オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

ブルーノ・ワルターとの出会い 最終回

2007年10月01日 17時55分42秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
マーラー 交響曲第1番「巨人」
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団 (1961年、ワルター84歳の時の録音)

久しぶりにこの録音をCDで聴く。夢見るような詩情あふれた素晴らしい演奏である。他の指揮者で聴かされるようなやかましさは皆無で本当にこの曲の美しさに陶酔するだけである。バーンスタイン、オザワ、マゼール、小林研一郎の録音も持っているがこの曲はワルターが一番である。何かワルターが私の前でこの曲の魅力を語っているような気がする時があります。こんな事はベームやフルトヴェングラーでは絶対感じない事である。しかし、これだけの演奏なのにレコードの時代は全くこの演奏の素晴らしさに気が付かなかったのである。



カール・ベームにつながる指揮者としてワルターに興味を持ち彼の指揮するコロンビア交響楽団の演奏のベートーヴェン、シューベルト、マーラーなどレコードを購入して聴きましたがさっぱり面白くない。ベートーヴェンは弦は薄っぺらく聴こえるしマーラーの「巨人」も木管や管楽器が弱く聴こえ楽しめない。他の作曲家も同様で、よくレコード雑誌の名盤選びでは常にワルターの録音が上位で、ワルターを支持している人たちは自分が生きてきた年代にワルターの晩年が重なっていて、独特の感情があるのではと思ったりしたものです。

ワルターを聴かなくなった頃、時代はいよいよレコードからCDの時代に大きく変わり突入しました。ちょうどその頃私自身、前に努めていた会社と感情的もつれが大きくなり遂に半年ほど失業、そしてやっと今の会社に就職した時やっとCDの再生装置を購入する事ができました。22年前の事です。その時一緒にその頃話題になっていた5枚のCDを購入しました。(あの頃のCDは高かった!)
その頃ワルターのコロンビア響との録音がCD化され(故人の名演奏家の録音がCDされたのはワルターが最初だったはずである)大変話題になりました。そして何か惹かれる様にワルターの指揮する「巨人」を5枚の内の1枚として購入しました。初めて聴いた時、本当に驚きました。見違えるような、レコードと全く違う録音のように聴こえました。CD化に当たりレコード会社はオリジナル・マルチ・テープから、当時の録音プロデューサー自らの手によりリミックスされマスターテープなみの音で再生できるようにしたそうです。またワルター晩年の録音が優れた音質で録音されマスターテープとして残っていたことも大きな要因でしょう。一気に私の中のワルターの存在が大きくなってしまいました。
ワルターの録音をまた一から買い直す事となりました。今度は失望はありません。弦が薄っぺらいと思っていたベートーヴェンもCDで聴くと逆にスケールの大きさを感じるようになりました。(特に「田園」)またCDのおかげでもっと古い録音が見事に復刻され収集の巾が一気に広がりました。ニューヨークフィルの時代、さかのぼって亡命直後、そしてさらにさかのぼってウィーン時代の録音を聴いてワルターがその時代によって演奏スタイルが違う事に気が付いて来ました。このような面白さはフルトヴェングラーにはありません。ワルターの録音の収集はこれからも続行です。まだまだこの指揮者の素晴らしさや面白さに気が付いていない事がたくさんあるはずです。
ワルターの大変な生涯のなかで残してくれた貴重な録音の数々。これからも宝として大切に聴いていくつもりです。



長々となってしまいました。「ワルターとの出会い」を述べるに当たっていきなりCD時代から述べるのも良かったのですが私の敬愛する指揮者の一人のカール・ベームとの関係は無視できない事であり、そうすると私のベームとの出会いも触れなければいけないという事でダラダラと長くなってしまいましたが私自身のクラッシック音楽の遍歴を顧みるよい機会だったと思います。今後はワルターやベームのお気に入りの録音も取り上げていくつもりです。


最後に私が旧ブログに書き込んだ「ブルーノ・ワルターの生涯」のコピーも掲載しておきます。

ブルーノ・ワルターの生涯



私がいつもお世話になっているシフ様のブログで往年の大指揮者ブルーノ・ワルターが話題になっているのでワルターの生涯を簡単に紹介します。
①生誕からデビューそしてマーラーとの出会い
ブルーノ・ワルターは1876年絹織物商の事務をしていたユダヤ人の父と音楽才能豊かなドイツ人の母を両親としてベルリンで生まれた。本名はシュレジンガー。(デビュー後ワルターという芸名を名乗っていたが1911年オーストリア帰化後本名をワルターと改名する)
6歳の時本格的にピアノを習い始めたが、その上達は早く1885年母親の母校シェテルン音楽院に入学。1886年10歳の時、初のリサイタルを開き1889年にはベルリンフィルの演奏会にも登場、正にピアノの天才少年だった。しかし同年彼の一生を決める出来事があった。当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローが指揮するベルリンフィルの演奏会を聴き指揮者になる事を決意する。13歳の時の事だった。音楽院も指揮科に移り、作曲法や読譜法も学ぶ。
17歳の時ケルン歌劇場で練習指揮者として採用され、翌年オペラ指揮者としてデビューする。その年、ハンブルク歌劇場へ移るが、運命的な出会いがあった。当時の主席指揮者だったマーラーである。若く多感な時期での大音楽家との出会いは圧倒的な影響があったはずである。また気難しいマーラーにとってワルターは弟子というより数少ない友人だったとも言われている。
②ミュンヘン時代
その後、マーラーと別れプレスラウ、リガ、ベルリンと移り、そして1901年マーラーのいるウィーンへオペラ楽長として赴任する。1911年ミュンヘンで「大地の歌」。1912年ウィーンフィルとマーラーの交響曲第9番を初演。
1913年37歳の時現在のバイエルン国立歌劇場の総監督に招かれる。1922年ミュンヘンを去るまで彼のオペラに対する理想が見事に花が咲いた時と言われているが一番の収穫はモーツァルトへの愛が深まった事である。またこの時期オーストリアのグラーツ出身の若い指揮者が彼の元で研鑽を積んでいた。彼の名はカール・ベーム。ワルターとベームの関係はまたの機会に取り上げるつもりである。
1922年ベルリンフィルの指揮者二キシュが死去。後継指揮者の候補はワルターとフルトヴェングラーだった。後継はご存知の通りで、かなりショックだったらしい。
1923年現在のニューヨークフィルに初の客演。1925年ベルリン市立歌劇場の総監督。1928年よりライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者。
1930年代にはいるとヒットラー率いるナチスが台頭。1933年には1923年から始まり毎年大好評だったベルリンフィルとの「ブルーノ・ワルター演奏会」が中止に追い込まれるなど、このままドイツに留まることに危険を感じ活動の拠点をウィーンへ移すのである。
③ウィーン時代、そして嵐の時代。
1934年ウィーンフィルに招かれ、1936年ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。正にその名声は世界に響き渡る。この時期ウィーンフィルとの名コンビによる素晴らしいSP録音が生まれ、戦前の絶頂期のワルターを知る事が出来るのである。
しかし事態が悪化する。1938年3月ナチス・ドイツはオーストリアを併合。そのときワルターは客演先のアムステルダムにいたがウイーンでの国籍や財産を全て失う。モナコ、フランスと転々とするが、1939年8月ルツェルン音楽祭に登場 する予定だったが次女が夫に射殺されるという事があり茫然自失のワルターに代わって急遽指揮台に立ったのはトスカニーニであった。
そして同年9月ナチス・ドイツがポーランドへ侵入して第2次世界大戦が始まり、10月ついにヨーロッパを去りアメリカへ亡命するのである。
④アメリカ時代
アメリカ亡命後ニューヨークフィルやメトロポリタン歌劇場を中心に活躍。アメリカの文明、トスカニーニの存在、ヨーロッパとは違うアメリカのオケなどの影響かウィーン時代には聴けなかったスケールの大きさや力強さなどを聴く事が出来る。1945年ロサンゼルス郊外のビヴァリー・ヒルズに自宅を購入。大戦後1946年にはエジンバラ音楽祭でウィーンフィルと再会を果たす。
1949年アメリカ楽団を大きく揺るがす事件が起きる。シカゴ交響楽団がフルトヴェングラーの招聘を公表。トスカニーニを筆頭にアメリカの著名な音楽家はほとんど全て反対、シカゴ響への出演をボイコットを表明する中でワルターは彼らに同調しなかった。ここに彼の心の中の強さを感じる。
⑤晩年
1956年引退を表明。翌年、心筋梗塞による発作を起こし約10ヶ月療養するが、この間レコードはステレオ録音という画期的な時代に突入する。ワルターは米コロンビアの強い説得で録音を開始する。レコード会社は彼の為にレコーデイングの為のオケのコロンビア交響楽団を組織して数々のステレオ録音を行う。その多くが今も名盤として最高の遺産となっている。
1960年5月マーラー生誕100年記念で生涯最後のウィーンフィルを指揮。同年12月ロサンゼルスフィルでの客演が生涯最後の演奏会となった。
1962年2月17日ヒヴァリー・ヒルズの自宅で心臓発作のため死去。享年85歳であった。その遺体はスイスのルガーノにて埋葬された。

駆け足での紹介となってしまいました。またの機会に詳しくふれましょう。昨年はワルターの生誕130年の節目の年でした。戦前のキャリアを見るとフルトヴェングラーやトスカニーニに負けないたいへんな大指揮者です。少しでもワルターの魅力に気付いてくれるならば幸せです。


両雄激突。

2007年10月01日 10時25分02秒 | テレビ
NHKの大河ドラマ「風林火山」は、昨晩はいよいよ5回に及んだ川中島の合戦の最初の合戦が描かれました。武田信玄と上杉謙信(長尾影虎)の激突はやはりゾクゾクするものがあります。よく歴史学者などがこの合戦の歴史的意義や価値などを述べていて興ざめする事もありますが、そんなことはどうでもよい。やはりこの合戦は歴史のロマンである。長篠の合戦のように鉄砲で一発で決まるのもよいが(この革命的な合戦の意義はよくわかっています)大将同士がにらみ合い、そこには軍師という者が横にいて英知をふりしぼる。そして大軍が激突する。それをドラマとしてじっくりと見たい。
「風林火山」の最終回は川中島の合戦で最大の戦闘だった4回目の合戦の場面でしょう。啄木鳥の戦法を見破った謙信の動き、武田信繁の戦死、そして信玄と謙信の一騎打ちなどエピソードが多いのですが、主人公の山本勘助が最後絶命する時、風林火山の旗をどのような気持ちで見つめたのか思いを馳せます。
とにかく戦国のロマンに酔いたい、酔わせて欲しいものです。