「原左都子エッセイ集」の4本前のバックナンバー“学校・教育カテゴリー”のいじめ関連記事に引き続き、学校におけるいじめ問題を別観点から綴るのが今回の記事の趣旨である。
ところで、その後群馬県桐生市の小6女児の自殺事件に関連して、この児童が所属していた小学校が事件発生から2週間以上も経過した今頃になり、自殺女児に関して学校内でいじめ行為があったことを認める見解を表明している。 ところが、「そのいじめと女児の自殺との関連性については不明」とのあくまでも責任逃れの中途半端な表明である。
しかも、この女児がフィリピン系のハーフであったことや、それ故に「きもい」「くさい」「うざい」等の罵声を級友から浴びせられ続け孤立していたことに関しても、今頃になってメディア報道において表面化しているようだ。
今回の記事の趣旨からはずれるが、もしもこの女児がフィリピン系ハーフであったがために地方の公立小学校においていじめに遭っていたとするならば、この女児の自殺は今の時代多国籍化している児童生徒を受け入れるべく我が国の義務教育現場においてより深刻度が増す問題である。 その観点からも尚さら学校は早急な対応と報告を要したにもかかわらず、まさかとは思うが“死んだのがフィリピン系だから日本の生徒からいじめがあって当然であり、対応は後回しでいいだろう”とでも学校責任者が安易に捉えていたとするならば、これはとんでもない勘違いであり大問題である。
私の推測が当たっていると仮定して、愚かな義務教育現場である学校責任者に個人的に言っておきたいことがある。
国際競争力をすっかり失っている今の日本の現状を客観的に把握出来ているのか? 過去の一時の勘違いバブルに浮かれた感覚でアジア諸国を馬鹿にすると、今後痛い目に遭うぞ。 今時アジアへ旅に出ても中国、韓国、インド等新進経済国の話題で持ちきりで、日本の事が口にされることなど皆無と言っていいのが実態で寂しい思いすら抱くものだ。 我が国の義務教育学校に運良くアジア系の児童が在籍しているのであれば、それを大いに利用して、現在のアジア諸国の政治経済力の躍進ぶりこそを日本の児童に伝えるべきではないのか!? それこそが生身の国際理解教育というものであろう。 そうであるにもかかわらず、アジア系ハーフの女子を自殺に追い込み、尚且つその報告が遅れている責任は重いものがあるぞ。」 と私は学校に伝えたい思いである。
さて、本題である「好きな子グループ」に話題を移そう。
この「好きな子グループ」とは、上記桐生市の女児が自殺に追い込まれたと推測する公立小学校における“いじめのキーワード“なのである。
この女児が所属していた小学校のクラスでは、給食時に担任から「好きな子同士で一緒にグループを作って給食を食べましょう」との指示があったらしいのだ。 級友にとって「うざい」「きもい」存在であったという自殺した女児は、いつも不本意にも給食を一人で食べることを強いられていたのである。 (この現状を慮った場合、担任こそがいじめの先導をした元凶であるとも考察できるのだが……)
ここで私事になるが、実は我が子も小学生時代から高2に成長している今に至るまで学校が言うところの「好きな子グループ」に“入れない人材”である。
「原左都子エッセイ集」において再三綴っているように、我が子は若干の事情を持って産まれてきており、幼い頃ほどその特質が表面化していた。 おそらく我が子は級友にとって“異国人”のごときの存在であったことだろう。
小学校低学年までは担任の指導に従ってグループ行動を楽しんできた娘も、高学年になってから学校における自主性の指導の一環であると思われる「好きな子グループ」に入れなくなっていることに私は気付いた。
そんな私は娘に次のごとくアドバイスしたものだ。 「あなたがもしもいずれかのグループに入りたいのであれば、それが叶うべく少しは努力しなさい。 そうではなくて、入りたいグループがないかあるいは単独行動が心地よいのであれば、一人でいることを全うしなさい。 実はこの母とて昔から今に至るまで集団行動が大の苦手だよ。 ただし、クラスという集団内において皆がグループ化している中で年端もいかないあなたが一人でいることとは大いなるプレッシャーがあると思うよ。それに耐えられる勇気と力量があることこそが“集団内”で一人を貫くことの条件だよ。」
上記において、我が子のことを「好きな子グループ」に入れない“人材”と表現したのだが、まさに我が子は集団内にいて尚単独行動が可能な希少なマイペース“人材”を貫いているようなのだ。 (参考のため、我が子は指導者からグループ行動を強制された場合、それに素直に従えるキャラの持ち主です。 この点において、あくまでもグループ行動を回避したい私より人間が出来ています。)
最後に私論でまとめよう。
日本の義務教育課程において、とかく「集団」や「グループ」が強調され過ぎるきらいがあることを、幼き頃より集団行動よりも個人活動が得意な私は、ずっと以前より懸念し続けている。
ましてや、これ程国際化が進展し文化が多様化した今の時代に、公教育現場である公立小学校が年端もいかない児童を捕まえて、「好きな子グループ」に分かれて給食を食べよ、とは一体どうしたことか?? もちろん、子ども達が自主的に自然発生的に生じたグループ活動を楽しむ分には何ら問題はない。 指導者の立場から全生徒に「好きな子グループ」に分かれよ、と強要するところに大きな誤りがあるのだ。そこには生徒一人ひとりの個性や多様性を尊重しようとの発想がまったく欠けているのである。
もちろん、公教育とは子どもの「社会性」を育てるのが使命であろう。
ただ、「社会性」とは何なのかの原点に立ち戻って欲しい思いの原左都子である。 確かにその中には“集団行動”が得意な子どもを育成する主眼もあろう。 ところが、「社会性」とは決して集団(特に“好きな子”)に迎合することではないのも明白である。
そうではなく「社会性」の本来の意味とは、人間集団の中で一個人としてうまく機能しつつ社会の中で能力を発揮していくことではなかろうか?
公教育現場の勝手な解釈により、年端もいかない児童に「好きな子グループ」を結成させることを強要するべく歪んだ教育を施し、子ども達を傷つけたり個性を押し潰す過ちを繰り返さないで欲しい思いの原左都子である。
ところで、その後群馬県桐生市の小6女児の自殺事件に関連して、この児童が所属していた小学校が事件発生から2週間以上も経過した今頃になり、自殺女児に関して学校内でいじめ行為があったことを認める見解を表明している。 ところが、「そのいじめと女児の自殺との関連性については不明」とのあくまでも責任逃れの中途半端な表明である。
しかも、この女児がフィリピン系のハーフであったことや、それ故に「きもい」「くさい」「うざい」等の罵声を級友から浴びせられ続け孤立していたことに関しても、今頃になってメディア報道において表面化しているようだ。
今回の記事の趣旨からはずれるが、もしもこの女児がフィリピン系ハーフであったがために地方の公立小学校においていじめに遭っていたとするならば、この女児の自殺は今の時代多国籍化している児童生徒を受け入れるべく我が国の義務教育現場においてより深刻度が増す問題である。 その観点からも尚さら学校は早急な対応と報告を要したにもかかわらず、まさかとは思うが“死んだのがフィリピン系だから日本の生徒からいじめがあって当然であり、対応は後回しでいいだろう”とでも学校責任者が安易に捉えていたとするならば、これはとんでもない勘違いであり大問題である。
私の推測が当たっていると仮定して、愚かな義務教育現場である学校責任者に個人的に言っておきたいことがある。
国際競争力をすっかり失っている今の日本の現状を客観的に把握出来ているのか? 過去の一時の勘違いバブルに浮かれた感覚でアジア諸国を馬鹿にすると、今後痛い目に遭うぞ。 今時アジアへ旅に出ても中国、韓国、インド等新進経済国の話題で持ちきりで、日本の事が口にされることなど皆無と言っていいのが実態で寂しい思いすら抱くものだ。 我が国の義務教育学校に運良くアジア系の児童が在籍しているのであれば、それを大いに利用して、現在のアジア諸国の政治経済力の躍進ぶりこそを日本の児童に伝えるべきではないのか!? それこそが生身の国際理解教育というものであろう。 そうであるにもかかわらず、アジア系ハーフの女子を自殺に追い込み、尚且つその報告が遅れている責任は重いものがあるぞ。」 と私は学校に伝えたい思いである。
さて、本題である「好きな子グループ」に話題を移そう。
この「好きな子グループ」とは、上記桐生市の女児が自殺に追い込まれたと推測する公立小学校における“いじめのキーワード“なのである。
この女児が所属していた小学校のクラスでは、給食時に担任から「好きな子同士で一緒にグループを作って給食を食べましょう」との指示があったらしいのだ。 級友にとって「うざい」「きもい」存在であったという自殺した女児は、いつも不本意にも給食を一人で食べることを強いられていたのである。 (この現状を慮った場合、担任こそがいじめの先導をした元凶であるとも考察できるのだが……)
ここで私事になるが、実は我が子も小学生時代から高2に成長している今に至るまで学校が言うところの「好きな子グループ」に“入れない人材”である。
「原左都子エッセイ集」において再三綴っているように、我が子は若干の事情を持って産まれてきており、幼い頃ほどその特質が表面化していた。 おそらく我が子は級友にとって“異国人”のごときの存在であったことだろう。
小学校低学年までは担任の指導に従ってグループ行動を楽しんできた娘も、高学年になってから学校における自主性の指導の一環であると思われる「好きな子グループ」に入れなくなっていることに私は気付いた。
そんな私は娘に次のごとくアドバイスしたものだ。 「あなたがもしもいずれかのグループに入りたいのであれば、それが叶うべく少しは努力しなさい。 そうではなくて、入りたいグループがないかあるいは単独行動が心地よいのであれば、一人でいることを全うしなさい。 実はこの母とて昔から今に至るまで集団行動が大の苦手だよ。 ただし、クラスという集団内において皆がグループ化している中で年端もいかないあなたが一人でいることとは大いなるプレッシャーがあると思うよ。それに耐えられる勇気と力量があることこそが“集団内”で一人を貫くことの条件だよ。」
上記において、我が子のことを「好きな子グループ」に入れない“人材”と表現したのだが、まさに我が子は集団内にいて尚単独行動が可能な希少なマイペース“人材”を貫いているようなのだ。 (参考のため、我が子は指導者からグループ行動を強制された場合、それに素直に従えるキャラの持ち主です。 この点において、あくまでもグループ行動を回避したい私より人間が出来ています。)
最後に私論でまとめよう。
日本の義務教育課程において、とかく「集団」や「グループ」が強調され過ぎるきらいがあることを、幼き頃より集団行動よりも個人活動が得意な私は、ずっと以前より懸念し続けている。
ましてや、これ程国際化が進展し文化が多様化した今の時代に、公教育現場である公立小学校が年端もいかない児童を捕まえて、「好きな子グループ」に分かれて給食を食べよ、とは一体どうしたことか?? もちろん、子ども達が自主的に自然発生的に生じたグループ活動を楽しむ分には何ら問題はない。 指導者の立場から全生徒に「好きな子グループ」に分かれよ、と強要するところに大きな誤りがあるのだ。そこには生徒一人ひとりの個性や多様性を尊重しようとの発想がまったく欠けているのである。
もちろん、公教育とは子どもの「社会性」を育てるのが使命であろう。
ただ、「社会性」とは何なのかの原点に立ち戻って欲しい思いの原左都子である。 確かにその中には“集団行動”が得意な子どもを育成する主眼もあろう。 ところが、「社会性」とは決して集団(特に“好きな子”)に迎合することではないのも明白である。
そうではなく「社会性」の本来の意味とは、人間集団の中で一個人としてうまく機能しつつ社会の中で能力を発揮していくことではなかろうか?
公教育現場の勝手な解釈により、年端もいかない児童に「好きな子グループ」を結成させることを強要するべく歪んだ教育を施し、子ども達を傷つけたり個性を押し潰す過ちを繰り返さないで欲しい思いの原左都子である。