創作日記

 青磁作品を中心に創作しています。
  陶芸作品が出来るまでの過程を、
   日常の暮らしを通して紹介しています。

修業時代

2009年10月30日 | 日記
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いくらなんでも、そろそろロクロに向かわなければ、
そう思い、在庫が無くなった盃と高坏の製作を始めた。

Photo

   シノギ文用 ・ 盃

ロクロ修業を行っていた二十歳のころ、
窯元の社長から壷を作ることを勧められ、朝から就寝近くまで壷作りの練習ばかりしていた。
ほんの2年ばかりの窯元での修業を終え、その後は実家の物置の片隅で様々な品を作っていた。
幸か不幸か、私には直接ロクロを教えてくれる師匠は居なかった。
ただ、窯元の社長が心配してくれ、時折自転車に乗って様子を見にきてくださった。

職人の世界は誠に複雑で、社長から目を掛けてもらっている私が気に入らない、
ただそれだけの理由で、毎日のように嫌がらせを受けていた私。
あまりにも理不尽な扱いを受け、ある日爆発してしまった。

けれど私は焼物をやめる気は毛頭無く、続けたい、その一心だった。
窯元の社長も後継者を育てる役職に就いていて、私の今後を心配して下さった。
運よく実家は農家であり、私がロクロを続ける場所には困らなく実家で仕事をすることになった。

窯元では壷ばかり練習していたが、独立した以上、様々な品物を作らなくてはならない。
社長の計らいで壷は当然ながら、盃、、湯のみ、碗、鉢、皿等々、あらゆる物を作り始めた。
とは言うものの師匠は居なく、壷から盃を作ることの難しさをイヤと言うほど思い知らされた。
見た目は同じでも、一つ一つの重さや厚みが統一しないのである。

仕事の進み具合を心配して社長が来て下さり、仕上がった作品を一つ手に取り、
「 これが仕上げた作品か?」と聞かれ、「 そうです。」と言うと、作品が載っている板を持ち上げ、
ザーっとロクロ脇に投げ入れてしまった。  ひと板に載っている作品は50個あまり。
全部で10枚の板だから、500個の盃すべてを壊された・・・・・・言葉が出なかった・・・・・・。

その当時、まだ自分の作品は殆ど創っていなくて、九谷作家の素地(きじ)を作っていた。
「 ごあいさつ 」のページにも書いてありますが、九谷は分業制。
ロクロひきはひたすらロクロで形を作ることしか出来なかった時代だった。

社長が壊してしまった作品はお金にならず、これではいけないと思い、
またまた必死になり、寝る寸前までロクロを回し続けた。 そんなことが半年もあったろうか、
ようやくすべての作品が品物になる所までこぎつけた。

Photo_2

   シノギ文用 ・ 高坏

どんな仕事も同じことが言えるが、基礎はぜったいに必要。
基礎なくして形になるものは作れない、そう思っている。
修業時代、社長の無言の指導、仕上げた何百個の作品を一気に壊して下さったこと、
そのことがあったお陰で、いま私は様々な形の作品を創ることが出来るようになった。

あっ、また壊されると思った途端、作品は粉々に。 でも腹が立つことは一度も無かった。
くそっ、今度こそ完璧なものを作ってやる、そればかりを思って修業を続けていた。
そしてある日を境に、本当にある日が突然訪れ、その日から社長は作品を受け取ってくださった。
失敗の連続を繰り返していると一瞬コツが掴めるのだった、その時が壁を越えられるのだ。

Photo_3

  白磁シノギ文 ・ 高坏

ここ数日、盃、高坏を作っているが、あの時の社長の無言の指導が無かったら、
今の私は存在しないだろう、そう思いながらロクロに向かっている。
作品を一点しか創らない作家も居るだろう、が基礎はしっかりと学んできたはず、そう信じたい。
基礎が無くては自分の思うとおりの作品は決して生まれない。 何事も基礎が大切である。

二十歳代のとき、あれほど苦しみ悩んでいたロクロ成形、いまは体が勝手に動いている。
たった一つの小さな盃、何回、何十回と壊され続けた日々、板に載っている作品を見つつ、
窯元から20分かけて自転車で駆けつけて下さった社長を思い出している今日このごろ。


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コメント (2)
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