既に我が家が教育委員会にて「就学前相談」を受けている事を承知していたことを告げ、「〇さん(我が家のこと)が本日入学式後に個人面談を申し出て下さることを担任としてもお待ちしておりました。」とまで言って下さるではないか!  こうなれば、こちらとしても話は簡単だ。
  ただ我が娘も在席している場で、まさか娘が抱えている深刻な事情に関して話し合いが出来る訳がない。 その事態も把握し「今後、密に連絡を取り合いましょう。」との担任先生の大いなるご配慮でその場を去った我が一家である。

 その後、小学2年生までこの担任先生に我が子はお世話になった。 小学生の娘にとっての小社会である学校現場のスタートラインで、このようなご理解ある担任先生に巡り会えたお陰で、娘はその後大躍進を遂げることが叶ったと私は分析している。


 表題に戻るが、もしもこの日娘の学級担任である教員が小学校の入学式を欠席していたならば、我が家の娘はどう転んだのだろう?

 いや、まさか義務教育のスタートラインである小学校1年生の新担任が、その職責を無視して自分の子の入学式に参列する事は考えられない??
 そうとは言い切れないかもしれない。 小学校の担任とて幼い子供を持つ父母が多いのが現実であろう。 もしもクラス担任として入学式を迎える親にたまたま小学1年生になる子どもがいるとして、その子が障がい児だった場合、子供の入学式を優先しても許されるのかもしれないのか?? (元教員経験者でもある我が私論だが、おそらくその事例の場合、学校現場で1年生のクラス担任を持たせない配慮がなされる事に期待したい。)


 今一度、表題に戻ろう。
 
 埼玉県立高校で、新入生の担任教諭4人が入学式を欠席したとのことだ。 そのいずれもが自分の子の入学式に出席するためであり、それが認められたとのニュース報道だ。

 原左都子自身が高校教員経験者なのだが、このニュースを一見して私が(歪んだ視線で)気付いた事がある。
 それはもしかしたら入学式欠席教員達とは、単に保護者対応が苦手なのではあるまいか?との懸念である。
 というのも、高校現場に於いては保護者とは「入学式」と「卒業式」、はたまた「個人面談」しか来ないのが現状であろう。 後はPTA活動に熱心な保護者が学校を訪れることはあれど、その他の要件で学校に来る保護者は皆無とも表現出来よう。
 要するに、高校教員として(特に若い世代の教員は)保護者の扱いに慣れていないのではなかろうか? 
 もしかして、自分が今後抱えるべく高校生に関して、ずっと年長の保護者から“無理難題”を押し付けられる事態を回避したい故に、スタートラインである入学式をボイコットしたのではなかろうか?


 それが極論であるとしても、教員たる者、その職責を果たすためには普段生徒とかかわる能力に加えて、保護者と渡り合える能力も欠かせないはずだ。

 そんなつもりは一切なくて教員を志したとするならば、元々その職業選択を誤ったと理解するべきだろう。
 子どもを育てる最終責任者である保護者との対等な会話の機会を教員が持てずして、子供とは育ちえないのだから。 
 如何なる理由であれ、入学式をボイコットする教員など学校現場に於いて存在してはならないと結論付けたい。