原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校における“いじめ自殺”撲滅のために

2010年11月04日 | 教育・学校
 先月10月23日に、群馬県桐生市の小6女児が自宅で自殺を図った。
 
 その自殺に関して女児の家族は学校でのいじめが原因として訴えているにもかかわらず、(いつもの事ながら)学校側は責任逃れの観点から依然その回答をうやむやにしたまま、マスメディアや世間がこの事件を忘れ去るのを待っているかのようである。

 今回の例の場合、自殺した本人が学校でのいじめの実態やそれに対する担任の対応等に関してその不満を家族に再三詳細に伝えていたようだ。 この実態に保護者である家族も心を痛めつつ、娘のいじめ脱却対策として中学進学時点での転校を視野に入れていたとの報道もある。


 この女子児童は、小4時点で愛知県より桐生市の小学校へ転校してきたらしい。5年生に進級して以降欠席が増え始め、6年生になった後自殺直前の10月に再び休みがちとなり、そして23日に自ら命を絶ってしまった…  とのいきさつであるようだ。

 女子児童がこの夏休み中にしたためて、(何故か)投函せずに手元に留めていた愛知県の友人に宛てた手紙が先だって朝日新聞紙面で報道されたのだが、その手紙によると中学校に進学する来春大阪へ転居することを心待ちにしていた様子が伺え、女児亡き後辛く重い内容の手紙である。
 死ぬほど辛い学校なんか行かなくたって後々の人生どうにでもなるのに、“いじめ”などという取るに足りない事象で自殺などせず、何とか転居までの後5ヶ月命だけは繋いでいて欲しかった思いの、何とも無念な(元々学校嫌いな)原左都子である。


 実は我が娘も小学校低学年時に公立小学校において度重なるいじめに遭っている。
 我が子の場合、生まれ持っての特殊事情を抱えている事に関しては既にバックナンバーにおいて再三綴っているが、特に小さい頃程その特質が表面化していたことは認める。 表向き静かでおっとり気味の我が娘は、おそらく公立小学校における未熟な児童達にとって“いじめ対象”として“恰好の獲物”だったことであろう。 そんな周囲の幼き児童達の行動パターンや気持ちも分からなくはないが、親としては“いじめ”など何が何でも許せるものではない。

 その頃の、母である原左都子の“いじめ対応”は凄まじいものがあった。
 学校等種々雑多な子ども達が集まる集団組織内に於いて、事情を抱えた幼き我が子が“いじめ”に遭うであろうことは元々想定内であった私は、とにかく娘との日々の会話を充実させ“いじめ”を芽から摘むことに精進したものだ。 そして実際に“いじめ”に遭ったらしき情報を娘から得た時には、その直後に学校に一報して担任と連絡を取り合ったものである。 我が家の場合、娘が入学前より学校と面談の機会を得ていた事等も幸いして、当時の担任の先生が即時対応してくれたのが幸いだった。 
 小学校3年時に転校した我が娘であるが、その後大きなないじめには遭っていない様子である。 親の立場で観察していると、本人自身にいじめに対する免疫力が出来たとも言えそうだ。 あるいは小さい時から母の私の即座の対応を見ていた娘には、もしもいじめに遭った時でも“親が助けてくれる!”との安堵感がその背後にあったと捉えられるのかもしれない。

 それでも、その後も小さないじめらしき被害には我が娘は遭遇し続けている。
 例えば小6の時に学帽や体操服がなくなったり、あるいは手提げ袋が切り裂かれる種の被害に遭っている。 その際には私も娘と共に直接学校へ出向き、一緒に喪失物を学校中探し回ったものである。 その姿を見つけた前年度までの信頼できる担任が「どうされましたか?」と声をかけて下さって「娘が体操服を失くしたと言うので、一緒に探しに来ました」と応えたものである。 ただ教員経験のある私は、既に担任を外れている先生の対処は複雑なものがあろうと察していた。  肝心の小6の担任に関しては(申し訳ないが原左都子が対等に話そうと思うレベルには程遠い)信頼に値しない人物であったこともあるのだが、娘には「おそらく私立中学へ進学予定であることを級友に妬まれている。物品被害で済むなら今は大騒ぎしない方がいい。」云々と言い聞かせて何もなかったふりをさせ、その後難無きを得て晴れて卒業に至ったものである。 
 その後も理由は不明だが、娘が私立中学生になって以降も上履きに画鋲を入れられたり、下駄箱に嫌がらせもどきの手紙を入れられたりする被害には遭っているようだ。 既に自己判断力を身に付けるべく成長している娘に対し「実害なければ無視、無視! 一切気にしないで、自分のやるべき事に集中しよう!」との私のアドバイスで、今に至って尚病気以外で欠席することもなく高校に通う娘である。


 我が家の実情はともかく、今後夢も希望も紡いでいくべくわずか12歳の小6の娘に、たかが学校での“いじめ”のせいで自殺などされたのでは、家族としてはたまったものではない。
 特にこの桐生市の事例の場合、学校でのいじめを家族が重々把握していてそれを回避するべく大阪への転居まで計画していた矢先の自殺である。 傍観者ながら、もう少し転居が早ければこの女児の命は繋がったのに…、 と悔やんでも悔やみきれない思いである。

 冒頭でも述べたが、我が子の尊い命と比べたら、義務教育とは言えども学校なんて所詮“取るに足りない”組織機関でしかあり得ないのだ。  それが証拠に、可愛い児童の一命が自殺という形で失われているにもかかわらず、あくまで学校自らの体裁を繕うことが優先されてしまい未だに学校側から“いじめ”の実態すら報告できないでいるのだ。

 「死」を視野に入れてまで苦しんでいる子どもを救えるのは、保護者である親しか存在し得ないことは明白な事実である。

 どうか保護者の皆さん、子どもの命を守り抜くのは何が何でも親である自分でしかないことを今一度肝に銘じ、普段からその観点で我が子に接して欲しい思いの原左都子である。
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