伊豆屋から去った兵馬の足は、いつも寄るお芳の置屋の方へと向かっていた。道すがら思うことといえば、徳利坂の怪だった。随分と前になるが、そのようなこともあったな…と思い返すが、そのときの妖怪のことまでは分からなかった。はっきり言えば、忘れてしまっていたのである。
歩く速度を落とし、ついには立ち止まって腕を組みながら兵馬は考えた。しばらくすると、徳利坂…徳利…徳利の精…と考え巡る中で、身体が浮いたことがあったことを思い出した。しかし今回は人変わりである。人の性格が一変するこの珍事と身体が浮くことの脈絡(みゃくらく)がない。それでも喜助の話だと徳利坂の怪に似通っているという。兵馬にはどこが似通っているのかが分からなかった。
油問屋の伊豆屋から一町ばかり歩いた頃、一匹の白い猫が兵馬の前に現れた。猫にしてはトップリと太り、尻尾も尋常でないほど太長く、それでいて地面に垂れるでなく直立している。兵馬は妙な猫だな…と、歩を止めた。すると突然、その猫は神隠しにでもあったように消え失せた。
『久しいのう、そこのお方…』
猫が消え失せるのとほぼ同時に、どこからか荘厳(そうごん)な声が兵馬の耳に聞こえた。
「出たなっ! 物の怪っ!!」
兵馬は刀の柄(つか)に手をかけ一瞬、身構えた。
『物の怪とは心外っ! 聞き捨てならんっ!』
どこからか聞こえる声は少し怒りの感を増して響いた。そして、消えた猫が再び姿を現すと兵馬の前で動きを止めた。兵馬としては行く手を遮(さえぎ)られた格好だ。
続