原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

口と肛門が一本でつながっているのは残酷か??

2022年04月28日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、朝日新聞2022.04.27付記事「口と肛門 一本でつながる残酷さ 現役医師の朝比奈秋さん、デビュー作「私の盲端」より写真を転載したもの。)

          
 こちらは、「私の盲端」著者の朝比奈秋氏。 ご本人からの写真提供らしい。
           


 今回の記事も「書評」に分類されるのかもしれないが。

 とにかく表題に大いなるインパクトがあったため、興味をそそられて記事を読んだ。


 以下に、その記事の内容を要約引用しよう。

 昨年「潮の道」で林芙美子文学賞を受けた朝比奈秋さん(40)。 デビュー作『私の盲端』は、身体のままならない残酷さを描きながら、生命力に満ちた作品集だ。
 朝比奈さんは消化器内科の現役医師。 青森の病院でひと月ほど働いた経験は、へき地の高齢者医療を描いた「塩の道」にいかされている。 患者の戸惑いや医師の諦念が的確に物語に挿入されるが、ふいにタブーに突き進む大胆さに驚かされる。
 表題作は、直腸の腫瘍を取る手術で人工肛門になった女子大学生が主人公。 全編を通して便の気配が漂う。 バイト先の飲食店での描写が秀逸だ。 食べることと排泄が同時に起こり、チャーハンと便の匂いは混然一体となり、さらにエロスが混ざり合う。 絶妙なさじ加減で、下品でも露悪的でもない。
 「口と肛門が1本でつながっていることを日常で実感はしない。 あの場面を書いて初めて、腸管すべてで便の存在を感じている、口と肛門は一体なんだ、と実感しました。 僕自身にも衝撃的なシーンでした。」
 小説を書き始めたのは5年ほど前。 「文学には親しみのない一切無い人生だった」という。 論文執筆中に、ふと思いついて書いたのが原稿用紙400枚分の小説だった。 (中略)
 創作への衝動が収まらず、3年前に勤務医をやめてフリーランスの非常勤に。 
 救急病院での勤務経験もあり、多くの死を見てきた。 「死に様はみんな同じで、多くの方は意識が無いまま死を迎える。 しかしときどき、最後の一呼吸まで意識がしっかりしている人がいる。目力にやられそうになる。 あなたはどう生きてきましたか、どんな声をしていますか、と聞きたくなるのです」
 自身についてもひとごとのように語る、淡々とした語り口は作品にも通じる。 「研修医、専門医と進み、社会に適応してこれまでやってきたのに突然、小説を書かざるを得なくなりました。 35歳でいきなり。 人生何があるかわかりません。」




 原左都子の私見に入ろう。

 この私も医学部出身のため当然ながら解剖学も学んでおり、口と肛門が一本で繋がっている感覚が日々健在している。
 いえいえ一般の皆さんもそれくらいのことは重々ご存じで、おそらく食と排泄に関してそれぞれが留意しつつ食生活を送られていることであろう。

 それを、朝比奈氏は「食べることと排泄が同時に起こり、チャーハンと便の匂いは混然一体となり、さらにエロスが混ざり合う。」と表現されているが、これ、この私も至極同感だ!

 食物に“便の匂い”を想像することはしょっちゅうだ。 
 例えば、沢庵など見方を変えればとてつもなく臭い食物であろう。 子供の頃などは、あの“臭さ”が嫌で毛嫌いしていた頃もあった記憶がある。 それが美味と思えるようになったのは、成長と共に育つ“経験則感”に基づき後の事だっただろう。
 朝比奈氏の場合は、チャーハンと便の匂いが混然一体だったらしいが。
 それも何となく分かる気もする。 確かに沢山の具材を混ぜて作るチャーハンとは、一瞬“便の匂い”が混在するかもしれない。

 エロスとて、その集合体が成す人間の営みの素晴らしき光景の一部と私も捉えつつ、それを堪能してきた(いく)つもりだ。


 話題を変えて、医師の皆さんは患者さんたちの臨終場面に立ち会えるとの“特権”を得ているようにも、今回の朝比奈氏の記事を読んで感じさせていただいた。
 私の場合は自分の意思であえて就職先として医療現場を避け通し、あくまでも基礎医学分野にこだわったが故にその経験を一切していない身だ。


 朝比奈氏の場合は患者の「死を看取る」との貴重な体験をされた事実こそが、小説家への転向を決意された大きなきっかけとなったことと想像申し上げる。
 それでもまだまだお若い世代の朝比奈秋氏の、今後の人生選択を見守っていかせていただきたい思いだ。