創作日記

 青磁作品を中心に創作しています。
  陶芸作品が出来るまでの過程を、
   日常の暮らしを通して紹介しています。

心の中の住所録

2011年12月10日 | 日記

友人であり、兄弟のように親しく接して下った、アルマンド神父が7日早朝旅立った。
9日午後7時からお通夜、そして今日11時から葬儀が執り行われた。

12月4日、先週土曜午後、面会謝絶のアルマンドに会ってきた。
意識はありますが容態はかなり悪くなっていますので、2分くらいで、と言われ、
とりあえず二人きりにさせていただき、病室に入った。

入るなり私の顔を確かめるように視線を向け、手を差し伸べてきたアルマンド。
ベッド横にあるイスに座って手を握ろうとした瞬間、重篤にもかかわらず、
どこに力が残っていたのか私の体に右腕を回し、引き寄せ抱きしめられた。
そして体の下になっている左手で私の頭を押さえ、ご自身の顔に強く押し付けられた。

一瞬、この状態って、映画の一場面かテレビドラマの一場面かと思ってしまった。
中腰状態の私に、アルマンド神父は一生懸命に話してくださった。
そのうち互いに言葉に詰まり、それでも声を振り絞って話してくださった。
その都度うんうんと言いつつ背を腕をさすり、優しく頭をなでてあげた。

長くても2分までと決められた面会、
もうこれが最期と思われたのか、強く抱きしめられ5分6分と時間が経過した。
体力が消耗するといけないので、そっと手をはずしても又手を差し伸べられた。
必死に話しかけてくるアルマンド、大きな手を握りしめ、腕をさすり続けた。
決められた面会時間をはるかに超えた、アルマンド神父との別れ、
病室を出た途端、更に涙があふれ出た。

Photo

  12月10日


   午前7時


7日早朝、私のもとに訃報が飛び込んできた。
アルマンド神父、午前5時に亡くなられた・・・。

面会に行って、わずか三日後に亡くなられたなんて。
今日までのことが一気に思い起こされ、なんともやりきれなかった。

友として、兄弟のように接してくださった17歳年上のアルマンド、
実際、彼は兄弟姉妹の長兄であった。

宣教師として来日してから47年、その40年あまりの間、お付き合いさせていただいた。
楽しく過ごした日々もあれば、意見が対立し、最長で2年間も口を聞かなかったことも。
それもこれも走馬灯のように浮かんでは消え、また思い出して。

アルマンドが亡くなってからの数日は涙を誘う雨が降り続いた。
悲しみを流してくれるような雨が降り続く中、昨晩のお通夜には大勢の参列者。
お通夜が執り行われる前まで、アルマンド神父のCDが静かにお御堂内に流れていた。

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   午前8時


そして今朝は美しい青空が広がった。
彼、アルマンドの性格そのもののような、すっきりと晴れ渡った素晴らしい天気になった。
旅立つ彼にふさわしい、すがすがしい天気になった。

一足先に教会に出かけ、誰もいないお御堂で彼に別れを告げた。
ありがとう、長い間本当にありがとう。私が重篤で手術入退院を繰り返していた二年間、
いつも励ましてくれ、栄養になるからと食べ物を病室に持ってきてくれたアルマンド。

作品が売れるか、生活は成りたっているかと、いつも心に掛けてくれたアルマンド。
10月の金澤画廊個展には手助けできなくて許して、と言ってくれたアルマンド。
私は何とかやっているし、病気を治して又皆さんの前に出てきて欲しいと訴えた。
アルマンドは、皆さんにありがとうと伝えて、堂前君から伝えてと何べんも何べんも。

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                            お御堂
   
午前11時、アルマンド神父との最期のお別れの葬儀が執り行われた。
昨晩に引き続き、本当に多くの参列者がお見送りに来てくださった。
何だかアルマンド神父の弟のような気持ちになって、皆さんに頭が下がった。

私は聖歌隊の方々と一緒に、弔いのミサ曲を心から歌わせていただいた。
2時間以上に及ぶ、荘厳な葬儀も無事に終わり、皆さんの拍手と共に彼は旅立った。

「 私が逝っても教会に来て欲しい、お願いだから歌って欲しい、約束して・・・」と。
アルマンドと交わした沢山の会話、教会にきて歌って欲しい、が遺言の一つとなった。
何の宗教も持たない私だが、思いを寄せる心は人一倍ある、と思っている。

夜、再びカトリック金沢教会に出かけ、クリスマスに歌われるミサ曲の練習をしてきた。
練習は午後7時半から9時まで。

帰宅し、日記を書きつつ年賀状の整理を行った。
アルマンド神父の住所、今日の日から、私の心の中の住所録に加わった。


コメント (4)
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