芸術作品を観賞せずして論評をする程浅薄な話はない事を百も承知の上で、「原左都子エッセイ集」において今回の記事を公開させていただくことにする。
芸術作品と表現したが、これは「ドキュメンタリー映画」と表現するのが正確であるようだ。
既にお察しの読者の方々も多いことと推測するが、2009年度第82回米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞に輝いた「ザ・コーヴ」を今回の記事で取り上げようとしている原左都子である。
「ザ・コーヴ」はアカデミー賞受賞直後より、特に日本国内において物議を醸し続けている米国映画作品である。
この映画作品をご存知ない方のために、ここでその内容をごく簡単に説明しよう。
我が国の和歌山県太地町において昔から伝統漁業としてイルカ漁が行われ、地元では学校給食にも捕獲調理されたイルカが出され食されている現状であるらしい。 これに目をつけたイルカ保護団体がそれの残虐性にのみ焦点を絞り、太地町の許可を得ずに隠し撮りや捏造、恣意的な編集、漁民への挑発や俳優に演技をさせた“やらせ撮影”等々の手段によりイルカ漁の“悪魔性”を強調して制作したのがこの「ザ・コーヴ」であるとのことである。
この作品を鑑賞した見識者の意見は分かれているようだ。
まず肯定派の意見を取り上げよう。
一つの映画作品としての“娯楽性”が優れている、という見解がある。
イルカ漁をする漁民は悪、これを残酷と捉えるイルカ保護団体こそが善、との図式がこの作品において明快であるため、観賞する側としてはこの単純性に一瞬惹き付けられる魅力があるらしい。(この見解に関しては、“チャングム”等韓流ドラマの我が国における大ヒットにも共通項を見い出せそうである。)
あるいは、映画全般を通しての“スリル感”が十分に描かれていて、映画作品としてアカデミー賞を受賞するのは理に叶っている、との見解もある。
次に中立派、慎重派の意見を取り上げよう。 これは日本人に多い見解である。
日本人の多くはイルカ漁の存在さえ知らない現状において、米国からこれを「日本の伝統文化だ」と押し付けられてもまずは困惑する、との見解がある。 (これに関しては、それを日本人全般に気付かせ問題意識を持たせることも一つの目的だった、との制作側の主張も存在するようだ。)
あるいは、やはり映画自体がよく出来ていて娯楽的に面白いあまりに、鑑賞者が制作側の主張のみを鵜呑みにしてしまう危険性を孕んでいる、という見解もある。
また、これはドキュメンタリー映画というよりもイルカ保護団体のプロパガンダ(宣伝)映画と位置づけるべきであろう、との見解も存在する。
最後に否定派の意見を公開しよう。
地元太地町からは当然ながら、「嘘を事実のように表現された」ことに関する反発が大きい。
一方で、この映画がアカデミー賞を獲得したことにより 「反イルカ = 反日本」 の図式が成り立ってしまうのかと思いきや、世界の反応は思いのほかクールであることを実感させられる一面もあるようだ。
農林省大臣を辞任した前赤松農林相の、この映画における議論の趣旨をまったく捉えられていない浅はかな発言をここで紹介しよう。 「食物連鎖の世の中で食べる事を否定したら何も成り立たない」 (この人、原左都子同様にこの映画作品を観賞せずしてコメントを述べているのであろうが、この発言で国家の大臣として太地町を救ったと勘違いしているとしたらまったくもってとんでもなく浅はかな発言であろう。)
この「ザ・コーヴ」は我が国において当初「反日的だ」などとして保守系団体が上演禁止を表明していたものの、その後上演を期待する世論の高まりにより、東京、大阪など一部の地域で上演されている様子である。
朝日新聞7月20日文化欄の記事によると、この映画を鑑賞した国民の反応は以外や以外冷静であるようだ。
その中で、この映画が“ドキュメンタリー”だったことに対する朝日新聞記者の憤りは大いに原左都子にも伝わる思いである。
映画であれ何であれ“ドキュメンタリー”と名付けて制作する以上、その表現には一切虚構を用いてはならず、制作側の客観性のある冷静沈着な取材や記録に基づき事実のみを伝える内容ではくてはならないはずである。
その意味で、この「ザ・コーヴ」はそもそも“ドキュメンタリー”との冠を付けてはならなかったのだ。 むしろ、一般娯楽分野の映画としてすべての取材対象者を匿名にして一つの“芸術作品”に特化して仕上げたならば、上記の評価のごとく何らかの価値があったのかもしれない。
ところが、これを“ドキュメンタリー映画”の位置付けとし、アジアの一国(我が国のことであるが)の貧民弱者を犠牲にして実名を挙げねば作品としてのリアリティが得られなかった制作側の魂胆が見え見えのようにも察するのである。
最後に、原左都子個人の鯨イルカ等の捕獲漁に関する個人的見解を述べると、正直申し上げて“反対派”である。
我が国は既に(現在は曲りなりではあるが)一応先進国に位置している。その種の国では、食性において“世界標準”に従うべきではないかと感じるのだ。
世界の数多くの国々が嫌悪感を抱く食材をあえて食さずとて、“世界標準”の食材を国民に分配することにより国民の健康は十分に満たされる時代のはずである。それ故に我が国の国政は、特殊な狩猟や漁に頼って生き延びている生産者への方向転換指導に早急に着手するべきと考えるのだ。
我が国においては歴史的に決して特殊な宗教が蔓延っている訳でもない。その観点からも生産者側、消費者側両面での“世界標準”の食糧指導は容易なはずである。
それにしても、一国一地域の食性問題とこの映画「ザ・カーヴ」の存在意義はまったく異質の議論であり、この映画は娯楽部門でアカデミー賞にエントリーすればよかったとも捉えられると言いたいのが、原左都子の結論である。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/whale.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dolphin.gif)
芸術作品と表現したが、これは「ドキュメンタリー映画」と表現するのが正確であるようだ。
既にお察しの読者の方々も多いことと推測するが、2009年度第82回米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞に輝いた「ザ・コーヴ」を今回の記事で取り上げようとしている原左都子である。
「ザ・コーヴ」はアカデミー賞受賞直後より、特に日本国内において物議を醸し続けている米国映画作品である。
この映画作品をご存知ない方のために、ここでその内容をごく簡単に説明しよう。
我が国の和歌山県太地町において昔から伝統漁業としてイルカ漁が行われ、地元では学校給食にも捕獲調理されたイルカが出され食されている現状であるらしい。 これに目をつけたイルカ保護団体がそれの残虐性にのみ焦点を絞り、太地町の許可を得ずに隠し撮りや捏造、恣意的な編集、漁民への挑発や俳優に演技をさせた“やらせ撮影”等々の手段によりイルカ漁の“悪魔性”を強調して制作したのがこの「ザ・コーヴ」であるとのことである。
この作品を鑑賞した見識者の意見は分かれているようだ。
まず肯定派の意見を取り上げよう。
一つの映画作品としての“娯楽性”が優れている、という見解がある。
イルカ漁をする漁民は悪、これを残酷と捉えるイルカ保護団体こそが善、との図式がこの作品において明快であるため、観賞する側としてはこの単純性に一瞬惹き付けられる魅力があるらしい。(この見解に関しては、“チャングム”等韓流ドラマの我が国における大ヒットにも共通項を見い出せそうである。)
あるいは、映画全般を通しての“スリル感”が十分に描かれていて、映画作品としてアカデミー賞を受賞するのは理に叶っている、との見解もある。
次に中立派、慎重派の意見を取り上げよう。 これは日本人に多い見解である。
日本人の多くはイルカ漁の存在さえ知らない現状において、米国からこれを「日本の伝統文化だ」と押し付けられてもまずは困惑する、との見解がある。 (これに関しては、それを日本人全般に気付かせ問題意識を持たせることも一つの目的だった、との制作側の主張も存在するようだ。)
あるいは、やはり映画自体がよく出来ていて娯楽的に面白いあまりに、鑑賞者が制作側の主張のみを鵜呑みにしてしまう危険性を孕んでいる、という見解もある。
また、これはドキュメンタリー映画というよりもイルカ保護団体のプロパガンダ(宣伝)映画と位置づけるべきであろう、との見解も存在する。
最後に否定派の意見を公開しよう。
地元太地町からは当然ながら、「嘘を事実のように表現された」ことに関する反発が大きい。
一方で、この映画がアカデミー賞を獲得したことにより 「反イルカ = 反日本」 の図式が成り立ってしまうのかと思いきや、世界の反応は思いのほかクールであることを実感させられる一面もあるようだ。
農林省大臣を辞任した前赤松農林相の、この映画における議論の趣旨をまったく捉えられていない浅はかな発言をここで紹介しよう。 「食物連鎖の世の中で食べる事を否定したら何も成り立たない」 (この人、原左都子同様にこの映画作品を観賞せずしてコメントを述べているのであろうが、この発言で国家の大臣として太地町を救ったと勘違いしているとしたらまったくもってとんでもなく浅はかな発言であろう。)
この「ザ・コーヴ」は我が国において当初「反日的だ」などとして保守系団体が上演禁止を表明していたものの、その後上演を期待する世論の高まりにより、東京、大阪など一部の地域で上演されている様子である。
朝日新聞7月20日文化欄の記事によると、この映画を鑑賞した国民の反応は以外や以外冷静であるようだ。
その中で、この映画が“ドキュメンタリー”だったことに対する朝日新聞記者の憤りは大いに原左都子にも伝わる思いである。
映画であれ何であれ“ドキュメンタリー”と名付けて制作する以上、その表現には一切虚構を用いてはならず、制作側の客観性のある冷静沈着な取材や記録に基づき事実のみを伝える内容ではくてはならないはずである。
その意味で、この「ザ・コーヴ」はそもそも“ドキュメンタリー”との冠を付けてはならなかったのだ。 むしろ、一般娯楽分野の映画としてすべての取材対象者を匿名にして一つの“芸術作品”に特化して仕上げたならば、上記の評価のごとく何らかの価値があったのかもしれない。
ところが、これを“ドキュメンタリー映画”の位置付けとし、アジアの一国(我が国のことであるが)の貧民弱者を犠牲にして実名を挙げねば作品としてのリアリティが得られなかった制作側の魂胆が見え見えのようにも察するのである。
最後に、原左都子個人の鯨イルカ等の捕獲漁に関する個人的見解を述べると、正直申し上げて“反対派”である。
我が国は既に(現在は曲りなりではあるが)一応先進国に位置している。その種の国では、食性において“世界標準”に従うべきではないかと感じるのだ。
世界の数多くの国々が嫌悪感を抱く食材をあえて食さずとて、“世界標準”の食材を国民に分配することにより国民の健康は十分に満たされる時代のはずである。それ故に我が国の国政は、特殊な狩猟や漁に頼って生き延びている生産者への方向転換指導に早急に着手するべきと考えるのだ。
我が国においては歴史的に決して特殊な宗教が蔓延っている訳でもない。その観点からも生産者側、消費者側両面での“世界標準”の食糧指導は容易なはずである。
それにしても、一国一地域の食性問題とこの映画「ザ・カーヴ」の存在意義はまったく異質の議論であり、この映画は娯楽部門でアカデミー賞にエントリーすればよかったとも捉えられると言いたいのが、原左都子の結論である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/whale.gif)
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原さんの仰るように世界標準に「食性を改めるべき」と言う考え方も理解できます。ただ、江戸末期に油をとるために軍艦を率いてまで極東の海で鯨を獲りまくった国が一転「鯨が可愛そう」と言う事で保護に乗り出した事は、戦前に欧米諸国が行った弱小国の分捕り合戦を棚に上げ、旧日本軍が満州を占領した事は許さないとして「日本叩き」(太平洋戦争)を誘導した事と重なって、釈然としません。
結論はここで日本のみが反対したところで叩かれるだけなので、「長いものには巻かれろ」にならざるを得ないと思います。
牛肉や豚肉だって大量に殺傷して食べているんだから「お互い様」なんですよ!
生きてる事は食べる事、他の動物を殺す事・・・!イルカやクジラは知性が高いとか、西洋人の基準が、変なところにある。
他の国の食文化に、異論を唱えるのは、土足で家に入り、盗みを働くのと変わらない。
だからアカデミーを与えた映画関係者達は、理解不能です。
所詮、アカデミーは、「おくりびと」に拍手して、イルカの映画にも拍手して・・・。
その場の雰囲気で映画を選ぶ、悲しさを持った賞です。
現在娘が夏休み中のこともあり生活パターンが非定型となっている原左都子でして、余裕時間には新記事の更新を優先してしまっておりますことをご容赦いただけたら幸いです。
必ず返答申し上げますので、今しばらくお待ち下さいますように。
その典型が「脱脂粉乳」であり、「鯨肉」であったと私は記憶しています。
「鯨肉」に関しては安価な缶詰が市販されていまして、こちらの方の味付けはまずまずでしたが、学校の給食に出される「鯨肉」など、人間が食べるには程遠い代物でした。
人格無視とも言える内容の給食を見るだけで毎日吐き気をもよおす私は、当時給食時間ほど辛いものはありませんでした。
和歌山県太地町では、今尚「イルカ肉」が給食に出されているらしいのですが、これは美味なのでしょうか?? 年端もいかない子ども達のために、せめて美味に味付けされていることを心より祈りたい思いです。
isseiさんがおっしゃる通り、日本の捕鯨にはそういった歴史があったことでしょう。油をとった残りの大量の肉を食用に利用してきたのでしょう。
鯨が可哀想なのか、はたまた牛やブタが可哀想なのか、あるいはイルカが頭がよいのか、その辺の判断力は私にはありませんが、世界を敵に回してまでも鯨やイルカを食さずとて済む時代は当の昔に訪れているように私は感じます。
ドカドンさん、私は捕鯨やイルカ漁に対するポリシーはほとんどなく、上記のごとく“鯨給食”のまずさには反吐が出そうなほど辟易とさせられた思い出のみで、その種の食文化に反対しているのかもしれません。単にそのレベルですので悪しからず…
それにしても、アカデミー賞が“まやかしもの”であるとのドカドンさんのご意見にはまったく同感です。
アカデミー賞に限らず、賞と名の付くものはすべて“まやかし”に過ぎないようにも思いますが…