オペラファンの仕事の合間に

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ブルーノ・ワルターの生涯

2007-07-26 02:28:55 | 音楽
私がいつもお世話になっているシフ様のブログで往年の大指揮者ブルーノ・ワルターが話題になっているのでワルターの生涯を簡単に紹介します。
①生誕からデビューそしてマーラーとの出会い
ブルーノ・ワルターは1876年絹織物商の事務をしていたユダヤ人の父と音楽才能豊かなドイツ人の母を両親としてベルリンで生まれた。本名はシュレジンガー。(デビュー後ワルターという芸名を名乗っていたが1911年オーストリア帰化後本名をワルターと改名する)
6歳の時本格的にピアノを習い始めたが、その上達は早く1885年母親の母校シェテルン音楽院に入学。1886年10歳の時、初のリサイタルを開き1889年にはベルリンフィルの演奏会にも登場、正にピアノの天才少年だった。しかし同年彼の一生を決める出来事があった。当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローが指揮するベルリンフィルの演奏会を聴き指揮者になる事を決意する。13歳の時の事だった。音楽院も指揮科に移り、作曲法や読譜法も学ぶ。
17歳の時ケルン歌劇場で練習指揮者として採用され、翌年オペラ指揮者としてデビューする。その年、ハンブルク歌劇場へ移るが、運命的な出会いがあった。当時の主席指揮者だったマーラーである。若く多感な時期での大音楽家との出会いは圧倒的な影響があったはずである。また気難しいマーラーにとってワルターは弟子というより数少ない友人だったとも言われている。
②ミュンヘン時代
その後、マーラーと別れプレスラウ、リガ、ベルリンと移り、そして1901年マーラーのいるウィーンへオペラ楽長として赴任する。1911年ミュンヘンで「大地の歌」。1912年ウィーンフィルとマーラーの交響曲第9番を初演。
1913年37歳の時現在のバイエルン国立歌劇場の総監督に招かれる。1922年ミュンヘンを去るまで彼のオペラに対する理想が見事に花が咲いた時と言われているが一番の収穫はモーツァルトへの愛が深まった事である。またこの時期オーストリアのグラーツ出身の若い指揮者が彼の元で研鑽を積んでいた。彼の名はカール・ベーム。ワルターとベームの関係はまたの機会に取り上げるつもりである。
1922年ベルリンフィルの指揮者二キシュが死去。後継指揮者の候補はワルターとフルトヴェングラーだった。後継はご存知の通りで、かなりショックだったらしい。
1923年現在のニューヨークフィルに初の客演。1925年ベルリン市立歌劇場の総監督。1928年よりライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者。
1930年代にはいるとヒットラー率いるナチスが台頭。1933年には1923年から始まり毎年大好評だったベルリンフィルとの「ブルーノ・ワルター演奏会」が中止に追い込まれるなど、このままドイツに留まることに危険を感じ活動の拠点をウィーンへ移すのである。
③ウィーン時代、そして嵐の時代。
1934年ウィーンフィルに招かれ、1936年ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。正にその名声は世界に響き渡る。この時期ウィーンフィルとの名コンビによる素晴らしいSP録音が生まれ、戦前の絶頂期のワルターを知る事が出来るのである。
しかし事態が悪化する。1938年3月ナチス・ドイツはオーストリアを併合。そのときワルターは客演先のアムステルダムにいたがウイーンでの国籍や財産を全て失う。モナコ、フランスと転々とするが、1939年8月ルツェルン音楽祭に登場 する予定だったが次女が夫に射殺されるという事があり茫然自失のワルターに代わって急遽指揮台に立ったのはトスカニーニであった。
そして同年9月ナチス・ドイツがポーランドへ侵入して第2次世界大戦が始まり、10月ついにヨーロッパを去りアメリカへ亡命するのである。
④アメリカ時代
アメリカ亡命後ニューヨークフィルやメトロポリタン歌劇場を中心に活躍。アメリカの文明、トスカニーニの存在、ヨーロッパとは違うアメリカのオケなどの影響かウィーン時代には聴けなかったスケールの大きさや力強さなどを聴く事が出来る。1945年ロサンゼルス郊外のビヴァリー・ヒルズに自宅を購入。大戦後1946年にはエジンバラ音楽祭でウィーンフィルと再会を果たす。
1949年アメリカ楽団を大きく揺るがす事件が起きる。シカゴ交響楽団がフルトヴェングラーの招聘を公表。トスカニーニを筆頭にアメリカの著名な音楽家はほとんど全て反対、シカゴ響への出演をボイコットを表明する中でワルターは彼らに同調しなかった。ここに彼の心の中の強さを感じる。
⑤晩年
1956年引退を表明。翌年、心筋梗塞による発作を起こし約10ヶ月療養するが、この間レコードはステレオ録音という画期的な時代に突入する。ワルターは米コロンビアの強い説得で録音を開始する。レコード会社は彼の為にレコーデイングの為のオケのコロンビア交響楽団を組織して数々のステレオ録音を行う。その多くが今も名盤として最高の遺産となっている。
1960年5月マーラー生誕100年記念で生涯最後のウィーンフィルを指揮。同年12月ロサンゼルスフィルでの客演が生涯最後の演奏会となった。
1962年2月17日ヒヴァリー・ヒルズの自宅で心臓発作のため死去。享年85歳であった。その遺体はスイスのルガーノにて埋葬された。

駆け足での紹介となってしまいました。またの機会に詳しくふれましょう。昨年はワルターの生誕130年の節目の年でした。戦前のキャリアを見るとフルトヴェングラーやトスカニーニに負けないたいへんな大指揮者です。少しでもワルターの魅力に気付いてくれるならば幸せです。

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4 コメント

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ワルターが残した財産 (eyes_1975)
2007-07-26 20:40:52
シフさんのブログでワルターに触れてから、きっと興味を持った人も多いでしょう。
とくにバーンスタインにバトンを渡したといってもいいくらいです。共通点はユダヤ系であることと、幼い頃からピアノの天才だったこと。
ニューヨーク・フィルハーモニックを急病だったワルターの代役から指揮したことがきっかけで、バーンスタインの地位を上げたのが大きいです。
数ある名演の中でもワルターは次世代に残した貢献者でもありますね。
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ワルターとバーンスタイン (オペラファン)
2007-07-26 21:28:50
1943年11月ワルターはインフルエンザの為、ニューヨークフィルの演奏会をキャンセル。そしてバーンスタイが代役を務め大成功を収めた事は有名な話ですね。(曲目はR・シュトラウスの「ドン・キホーテ」など)

ワルターとバーンスタインは両者ともユダヤ系でマーラーを得意としニューヨークフィルとも縁が深い指揮者なのでどうしても関係が深いように思われているようですが実際はどうだったのでしょうか?よく解かりません。それよりもワルターの芸術を間近で接しその後のキャリアに影響があった指揮者はやはりベームだったと思います。近いうちに私のワルターとの出会いを書くつもりですので、この事はどうしても避けて通れないでしょう。(何か自分史になりそうですな~)
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ワルターの生涯 (シフ)
2007-07-27 00:57:46
いつもながら第2次大戦で苦労をした音楽家の話を聞くと胸が痛みます。激動の時代を生き抜いたワルターの生涯に頭の下がる思いです。どこかのユダヤ系監督会社が映画にしてくれないかな。きっと感動大作になると思うけど???

さて私は全くの先入観で、ワルターというのはヴァイオリンでいうとエルマンみたいな温和で甘美な音楽をする人かと思っていました。しかし遅まきながら初めて「田園」を聴いて「いやいやどうして!」と思ったわけです。大変に雄大で劇的な表現もするではないかと。それがアメリカ文化との出会いによるワルター自身の変貌によるのだとしたらそれはそれで面白い。もっと聴いてみたいと思ったわけです。

私のワルターの今までの愛聴盤は、邦題が「モーツァルト~ミラベルの庭園にて~」という1954年に録音された盤です。この中の演奏会用アリア「この美しい手で」K812が声楽を習っていた頃のお気に入りの曲だったので探してやっと見つけたものです。ここのワルターはアメリカ時代ではあるがかなりヨーロッパ的だと思います。

ワルターとベームの関係は面白そうですね。ちなみに私はかつて一時期ですがベーム以外のモーツァルト演奏を受け付けなくなった時期があります(笑)。

好きな音楽家について書くことが自分史につながっていく。ブログを書く楽しみここに極まれりでしょう。楽しみに待っています。

私が自分史と重ねて音楽との出会いを書くとしたら、やっぱりバッハですね。ベートーヴェンやモーツァルトも欠かせませんが。演奏家だったらカール・リヒター。
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ワルター、モーツァルト (オペラファン)
2007-07-27 23:10:04
私のワルターの愛聴盤にモノラル録音ですがニューヨークフィルを指揮したモーツァルトの交響曲第39番~第41番の3曲を一枚に収めたCDがあります。この演奏を初めて聞いた時はLPレコードの時代でしたが私のワルター開眼の録音と言えるでしょう。

私がワルターを語る時、どうしてもベームを先に語らなければいけません。とんでもない事になりましたが素直に書いていくつもりです。

バッハとリヒターを語る。期待しています。
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