十日ばかりが過ぎた頃、ひょんなことから事件ともつかぬその妙な出来事の発端が綻(ほころ)びを見せた。むろん、その情報は魚屋の喜助からであった。
その日も兵馬はお芳の置屋で杯(さかずき)を傾けていた。
「兵馬さま、箱根の湯治、お忘れになったんですかっ!?」
お駒が拗(す)ねた口調で地炉利の熱燗を膳上の杯に注ぐ。兵馬は小鉢に盛られた浅蜊の生姜煮を箸で摘(つま)み、ひと口、口中(こうちゅう)へと運ぶ。
「んっ!? そんなことを言ったか?」
「嫌ですよ、もう、お忘れなんでございますか? 確かにおっしゃいましたっ!」
「言われましたともっ! 私が生き証人でございますよっ!」
お駒の助け舟のようにお芳が小盆にお燗をした地炉利を乗せ、スゥ~っと部屋へ現れる。
「そうか? ははは…深酒の所為(せい)かも知れんな」
「まあ、兵馬さまったらっ! それじゃ、言った覚えがないとっ!?」
お芳の加勢で勢いづいたお駒が兵馬を攻める。
「ないとは申さぬが…。ああ、そういや、そのようなことを言ったかも知れんな、ははは…」
これは拙(まず)い…と瞬間、思った兵馬は三十六計、逃げるが勝ち・・を決め込む。
「ははは…じゃありませんよっ! ほんとに連れてって下さいましよっ!」
「ああ、分かった…」
お芳が地炉利をお駒の横へ置いて部屋から出ようとしたとき、前栽(せんざい)から喜助の呼ぶ声がした。
「ちわっ! 旦那っ!! おられやすかいっ!? 魚屋の喜助でございますっ!」
「おお、喜助かっ!」
兵馬にも助け舟がやってきた・・という寸法である。兵馬は、これは好都合と、スクッ! と腰を上げると、声がした前栽の簾(すだれ)を上げた。
「たぶん、こちらかと思いやして、寄らせて戴きました…」
腰を屈(かが)めた喜助が前栽の足踏み石の前で控(ひか)えていた。
「どうだ? なんぞ、分かったか?」
「へいっ! これは旦那に知らせねぇ~と、という話を小耳に挟みやしてねっ!」
「そうか…。まあ、そこではなんだ。足を表で洗って上がれっ!」
「へいっ! そいじゃ…」
喜助はそう言うと、足早に前栽から表口の方へと姿を消した。
続