原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人の本性が見える

2012年11月03日 | 人間関係
 10月から始まったNHK連続テレビ小説「純と愛」は、放送開始後1ヶ月が経過した。
 視聴率との“ものさし”で計ると、このドラマは前回の「梅ちゃん先生」よりも若干その率を下げているようだ。

 ところが、原左都子の観点からは今回の「純と愛」の方がずっと面白い。
 いや、「梅ちゃん先生」も松岡先生が“ドーナツの穴”云々と言い始めた頃より我が個人趣味により少しずつ興味深くなってきたのは確かだ。 それまでは能力の低い主人公梅子が何故医師としてサクセス街道をばく進できるのかの描かれ方において説得力に欠け物足りず、空虚感と共に“ダレる”ドラマと私は解釈していた。

 その点、今回の「純と愛」はドラマ放映当初より脚本に十分な説得力がある。
 主人公純をはじめ、心にトラウマを持っている愛(いとし)、そして二人の家族や職場の同僚達が何故ドラマ内の言動に出るのかに関して説明力がある故に、違和感なく受け入れることが可能だ。


 本日(11月3日)放映されたドラマの内容が特に興味深かった。
 愛(いとし)が精神科を受診する場面とその後の二人の会話を通して、15分間に及び純と愛双方の心理が丁寧に描かれていたと私は評価する。

 この場面を私の記憶のみに頼って、以下に少し再現してみよう。

 心に抱えたトラウマ故に「人の本性が鮮明に見えてしまう」現象により、就業困難をはじめ悪行を施した他人をいきなり殴ってしまう等々、日常生活に支障を来たしている愛(いとし)に、主人公純は精神科受診を勧める。 当初は受診中に精神科医の本性が見えてしまう事を理由に受診を拒否していた愛(いとし)だが、純の誘いにやむなく従い受診に踏み切る。
 MRI等により脳検査を実施したところ、脳に形態・機能上の異常は発見されなかったようだ。 そこで担当精神科医が診断するに「統合失調症」とのことで、薬を処方すると言う。
 以前にも精神科医より安易に「統合失調症」と診断された経験がある愛(いとし)は、「薬なんか要らないですよ。どうせ投薬により脳内ドーパミン過剰放出を抑えて妄想が出るのを制止しようとの魂胆でしょうが、それとボクの他人の本性が見える現象は全く別物ですよ。そんなもの飲んでも無駄です。 あなたはボクのような患者が鬱陶しいからとりあえず『統合失調症』とテキトーに診断して済ませようとしているだけでしょ。 そんなの見え見えですよ!」

 ここで一旦原左都子の私事に入るが、我が病院嫌いの理由の一つは愛(いとし)君とまったく同様である。 大抵の場合、医師の言動の魂胆(テキトーに検査診断し投薬している)が見え透けてしまうのだ。 (いやいやもちろん良心的な医師も世に数多いのだが、悲しいかな何処の病院も数多い患者を抱え時間のやり繰りに切羽詰っている現実であろう…) 

 ドラマの内容に話を戻すが、その後愛(いとし)と精神科医の間でひと悶着あった後、純の部屋に戻った二人が本心をぶつけ合った結果、愛(いとし)が純の部屋を去る決断をする。
 このシーンにおける二人の心情描写にも現実味があって両者の思いが理解可能な私だが、それをここで記していると長くなるため割愛する。
 さて今後純と愛の関係はドラマ内で如何に展開するのであろう??


 「人の本性が見える」 との今回の我がエッセイ集表題に関する話に戻そう。

 上記ドラマ内の愛(いとし)君程鮮明ではないが、原左都子もどちらかと言うと「人の本性が見える」部類の人間である。
 
 原左都子の分析では、おそらく人類とは「人の本性が見える」人種とそれが「見えない」あるいは「見えにくい」人種とに大きく分類できるのではないかと考察する。
 これが考察可能となったのは、年齢を重ねて来た比較的最近の事だ。
 そのように考察可能となった現在において、私は人付き合いにおいて以前よりキャパシティを得たような思いだ。
 そして、「人の本性が見える」私が普段お付き合いをする相手として“さしあたって”相性が良いのは、それが「見えない」か、あるいは「見えにくい」人種であるとの結論にも達しつつある。
 このような記述をすると、私(ボク)だって「人の本性が見える」部類と自負しているけど、その観点で君(原左都子)と付き合ってやっているよ、なる反論も届きそうだ。
 これこそが私が好むお付き合いである。 「人の本性」を見据える能力はあるが、それを超越して多面性を受容しつつの関係とは、長期に渡り上手くやっていける要素と私は理解している。

 さらには、「人の本性が見えない」人種とは、原左都子が何をもってそのように受け止めているのかとの反論も届きそうだ。
 私自身は人間関係において相手の本性を見据えた付き合いをしたい人間である。 「人の本性が見えない(あるいは見ようとしない)」人種は一見付き合い易い相手ではあるが、あくまでも表面部分の付き合いに留まるであろう。


 話をNHK連続テレビ小説「純と愛」に戻そう。

 現在の世間一般的な人間関係において「人の本性が見える」あるいは「見えない」云々よりも、世界規模で政治経済及び国際関係が混沌としているこの時代においては、老若男女を問わず日々の人との付き合い生活がさしあたり楽しく移ろい行く事に重点が置かれるのであろう。

 それでも今回NHK朝の連続テレビ小説において、愛(いとし)を代表する現代に特異的なキャラを取り上げ、それを受け止めようと苦難するこれまたある程度の特異性がある主人公純との兼ね合いを描こうとの、実に困難なドラマ設定を大いに評価する私だ。

 愛(いとし)同様に思春期過ぎた頃から「人の本性が見える」部類の原左都子は、来年3月までこのドラマを我が事として見守りたい思いでいる。