「習い事」といえば昔は子供の専売特許だったものだが、今やむしろ大人、特に現役をリタイアしたり子育てを終了した年配者の方がこれに熱心なのではなかろうか。
本日(5月21日)の朝日新聞別刷「be」RANKING のテーマも、「女性がリタイア後に楽しむ習い事」だった。
この記事の調査結果(アンケートの対象年齢は不詳)によると、女性が習いたいことのベスト5は、「外国語」「ヨガ・ピラティス」「書道」「菜園作り」「生け花・フラワーアレンジメント」と続くようだ。 6位以下には「楽器」「絵画・イラスト」「料理」「陶芸」等々がランクインしている。
ここで早速、原左都子自身が過去において経験した「習い事」の話題に移らせていただくことにしよう。
私は小学生の頃に「書道」を習った。 熱血師範先生の下で6年間みっちり頑張った成果があるのか、今でも筆を持つと当時練習した“楷書”に関してはその基本の“ハネ”“トメ”等を手が自然と憶えている。 我が親としては元々“左利き”だった私に右手で硬筆を上手に書かせることを目的に習わせたようだ。 ところが「硬筆」と「毛筆」は元々別物のようで、肝心の硬筆は一向に上手にならなかった私である。 小学6年生の時に、書道の県大会特選に同じ学校から2名のみ入選して代表で授賞式に参加できた時には、子供心にも今まで「書道」を頑張って来た成果があったとの感覚が持てたものだ。
同じく小学生の頃に一時期「そろばん」も習ったのだが、こちらは指導者が熱心なタイプではなかったせいか、さほどの上達心を持てずに短期間で辞めた。 ただその後も「そろばん」を使うことは結構好きで、独身時代は家計簿をつける時にはいつもそろばん使用だった。 30代に再入学した大学の簿記論の授業でも周囲の学生皆が電卓を使用する中、私一人そろばんで計算し通したものである。(そろばんとは数的論理性が高く“桁違い”のミスを防ぐ高度な計算器であると今尚認識している私である。)
その後大人になってからは、多忙な仕事の合間に様々な趣味に取り組んだ私である。
その多くは個人的あるいはグループ活動として、当時の我が医学関係の仕事とは異分野のあくまでも“趣味”の範疇で取り組んだ活動である。(例えば、ロックバンドのボーカル、ギター、ディスコダンス、カラオケ、はたまた 英会話や茶道等々…)
そんな中、音楽好きな私がこれだけはある程度の技術力を確保したいと志したのが「ダンス」と「キーボード」であった。
私は20代前半に“ジャズダンス”を習うためにプロダンサーが主宰する都内の某スタジオを訪ねた。 年に2度公開公演を行っているこのスタジオの底辺クラスに所属させてもらったのだが、そのレッスンはそれはそれは厳しいものだった。 原左都子持ち前の高身長スリムな“ダンサー体型”のみは大いに評価され重宝してもらったものの、体の柔軟性が乏しい私は肝心のダンスの実力がまったくついていかず、結局たったの1年でギブアップと相成った…。
片や「キーボード」に関しては、家庭でも演奏し易い“エレクトーン”の形でヤマハ音楽教室の個人指導を受けた。 こちらはメキメキと上達し、グレード6級まで取得したことに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても披露している。 今尚、我が一趣味として娘も交え家庭内でエレクトーン演奏を楽しめるのはうれしい事である。
話を現在に移すと、原左都子の場合は未だ子育て中の現役母親の身である。
その種の事情が大きいのかもしれないが、今ここで何か新しい物事にチャレンジしようとの意欲が我が内面から湧き出てこないというのが実情である。
それと共に、たとえ「習い事」に通ったとて、巷のそのレベルの程を推し量ると一抹の虚しさが漂ってしまうのである…。
例えば今現在、私は健康維持目的でスポーツジムに通っている。 ジム入会当初はダンスの一種である「ヒップホップ」や「エアロビクス」クラスに参加して、メンバーの皆と一緒に踊ってみたりもした。 ところが、スポーツジムで実施しているこれらのプログラムとは“習う”という性質のものではなく単に“汗を流す”レベルの運動に過ぎないのだ。 これに物足りなさを感じた私は、結局この団体レッスンを辞めることと相成った。 その後はジムのフリースペースにて、我が過去のダンス歴を生かしつつウォークマンのイヤホンを耳に一人で自主的に踊っている有様なのである。
この期に及んで“年配者”の皆さんと共に何らかの「習い事」に通う事とは、その分野が如何なるものであれ“場の同調性”を意識させられ気疲れする反面、得るものは少ないのかとの空虚感が漂ってしまうのだ。 よほどその分野に興味があれば別問題なのだろうが…。
その一方である程度人生経験を積んできている者としては、指導者の先生にも気兼ねをせねばならない。 例えば原左都子程の年齢になると、巷の「習い事」の指導者達とは皆既に年下である。
専門分野の実力の程は素晴らしいレベルであるとしても、人格面で懸念材料が見え隠れする指導者が存在することに関しては、我が子の「習い事」に散々付き合って来た原左都子としては既に重々把握している。 たとえ子供の「習い事」とてこんな人物に我が子を託す訳にはいかない!との判断の下、残念ながらその「習い事」をやめさせたり教室を替えた経験も数多い。
以上のように考察してくると、たかが「習い事」と言えども一筋縄にはいかないのである。
いえいえ、その「習い事」が定年退職したり子供さんを立派に育てて現役をリタイアされた方々ご自身にとって今現在“生きがい”になっておられるならば、当然ながらそれを続行されるべきである。
どうなのだろう。 今はまだ子育て中で日々心身共に張り詰めている状態の私の立場からは想像しにくいのだが、我が子に本気で自立された暁には、何でもいいから「習い事」に励みたいとの一種“寂しい時代”が訪れるのであろうか???
原左都子としては今後さらに年齢を重ねていく中で、例えばこの「原左都子エッセイ集」のごとく自分自身がこれまで培ってきた所産や経験則を活かしつつ、今さら「習う」よりも(自己の内面をさらに深く掘り下げるべく)「励む」人生を歩みたいと欲するのだ。
皆さんは如何であろうか??
本日(5月21日)の朝日新聞別刷「be」RANKING のテーマも、「女性がリタイア後に楽しむ習い事」だった。
この記事の調査結果(アンケートの対象年齢は不詳)によると、女性が習いたいことのベスト5は、「外国語」「ヨガ・ピラティス」「書道」「菜園作り」「生け花・フラワーアレンジメント」と続くようだ。 6位以下には「楽器」「絵画・イラスト」「料理」「陶芸」等々がランクインしている。
ここで早速、原左都子自身が過去において経験した「習い事」の話題に移らせていただくことにしよう。
私は小学生の頃に「書道」を習った。 熱血師範先生の下で6年間みっちり頑張った成果があるのか、今でも筆を持つと当時練習した“楷書”に関してはその基本の“ハネ”“トメ”等を手が自然と憶えている。 我が親としては元々“左利き”だった私に右手で硬筆を上手に書かせることを目的に習わせたようだ。 ところが「硬筆」と「毛筆」は元々別物のようで、肝心の硬筆は一向に上手にならなかった私である。 小学6年生の時に、書道の県大会特選に同じ学校から2名のみ入選して代表で授賞式に参加できた時には、子供心にも今まで「書道」を頑張って来た成果があったとの感覚が持てたものだ。
同じく小学生の頃に一時期「そろばん」も習ったのだが、こちらは指導者が熱心なタイプではなかったせいか、さほどの上達心を持てずに短期間で辞めた。 ただその後も「そろばん」を使うことは結構好きで、独身時代は家計簿をつける時にはいつもそろばん使用だった。 30代に再入学した大学の簿記論の授業でも周囲の学生皆が電卓を使用する中、私一人そろばんで計算し通したものである。(そろばんとは数的論理性が高く“桁違い”のミスを防ぐ高度な計算器であると今尚認識している私である。)
その後大人になってからは、多忙な仕事の合間に様々な趣味に取り組んだ私である。
その多くは個人的あるいはグループ活動として、当時の我が医学関係の仕事とは異分野のあくまでも“趣味”の範疇で取り組んだ活動である。(例えば、ロックバンドのボーカル、ギター、ディスコダンス、カラオケ、はたまた 英会話や茶道等々…)
そんな中、音楽好きな私がこれだけはある程度の技術力を確保したいと志したのが「ダンス」と「キーボード」であった。
私は20代前半に“ジャズダンス”を習うためにプロダンサーが主宰する都内の某スタジオを訪ねた。 年に2度公開公演を行っているこのスタジオの底辺クラスに所属させてもらったのだが、そのレッスンはそれはそれは厳しいものだった。 原左都子持ち前の高身長スリムな“ダンサー体型”のみは大いに評価され重宝してもらったものの、体の柔軟性が乏しい私は肝心のダンスの実力がまったくついていかず、結局たったの1年でギブアップと相成った…。
片や「キーボード」に関しては、家庭でも演奏し易い“エレクトーン”の形でヤマハ音楽教室の個人指導を受けた。 こちらはメキメキと上達し、グレード6級まで取得したことに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても披露している。 今尚、我が一趣味として娘も交え家庭内でエレクトーン演奏を楽しめるのはうれしい事である。
話を現在に移すと、原左都子の場合は未だ子育て中の現役母親の身である。
その種の事情が大きいのかもしれないが、今ここで何か新しい物事にチャレンジしようとの意欲が我が内面から湧き出てこないというのが実情である。
それと共に、たとえ「習い事」に通ったとて、巷のそのレベルの程を推し量ると一抹の虚しさが漂ってしまうのである…。
例えば今現在、私は健康維持目的でスポーツジムに通っている。 ジム入会当初はダンスの一種である「ヒップホップ」や「エアロビクス」クラスに参加して、メンバーの皆と一緒に踊ってみたりもした。 ところが、スポーツジムで実施しているこれらのプログラムとは“習う”という性質のものではなく単に“汗を流す”レベルの運動に過ぎないのだ。 これに物足りなさを感じた私は、結局この団体レッスンを辞めることと相成った。 その後はジムのフリースペースにて、我が過去のダンス歴を生かしつつウォークマンのイヤホンを耳に一人で自主的に踊っている有様なのである。
この期に及んで“年配者”の皆さんと共に何らかの「習い事」に通う事とは、その分野が如何なるものであれ“場の同調性”を意識させられ気疲れする反面、得るものは少ないのかとの空虚感が漂ってしまうのだ。 よほどその分野に興味があれば別問題なのだろうが…。
その一方である程度人生経験を積んできている者としては、指導者の先生にも気兼ねをせねばならない。 例えば原左都子程の年齢になると、巷の「習い事」の指導者達とは皆既に年下である。
専門分野の実力の程は素晴らしいレベルであるとしても、人格面で懸念材料が見え隠れする指導者が存在することに関しては、我が子の「習い事」に散々付き合って来た原左都子としては既に重々把握している。 たとえ子供の「習い事」とてこんな人物に我が子を託す訳にはいかない!との判断の下、残念ながらその「習い事」をやめさせたり教室を替えた経験も数多い。
以上のように考察してくると、たかが「習い事」と言えども一筋縄にはいかないのである。
いえいえ、その「習い事」が定年退職したり子供さんを立派に育てて現役をリタイアされた方々ご自身にとって今現在“生きがい”になっておられるならば、当然ながらそれを続行されるべきである。
どうなのだろう。 今はまだ子育て中で日々心身共に張り詰めている状態の私の立場からは想像しにくいのだが、我が子に本気で自立された暁には、何でもいいから「習い事」に励みたいとの一種“寂しい時代”が訪れるのであろうか???
原左都子としては今後さらに年齢を重ねていく中で、例えばこの「原左都子エッセイ集」のごとく自分自身がこれまで培ってきた所産や経験則を活かしつつ、今さら「習う」よりも(自己の内面をさらに深く掘り下げるべく)「励む」人生を歩みたいと欲するのだ。
皆さんは如何であろうか??