創作日記

 青磁作品を中心に創作しています。
  陶芸作品が出来るまでの過程を、
   日常の暮らしを通して紹介しています。

ひとときの

2007年01月28日 | 日記

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早いもので一月もあと数日。
そのような中、金沢では伝統行事 「氷室の仕込み(雪詰め)」 が行われました。
いつもだったら30㎝あまりの雪が積もっているのに今年はまったく無く、近くの山から
わざわざ雪を運んできたそうな。

数日前から春先に咲く 「カタクリ」 を、くみ出し碗に彫り込む作業を始めております。
くみ出し碗をうすく作ってありますので、彫り込む作業は神経を使います。
うすく作った碗に、竹べらなどでかなりの力を込めて深く掘り込んでいくからです。

では何故にわざわざ深く彫り込むのかというと、私の白磁はたっぷりと釉薬を施すからなのです。
一般に白磁と言うと、何となくうすくかかった白い焼き物を連想してしまいますが、私の白磁は違います。
厚くかけた釉薬は高温で焼かれますと、しっとりと、かつあたたかい表情を示してくれるのです。
厚くかける分、「カタクリ文」 を深く彫らなければ釉薬に隠れてしまい、何の模様か見分けが
つかなくなってしまいますので、しっかりと時間をかけて丁寧に彫っていくのです。

そうして神経を張り詰めての作業を続けていますと、一瞬ふっと間が空くことがあるのです。
デザインはすでに決まっていて作業の連続、ただ思考はすでに次へと移っているのです。

手だけが自然と動いている、ん、ちょっと待てよ、そうではなくてこの 「カタクリ」 を生き生きと
表現せねば、そう思い立つ瞬間があるのです。それが間が空くときなのです。

そういう時はさっさと手を休め、庭に出ます。
雪が降る、いや暖冬だと翻弄されてしまっているこの冬、前庭には今が満開の 「さざんか」。
「侘助」 はもう盛りを過ぎましたが、 「さざんか」 が次々と咲いて、こころ慰めてくれるのです。

そのあまりにもうつくしい真紅の花びらと黄色のおしべ。 そして一輪二輪と舞い落ちた花びらの
造形美。    おもわず「きれいだなあ」。  そしてそっとやさしく両の手でつつみこむ。

神経を張りつめた彫り込み作業の連続、その疲れた目に、品のいいあざやかな 「さざんか」 が
ひとときのなごみをくれました。

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ジェット機のように

2007年01月24日 | 日記

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千葉三越個展まで二ヶ月。
あれもこれもと思い巡らせているうちに、いつの間にか時が経過している。
DM写真、千葉三越からのご挨拶文も届いて、昨日は催しのご案内のページにそれを載せました。

個展が近づくにつれ、いよいよ私のいつもの癖が出始めて参りました。
何かが閃くまで、ただジッとしているか全く関係の無いことをひたすら行うか。

そんな昨今、再び 「憩いの森」 へ出かけてきました。
そこには農業用水池が二つあり、今の時季になりますと渡り鳥たちが休息しています。

創作日記を書き始めてからカメラを肩に、も癖になり散歩道を歩いていました。
いつもとは違う見慣れない渡り鳥たちの活発な動きが目に入ってきて、
思わずシャッターを押しました。

それはまるで 「ジェット機」 が編隊を組んで空を飛んでいるよう。

よくよく観察すると、それは鳥達が水面に浮かんでいる餌をくちばしですくっている様子でした。
規則正しく後方に波紋を流している様、水面に映る空、それは誠に見事としか言いようもありません。
何気なく歩いているいつもの散歩道ですが、視点を変えるとこのような場面に遭遇することも。

作品つくりと平行して、そろそろ出品作品の整理を行わねばと思いつつ出かけた 「憩いの森」。
思いがけずに撮影できた水鳥たちの姿に、何か肩を押された感じさえもしてきました。

ただ時を待っていてはいけない、出来ることから順に始めよう、
そう思い日記を書いています。

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くみ出し碗製作

2007年01月18日 | 日記

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暦では春ですが、まだとてもそのような気配を感じられない今日の空、
ときおりパラパラとアラレがガラス窓を打ち付けている。
雨まじりのアラレだから積もることもないだろう、そう思ってロクロに向かっている。

先日歩いて来た 「憩いの森」。 小さな水溜りの中に水芭蕉の新芽が顔を出していた。
木々の芽吹きより先に、水芭蕉が早くも春が近いことを知らせてくれていた。
その周りの森にはカタクリも少しだけ咲く場所があります。

私の作品のデザインにカタクリを取り入れたものも、ふたつみっつ。
その中のひとつ、くみ出し碗にカタクリ文を彫りこんだ 「白磁くみ出し碗」 があります。
今日はそのくみ出し碗を作っているところを写しました。

使っている粘土は磁器土、いわゆる九谷焼きで使われる粘土を使用しています。
今日はロクロを回して碗の製作。セットにしなくてはなりませんので、まとまった数をつくります。
もちろん大きさ、重さはほぼ同じくに。
ある程度水分が飛んだところで、次は削りの仕上げを行います。
今年の冬はそれ程も冷え込みませんので、作品が凍ってしまう心配も無く気が楽です。

もし凍ったらどうなるかといえば、土から水分が浮き出し、ちょうど霜柱のようになり土がボロボロに
なってしまうのです。 そうなるとせっかく作った品はそれで失敗。
冬の作品管理はロクロを挽く人にとっては、そういう面で厄介な季節といえるでしょうか。

今日から約一週間のち仕上げの削りをし、その後カタクリ文を彫りこみます。
そして自然乾燥、素焼き、白磁釉薬を施して千三百度あまりの高温焼成を行って完成。

順調に作業が進みますように、冷え込みが厳しくならない事を願っています。

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山茶花のある風景

2007年01月17日 | 日記

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いつくるか、いつドカッと降るかと心配していた雪もそれ程ではなく、
私がときどき出かけている 「憩いの森」 へ行ってきました。
ここは我が家から約2,5キロのところ。

雪の無い地域の冬はきっとこのような景色だろうなあと思いつつ、かやぶき屋根の
民家をフィルムに収めました。 この民家は保存の目的で移築されてここに建っています。
散歩コースの一角にあり、そこに辿りつく山道の傍らには短歌を書いた看板も立ててあり、
知らず知らずのうちに短歌に親しんでしまいます。 木々の名前もしっかりと結わえてあって、
なるほどこの木がこれか、と誠に親切。

春になれば私の好きな山野草も一斉に咲き、心も豊かになってまいります。
私の作品の形はすべて自然の草花や木の実をモチーフにしたものばかり。 
これほど完璧で無駄の無い形はありません。 その形をしっかりと目に焼きつかせて
私なりの作品へと変化させていきます。 

ほんの小さな花でさえ、よく観察すれば誠にきれいな姿をしています。
その花の一点の、その木の実の一本の線がとても参考になるのです。
一月半ば、さすがに草花はまだ冬ごもり。 
ただ唯一 「さざんか」 が、かやぶき屋根にほど良くかかっていて、思わず見とれてしまいました。

半日陰にたたずむ昔懐かしい民家、屋根に彩りを添えている 「さざんか」。
なぜか、囲炉裏を連想してしまいました。 
私の実家、今でこそ囲炉裏で煮炊きは致しませんが、自在鉤(じざいかぎ)に大鍋をかけ、
大根などの根菜類をいつも煮ていました。時にはサツマイモを灰の中に入れて蒸し焼きにしたり。
あのときの焼き芋って、本当に甘くて美味しかった、そんな記憶がいまも舌に残っています。

そんなことを思いつつ、かやぶき屋根の家の周りを巡っていましたら、姿なき 「ささゆり」 の
立て札が。 そういえばここの周りにはたくさんの「ささゆり」が咲いていたんだ、とおもいつつ、
歩きが終わったらユリを買わねばと、早速帰りに 「カサブランカ」 をドカッと買い込みました。
一本、千二百円、う~ん高い、でも気持ちが豊かになる、が勝って購入。

調度良い姿の青磁壷がありましたので、生けてみました。
青磁にユリ、凛として気品が漂ってまいります。
先日生けこんだ野水仙は静かなたたずみを、そしてカサブランカは華やかさを主張し。

うん、いずれもよし、と。

何だか一気に花が一杯になった我が家。作品と花々の競演を目と香りで楽しんでおります。
さあ、早速作品の創造をめぐらせなければ。

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ひなたぼっこ

2007年01月11日 | 日記

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あ~ぁ、あったかい、あったかい!
小松の空に訪れる、ほんのひとときの晴れ間。
トラちゃんとクロちゃんが勝手口の屋根でひなたぼっこ。

迷いこんできた野良犬のマコちゃんと17年間仲良く一緒に暮らし、マコが遠くへと旅立ったあと、
野良猫たちが次々と私の家族となった。ところがどういう訳かすべてがメスばかり。
あるときには乳飲み子の子猫を一匹ずつくわえて連れて来た母猫もいた。

野良猫と言うのは犬と違ってなかなか人には馴れてくれません。手を出せば必ず引っ掻かれるか
それとも親子揃って一目散に逃げ出すか。 なぜ、どうしてなんだ? なんにもしないのに。
でも可愛くて可哀相でご飯を与えておりました。 ようやく子猫がご飯を食べられるようになった頃、
ある方法で母猫を捕まえて避妊手術を受けさせるため獣医さんへ。 そのようにして次は子猫たちを。
痛かったろうなあ、ゴメンねと言いつつ、なんど獣医へ通ったことだろうか。

一時期は八匹のニャンコ達が勝手口に住んでいました。
あさ、私が起きだすと一斉に オハヨウ、オハヨウと声をそろえて挨拶してくれました。

ドアを開けるとそれぞれ個性あふれる顔で私を迎えてくれました。
ハイ、ハイ、ご飯だよ、とそれぞれの器に朝食を分け与えてしばらく観察。
今日こそはなでさせてね、と手をさしだすとアッと言う間に外へ飛び出していく始末。

どうしてなんだよう、なんで逃げるんだよう。 ニャンコ達は垣根の下から私を見つめていました。
あきらめてドアを閉めるとサッと戻ってきて食事。 その音を聞きつつコーヒーをいれる私

旅立ったマコ、我が家に迷い込んで来た時、「お手」、「おすわり」、「おあずけ」など、全部出来ました。
と言うことはそれまで何処かの家の家族だったのでしょう。 首輪も何も無く、オドオドとして我が家に
迷い込んで来た日のことは今もはっきりと覚えています。

可愛いから、人形みたいだから、子供が飼いたいといったから、だから飼った?
ならば生きとし生けるもの、縁があって家に来たのなら家族でしょう?
なぜ捨てる? 命果てるまで心通わすのが考えることを与えられた我々人間ではないのでしょうか?
嬉しいとき、幸せなとき、悲しいとき、さみしく切ないとき、ワンちゃんニャンコちゃんはどれほどの
喜びと癒しをくれたでしょうか。 

トラちゃんクロちゃん、今日のお日様は暖かいかい? 
あんなに沢山の家族がいたのに、もうお前達だけになってしまったね。
今晩のごはん、なにをたべようかな。 何にする? ん、それよりも昼寝かい?
じゃあ日が暮れないうちに早く降りておいで。

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