(写真は、朝日新聞5月11日夕刊に掲載された「スーパークールビズ」関連記事より転載)
「クールビズ」なる造語がこの国に流行ったのは、今から6年前の2005年の初夏に遡る。
当時の自民党政権の下環境大臣に就任した小池百合子氏が、内閣総理大臣の小泉純一郎氏より「夏場の軽装による冷房の節約」をキャッチフレーズにするべくアドバイスされたようだ。 その小泉氏の意向に従い、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に28℃以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するよう小池氏が呼びかけたのが“元祖”「クールビズ」である。 (大変失礼ではあるが、当時環境大臣としての小池氏のネームバリューとは、この「クールビズ」でしかなかったような記憶が原左都子にはあるのだが…)
環境省のこの呼びかけに対して、政治家や服飾繊維業界より大いなる反発が出た記憶もある。
特にお年寄り議員の先生達など“軽装”で国民の前に現れたものなら、失礼ながら “単なるヨレヨレ爺さん” にしか国民の目には映らないであろう事は、それを見ずして想像がついたと言うものだ。 国民の前で表向きの威厳を保つため、「クールビズ」にはあくまでも抵抗して背広ネクタイ姿を通したお年寄り議員が当時存在したのが事実である。
もっと気の毒なのは、服飾繊維業界だった。 2005年夏季にはネクタイの売上げが大幅に落ち込んだとの報道があったように記憶している。
そして、話を2011年現在の「スーパークールビズ」に移そう。
上記写真の朝日新聞記事に話を戻すと、夏の電力不足が心配される中、菅内閣の環境省がジーンズやアロハシャツ、サンダルでの勤務も認める節電対策を打ち出したとのことである。
それを名付けて「スーパークールビズ」とのことのようだ。
菅内閣環境省の“節電対策”に関しては異論はない。
と言うよりも、大震災発生後復興が進まず、福島第一原発事故も地震発生直後からメルトダウン状態だった事を東電は非公開にしていたことで、先々の計画的事故処理の見通しが付き難い振り出しに戻った状況にある。 さらには浜岡原発の運転も菅総理の指示で停止したとなると、国家機関こそが先陣を切って節電対策に励むべきなのは当然である。
ところが、一国民の原左都子として呆れて“せせら笑い”たくもなるのが、上記朝日新聞の記事なのである。
「スーパークールビズ」とはどの程度の服装ならば許容されるのか、との“おじさん達”からの困惑が世に溢れているとの事なのだ。 (ちょっと“おじさん達”、それ位のことは個々人の良識で判断したらどうなのよ!)と原左都子など言いたいところだが、どうも世の“おじさんビジネスマン”は背広ネクタイ姿が「制服」と化している現状にドップリ浸かり、お上から急に“自由服装”で出勤!と指示されたら困惑するのが実態であるようだ。
そんな“困惑おじさん達”の困惑に応えたのが、上記の朝日新聞記事という事であろう。
いや、でも、これも時と場合と職場、職種により如何なる服装で仕事場に通うかの判断が大きく異なってくるものと原左都子は判断する。
私事で恐縮だが、私が20代前半に新卒で民間企業に入社した時など元々医学専門職社員としての採用であったため、入社当初の新人研修時を除いてむしろずっと軽装で会社に通ったものだ。 仕事場に着けば当然ながら仕事が要求する「仕事着」に着替えをする必要があったためである。
30代後半に教員を経験した時には、確かに“教員らしい”恰好で学校に出向いたものだ。 ただし、この“教員らしい”恰好についても教員個々人の見解は分かれていたことを記憶している。 “ジャージ”がそれに相応しいとの信念でいつもジャージ姿の先生方からは、私が日頃スーツ(ちょっとボディコンミニスカスタイルで派手だったかもしれないけどね~)で教壇に立つ姿を「その恰好じゃ、非常時に生徒を救えないね~」などと嫌味たらしく非難されたりもしたものだ。 原左都子とてそんなことにはめげず、「相手が年端もいかない生徒とは言えども“寝巻きのようなジャージ姿”で教壇に立つ事こそが非常識だ!」、と反論 したこともある。 たとえ服装と言えどもお互いの信念とは相容れないことを実感だねえ…… (まあそれにしても、今現在たとえ公立学校と言えども、この先進国に於いて体育教員以外がジャージで教壇に立つ姿が皆無であろう事を望みたいのだが…。)
そして数年前の事になるが、某独立行政法人研究所にアルバイトの身分で医学関連の仕事に出向いた時にも、この服装制限を上司から告げられていた。 “お洒落感覚”が鋭い私としては、仕事に出向く時とはいえある程度の融通範囲で自分のお洒落アピールは欠かせないのだ。 ところが身分がアルバイトであるため職場での着替えがなく上に白衣を羽織るだけだったため、さらに上司から注意を受けた私である。 「綺麗な恰好をして来ないよう言ったはずです!」 「いえ、決して綺麗ではなく別に汚れてもいい恰好をしていますが…」 どうも両者に認識の違いが生じる程に、この上司にとっては私の恰好が目障りだったようだ…。
それにしても、この朝日新聞の記事はやはり極端と言えるのではなかろうか?
「スーパークールビズ」とお国の環境省から突然言われたところで、何も全国紙である朝日新聞が「これならばOK!」「これはダメ!」なる記事をこんなところで展開せずともいいであろうに…
基本的に、この先進国に於いて“人の恰好”などどうであってもいいはずなのだ。(女性の服装に関して厳格なイスラム教徒の国でもあるまいし……)
そういう観点から考察すると、すべては個々人の判断で節電対策をするべきなのである。
それぞれが特性ある職場に通っているのも国民それぞれであるからこそ、その特性に応じて自分で着ていく服を日々決定すれば済む話なのだ。
そもそも大震災発生のこの期に及んで、何もお国が「スーパークールビズ」などとの旧政権より“受け売りの陳腐な造語”を持ち出さずとてよかったであろうに…。 お国のトップがこんなことだから、いつまでたってもこの国の国民に“自分自身で判断して意思決定できる”主体的能力が育たないのだ。
国民一人ひとりの“節電感覚”や“お洒落感覚”を尊重出来る自由と柔軟性を保ちつつ、我が国の個々人が今後の復興のために仕事に全精力を注げる環境の国であって欲しいものである。
「クールビズ」なる造語がこの国に流行ったのは、今から6年前の2005年の初夏に遡る。
当時の自民党政権の下環境大臣に就任した小池百合子氏が、内閣総理大臣の小泉純一郎氏より「夏場の軽装による冷房の節約」をキャッチフレーズにするべくアドバイスされたようだ。 その小泉氏の意向に従い、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に28℃以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するよう小池氏が呼びかけたのが“元祖”「クールビズ」である。 (大変失礼ではあるが、当時環境大臣としての小池氏のネームバリューとは、この「クールビズ」でしかなかったような記憶が原左都子にはあるのだが…)
環境省のこの呼びかけに対して、政治家や服飾繊維業界より大いなる反発が出た記憶もある。
特にお年寄り議員の先生達など“軽装”で国民の前に現れたものなら、失礼ながら “単なるヨレヨレ爺さん” にしか国民の目には映らないであろう事は、それを見ずして想像がついたと言うものだ。 国民の前で表向きの威厳を保つため、「クールビズ」にはあくまでも抵抗して背広ネクタイ姿を通したお年寄り議員が当時存在したのが事実である。
もっと気の毒なのは、服飾繊維業界だった。 2005年夏季にはネクタイの売上げが大幅に落ち込んだとの報道があったように記憶している。
そして、話を2011年現在の「スーパークールビズ」に移そう。
上記写真の朝日新聞記事に話を戻すと、夏の電力不足が心配される中、菅内閣の環境省がジーンズやアロハシャツ、サンダルでの勤務も認める節電対策を打ち出したとのことである。
それを名付けて「スーパークールビズ」とのことのようだ。
菅内閣環境省の“節電対策”に関しては異論はない。
と言うよりも、大震災発生後復興が進まず、福島第一原発事故も地震発生直後からメルトダウン状態だった事を東電は非公開にしていたことで、先々の計画的事故処理の見通しが付き難い振り出しに戻った状況にある。 さらには浜岡原発の運転も菅総理の指示で停止したとなると、国家機関こそが先陣を切って節電対策に励むべきなのは当然である。
ところが、一国民の原左都子として呆れて“せせら笑い”たくもなるのが、上記朝日新聞の記事なのである。
「スーパークールビズ」とはどの程度の服装ならば許容されるのか、との“おじさん達”からの困惑が世に溢れているとの事なのだ。 (ちょっと“おじさん達”、それ位のことは個々人の良識で判断したらどうなのよ!)と原左都子など言いたいところだが、どうも世の“おじさんビジネスマン”は背広ネクタイ姿が「制服」と化している現状にドップリ浸かり、お上から急に“自由服装”で出勤!と指示されたら困惑するのが実態であるようだ。
そんな“困惑おじさん達”の困惑に応えたのが、上記の朝日新聞記事という事であろう。
いや、でも、これも時と場合と職場、職種により如何なる服装で仕事場に通うかの判断が大きく異なってくるものと原左都子は判断する。
私事で恐縮だが、私が20代前半に新卒で民間企業に入社した時など元々医学専門職社員としての採用であったため、入社当初の新人研修時を除いてむしろずっと軽装で会社に通ったものだ。 仕事場に着けば当然ながら仕事が要求する「仕事着」に着替えをする必要があったためである。
30代後半に教員を経験した時には、確かに“教員らしい”恰好で学校に出向いたものだ。 ただし、この“教員らしい”恰好についても教員個々人の見解は分かれていたことを記憶している。 “ジャージ”がそれに相応しいとの信念でいつもジャージ姿の先生方からは、私が日頃スーツ(ちょっとボディコンミニスカスタイルで派手だったかもしれないけどね~)で教壇に立つ姿を「その恰好じゃ、非常時に生徒を救えないね~」などと嫌味たらしく非難されたりもしたものだ。 原左都子とてそんなことにはめげず、「相手が年端もいかない生徒とは言えども“寝巻きのようなジャージ姿”で教壇に立つ事こそが非常識だ!」、と反論 したこともある。 たとえ服装と言えどもお互いの信念とは相容れないことを実感だねえ…… (まあそれにしても、今現在たとえ公立学校と言えども、この先進国に於いて体育教員以外がジャージで教壇に立つ姿が皆無であろう事を望みたいのだが…。)
そして数年前の事になるが、某独立行政法人研究所にアルバイトの身分で医学関連の仕事に出向いた時にも、この服装制限を上司から告げられていた。 “お洒落感覚”が鋭い私としては、仕事に出向く時とはいえある程度の融通範囲で自分のお洒落アピールは欠かせないのだ。 ところが身分がアルバイトであるため職場での着替えがなく上に白衣を羽織るだけだったため、さらに上司から注意を受けた私である。 「綺麗な恰好をして来ないよう言ったはずです!」 「いえ、決して綺麗ではなく別に汚れてもいい恰好をしていますが…」 どうも両者に認識の違いが生じる程に、この上司にとっては私の恰好が目障りだったようだ…。
それにしても、この朝日新聞の記事はやはり極端と言えるのではなかろうか?
「スーパークールビズ」とお国の環境省から突然言われたところで、何も全国紙である朝日新聞が「これならばOK!」「これはダメ!」なる記事をこんなところで展開せずともいいであろうに…
基本的に、この先進国に於いて“人の恰好”などどうであってもいいはずなのだ。(女性の服装に関して厳格なイスラム教徒の国でもあるまいし……)
そういう観点から考察すると、すべては個々人の判断で節電対策をするべきなのである。
それぞれが特性ある職場に通っているのも国民それぞれであるからこそ、その特性に応じて自分で着ていく服を日々決定すれば済む話なのだ。
そもそも大震災発生のこの期に及んで、何もお国が「スーパークールビズ」などとの旧政権より“受け売りの陳腐な造語”を持ち出さずとてよかったであろうに…。 お国のトップがこんなことだから、いつまでたってもこの国の国民に“自分自身で判断して意思決定できる”主体的能力が育たないのだ。
国民一人ひとりの“節電感覚”や“お洒落感覚”を尊重出来る自由と柔軟性を保ちつつ、我が国の個々人が今後の復興のために仕事に全精力を注げる環境の国であって欲しいものである。