原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「with コロナ(コロナとの共生)」との新語、私も受け入れ難いものがある

2022年04月19日 | 時事論評
 冒頭から、朝日新聞2022.04.17付「社説余滴」 医療社説担当・行方史郎氏による「『コロナとの共生』への違和感」の一部を、以下に要約引用しよう。

  
 コロナの流行も早3年目に入った。 社説の執筆に当たって注意を払ってきたことの一つに政治や行政が発する言葉や表現がある。 (中略)
 「コロナとの共生」もまだ使う気にはなれない。
 岸田首相も昨年秋の所信表明で「コロナとの共生を前提とした、新しい社会を創り上げていくとき」と述べているが、その後、「共生」を正面切って言うのをまだ聞いた覚えはない。 
 むろん、これからも流行を繰り返すことを前提に、社会や経済、医療体制を考えなくてはいけない。それでも「共生」と呼ぶことへのためらいを自分なりに分析するとこうなる。
 まずは重症化して亡くなる人もいて、後遺症を思えば、軽症であっても感染を伴うリスクは小さくない。
 この先、どんな変異株が出現するかも見通せない。
 感染症のなかにはHIVや結核のように病原体を完全に排除するのが難しい病気もある。 いわゆるキャリアとして日常の生活を送っている人たちとの「共生」が果たせているのか、という思いもある。
 何より「共生」というと、とたんに「前向き感」が出て、これまでの出来事がうやむやにされかねない。 布マスク配布や緊急事態宣言下での五輪開催を含め、一連の対応は客観的に検証されていない。
 「共生」を言い出すことによって覆い隠されるものはないのか。 そこに目を凝らしていこうと思う。

 (以上、朝日新聞「社説余滴」より、一部を引用したもの。)



 原左都子の私見に入ろう。

 上記行方史郎氏による社説に、まったく同感だ!

 私の記憶によると、この「with コロナ」の言葉を初めて聞いたのは感染拡大から1年後頃のことだったのではなかろうか?

 おそらく2020東京五輪を2021夏に是が非でも開催に持ち込みたい政権が、それを押し通すのに都合の良い「with コロナ」を大々的に叫び始めたような記憶がある。

 時は、コロナ第2波、第3波の頃だっただろうか?
 未だ物凄い数の感染者を国内に抱えつつ、(何を馬鹿を言ってるんだ!!)と、私も怒り心頭だったものだ。

 その後、この「with コロナ」の新語が国民間でも支持(というよりも、自分らが酒飲んで大騒ぎしたかったり旅に出たかったりする国民にとって、都合の良い言葉だったことに違いない。)されるようになり。
 その後は皆さんの記憶にも新しいだろうが、オミクロン株の大流行によりとてつもない数値の感染者数を全国内で出し続けている。
 
 症状が軽くなった、ワクチンの効果で高齢者の感染数が減少した、等の報道や噂が世に蔓延しているようだが。
 その実は上記行方氏がおっしゃるとおりである。
 繰り返すと、重症化して亡くなる人もいて、後遺症を思えば軽症であっても感染を伴うリスクは小さくない。  この先、どんな変異株が出現するかも見通せない。 感染症のなかにはHIVや結核のように病原体を完全に排除するのが難しい病気もある。 いわゆるキャリアとして日常の生活を送っている人たちとの「共生」が果たせているのか、という思いもある。

 元医学関係者の身である原左都子も同じ思いで、日々私なりにコロナ禍と闘い続けている。
 こんな時に同級生から「同窓会のお知らせ」などを届けられると、実際愕然とさせられる。 おそらくこの手の人種とは、自分達や親族、親しい知人にコロナ感染者や死者が未だいないのだろう。
 その痛みを少しでも理解できたならば、この時期にいい年をして楽しい会合を持とうなどとの発想も出ないものと想像するのだが…

 
 まさに行方氏がおっしゃる通り、「共生」を言い出すことによって覆い隠されるものはないのか。
 そこに国民皆が目を凝らしていく時を、まだまだ続行するべきであろう。