夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

iPodに始まった”音楽革命”は、果たして私たちに、幸福をもたらしたのか 【下】

2011-10-24 17:49:16 | 時事【社会】
レコード業界は平成元年の1989年の頃から、
世界のレコード市場でアメリカに続いて第二位の日本に注視してか、
特に外資の親会社から利益が追及されて、それぞれの各社は利益管理を厳しくなった、
と聞いたりしていた。

こうした中で、1990〈平成2〉年に於いて、
日本におけるポリグラムグループ(ポリドールと日本フォノグラム)の統括会社であるポリグラムとして創立し、
その後、1992(平成4)年にの3月に、ポリグラム(現・ユニバーサル・ミュージック)として本稼動したので、
私も転籍した。

その後、1995〈平成7〉年に8月24日 ウィンドウズ95が世界で同時発売され、
そして11月23日「ウィンドウズ95」日本語版が発売された後、
日本で発売され、数多くの方たちが、パソコンを購入しはじめて、
その後のネット社会が実質的に始まった・・。

このことはアメリカの音楽業界はもとより、日本でも音楽業界にも多々影響があった。
一部の熱狂的な音楽愛好者、或いは悪質な利益を追求する方たちが、
違法な音楽配信を普及し始めたのである・・。


そしてレコード業界は1998(平成10)年、CDを中核とする売上げのピークとなり、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われ、
リストラ旋風となった。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私も翌年の1999(平成11)年の早春に同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。

私は30年近い本社勤務から、出向となり、私も都落ちの失墜感を感じたりし、
そして業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。
この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。

このような中、違法な音楽配信、社会の趣味の多様化の中、CDの売上も急速に下降した。
その後、音楽配信が正常に普及したが、社会はデフレ風潮の中、売上げは下降している。


しかし決定的なことは、2003(平成15)年に於いて、
世界最大の音楽サイト「iTunes(アイチューンズ)」がサービスを始め、
私が瞬時に、音楽業界のパンドラの箱が開けられた、と強く感じたりした。

有料として1曲当り1ドル前後の割安で、利用者は購入できた上、
何よりも無料で視聴できることがアメリカをはじめ、主要国に急激に普及したことである。

なぜスティーブ・ジョブス氏が、このような安価でレコード各社を説得し、妥結させることができたのか、
と私なりに思案したのであるが、この当時も主要国で違法な音楽配信がはびこり、
そして有料音楽配信があっても中小の規模であり、
やむなくレコードのメジャー各社は妥協してしまった、と複雑な思いで結論したりした。


その後も一部の違法な音楽配信が数多く存在しているし、
圧倒的に割安感の「iTunes(アイチューンズ)」は普及、拡大する中、
CDの売上は更に低迷し、ここ数年はCD販売店の閉店、縮小が見られたりし、
音楽業界は烈風の中、存在している。


2004〈平成16〉年の秋に、何とか定年退職を迎えた後、
念願の年金生活をしている私が、音楽業界に憂い危惧していることは、
売上はもとより、利益も激減し、衰退化していることである。

音楽の専用誌も廃刊が相次ぎ、
CD販売店の閉店、縮小に伴いジャンルの専門分野の店員さんも激減し、
何よりもアーティストを取り巻く環境である。

このことはYMOのサウンドプログラマーを務めた松武秀樹さんが、
コメントで明言している通り、
《・・
曲の流通主体は、一定の収入が見込めるCDから、安価で権利関係の整備が不十分な配信に変わった。
このため、ミュージシャンが音楽を創造し、リスナーから対価を得て、
再び創造にあたるという音楽活動のサイクルが崩れてしまった面もある。

著作権で守られた作詞家や作曲家を除けば、ミュージシャンらの権利保護は不十分なままだ。
放置すれば、プロの音楽家が育たないことにもなりかねない。
・・》
この明言に尽きる。

このことは、昨今の『電子書籍』の問題も同一と私は深く憂いている。


そして私情を重ねれれば、デジタル携帯音楽プレーヤーに関してである。

私は携帯音楽機種としては、CD携帯プレイーヤーのウォークマンしか持っておらず、
デジタル携帯プレーヤーに寄る250曲以上、収録できると聞いたりすると、
私なりに眩暈(めまい)を感じている。

ときおり私は、散策の時など、音楽棚のCDアルバム1000枚ぐらいから、
ある程度選定し、簡易バックに入れて、CDプレイーヤーで聴いている。

CDアルバムは、アーティストが曲を創作され、
一曲の曲が生まれ、曲の編成順にこだわり、色々な思いも加味され、
音源制作会社、レコード会社のおもわくの上、完成され発売となる。
そのアーティストにとっては、その時代に創作活動の発表となるので、
ある面に於いて、自己存在を掛けたアルバム作品となる。

このような心情が私なりにあるので、
一枚、一枚のアルバムを深い思いで聴いている。
今度のアルバムの中の曲は・・
何故、この曲は三曲目に・・
とそのアーティストの心を思い馳せながら聴いているのであるる。

デジタル携帯プレーヤーの250曲前後収録といっても、
どのように編成して収録し、利用されているのか、
古い感覚の私としては、理解出来ないでいる。

まして昨今、音楽有料配信で、シングルとして収録された曲であるならば理解できるが、
アルバムの中の曲をバラ売りに配信されている、
と知った時は、アーチィストの心情を思い重ねると、涙ぐんだりしたひとりである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iPodに始まった”音楽革命”は、果たして私たちに、幸福をもたらしたのか 【中】

2011-10-24 15:37:43 | 時事【社会】
私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をした後、先の見えないつたない才能に無念ながら断念し、
何とか大企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、近所の家電販売店の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知ったりした。

日本ビクターという会社で、中途入社の募集があり、確か経理、情報分野の要員であった。
私はこのお方のご尽力もあり、入社試験、そして面接を二回ばかりした後、ほぼ内定となった。

この当時の日本ビクターは、確かビジネス情報誌のひとつ『週間ダイヤモンド』に於いて、
民間企業の申告所得ベスト100位以内に常連する大企業であり、
私は内定する直前、このお方から会社に来るように云われた。

私は大企業の重役の役員室は初めて訪れ、内定の確定ができるかどうかの瀬戸際であり、
緊張したのである。
『情報畑も良いけれど・・経理畑はどうかしら・・』
とこのお方は柔らかな視線で私に言ったた。
『経理関係は・・どうも不得意の分野でして・・』
と私は言った。

このお方にしてみれば、事業本部単位の独算採算制もを経営方針のひとつでにあり、
経理本部は何かと昇進などで有利、と私は学んできたので、あくまでご好意の上、私に言ったのである。

『私は情報分野でも苦手で・・できましたら音楽事業本部に入れて下されば、最も嬉しいことでして・・』
と私は厚かましいことを懇願して、このお方に申し上げたのである。

『君がどのように想像しているか解からないが・・レコード分野は決して華やかな部署ではないょ・・
音楽の管理畑でいいねぇ・・』
とこのお方は私の要望を受け入れて下さった。

この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、ソフト商品の方が波長に合う、
同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと刺激があると思い、
無理難題を申しあげたのである。

このような状況で何とか日本ビクターに中途入社が出来たのは、
1970(昭和45)年4月であり、25歳の時であった。

私は日本橋にある本社に初出社後、音楽事業本部の仮正社員となり、
ともかく現場を学べと指示されて、いきなり横浜工場にある商品部に配属となった。
製造部でレコード、カセット、ステレオ8(エイト)の商品を製造された後、
商品の中央拠点であり、各営業所の商品在庫までコントロールする部署の商品部であった。

この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座であった。
本体のビクターレコードの森進一、青江三奈など、RCAレコードで内山田洋とクールファイブ、藤圭子など、
フィリップスレコードからは森山良子をはじめ、前年に『黒ねこのタンゴ』などが、ヒットを多発していた。

私は入社早々、商品部の音楽テープ課で商品センター働き始めた時、
森進一、青江三奈などの曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と私の音楽に無知にあきれていた。
私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野しか知らず、
殆ど無知であった。

やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
ビクターの販売している歌手の曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。

数ヶ月した頃、フィリップスレコードが親会社のフィリップスの要請により、
レコード会社と独立すると知ったのである。
この当時、数年前にCBSがソニーと折半でCBS/ソニーのレコード会社が設立され、
外資の資本参加のはじまりでもあった。

私はこのフィリップスレコードが独立した日本フォノグラムというレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたした。

こうして新レコード会社で商品管理の現場を学び、
半年過ぎた頃に中途入社の対象の正社員登用の3泊4日の研修を受けた後、
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。

システムの運用、開発に関しては、既にビクターの音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだのである。
このような関係でビクターの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。

こうした中で、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。


まもなくビクターの音楽事業本部もレコード会社として独立し、その後RCAレコードも分離独立したので、
ビクターのレコード会社はCBS/ソニーに首位の座を明け渡した。

こうした中で、それぞれレコード会社として独立したビクター、RCA、フォノグラムは、
日本ビクターからの資本関係の比率は多少は違いがあったとしても、
兄弟会社のような存在となり、共同システムを開発しあったりし、お互いに交流を重ねたりした。

そしてレコード会社の情報責任者が集結した日本レコード協会の情報システム部会などで、
業界としての共通のシステム考案し協議したり、研修旅行なども毎年一回を繰り返し、
各社の情報責任者とも淡き交流を重ねていた。

こうように過ごしている間、貸レコード店が各都市に出店し、
特に街にある中小レコード店が売上が低下し、廃業したりし、
やがて日本レコード協会と貸レコード協会の論争は、ビジネス的に締結したりした。

この当時の私の心情は、入社前の映画・文学青年の真似事をしていた時でも、
欲しい本、レコードは、たとえ食事を抜いてお金をためて、やっと念願の本、レコードを購入できた時、
レコード(LP)の場合は30センチより少し大きめのジャケットを抱きしめるように帰宅した。
そして実家のステレオ装置の前のソファーに座り、真剣に聴いたりしていた。
こうした時に、名曲を聴いたりしていると、確か2000円ぐらいと記憶しているが、
決してレコードは高額な品とは感じなかったのである。


私は入社してから、給料を頂くたびに、もとより自社のレコード・アルバムを購入したり、
他社のレコード・アルバムも盛んに購入したりした。

そして、銀座の山野楽器、ヤマハ銀座店、渋谷の道玄坂にあるヤマハ渋谷店などで買い求め、
特にクラシック、シャンソンなどのジャンルで、探したりしりした時、
担当の店員さんから、いろいろとアドバイスを頂いたりした。

このようにレコードを少なくとも毎月数枚を購入していると、
特にポピューラー、ニューフォーク、そしてロックなどの場合は、魅了されたアーティストに関して、
初期のアルバム作品から収集してしまう。

もとよりアルバムは、アーティストが曲を創作され、
一曲の曲が生まれ、曲の編成順にこだわり、色々な思いも加味され、
音源制作会社、レコード会社のおもわくの上、完成され発売となる。
そのアーティストにとっては、その時代に創作活動の発表となるので、
ある面に於いて、自己存在を掛けたアルバム作品となる。

このような心情が私なりにあるので、
一枚、一枚のアルバムを深い思いで聴いている。
今度のアルバムの中の曲は・・
何故、この曲はA面の2曲目であり、B面の三曲目には・・
とそのアーティストの心を思い馳せながら聴いている。

このような思いで、その後にCDの時代になっても、
私は変わらない思いで、30数年聴いたりしてきたのである。

                           《つづく》

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iPodに始まった”音楽革命”は、果たして私たちに、幸福をもたらしたのか 【上】

2011-10-24 10:17:03 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、いつものように配達された読売新聞の朝刊を読んでいたら、
2ページの【総合】面にあるひとつの記事に、私は注視しながら精読した。

《 iPod革命10年
            音楽160億曲販売  CD激変 》

と見出しされた記事である。

読売新聞の経済部の河野越男、佐俣勝敏、両記者の綴られた優れた記事であり、
数多くの方たちに知って欲しく、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
米アップルの携帯型音楽プレーヤー「iPod(アイポット)」が24日(米国時間23日)、
発表から10周年を迎える。
iPodは、アップル躍進のきっかけとなっただけでなく、
音楽業界の構図を塗り替えた。


スティーブ・ジョブス氏は当時、「音楽を聞く行為を、全く違った体験に変える」と、宣言した。

今年9月時点のiPodシリーズの累計出荷台数は3億台を超え、
ソニーの携帯型音楽プレーヤー(約3000万台)の約10倍に達した。
2003(平成15)年には世界最大の音楽サイト「iTunes(アイチューンズ)」がサービスを始め、
これまで160億曲を販売。
1曲当り1ドル程度と割安で、聞きたい曲だけを購入できる点が受け入れられた。

一方、米国でのCDの販売額は、2006〈平成18〉年の約55億ドル(約4180億円)から
2010〈平成22〉年には約20億ドル(約1520億円)に激変し、
ニューヨークなどの主要都市の大型レコード店がほぼ消滅した。

日本のCD生産数量も1998〈平成10〉年の約4億6000枚をピークに、
2010〈平成22〉年は約2億700万枚まで減った。

アスキー創業者の西和彦・尚美学園大教授は、
「コンテンツ(情報内容)のデジタル化を大きく進めた。
ソニーが大成功したCDを完全にやっつけた」と、iPodの衝撃度を振り返る。


CD販売枚数の急減で、100万枚以上売れた「ミリオンセラー」は、
2001〈平成13〉年の28タイトルから、2010〈平成22〉年は4タイトルに減った。

音楽をネットを通じて楽しむようになり、サイト発の音楽家も生まれている。
動画投稿サイトに投稿した歌声の回覧回数が200万回を超え、
今年7月にデビューした島根県の女子大生・山根万里奈(22歳)は、
「どこからでも世界中の人に歌を聴いてもらえる」と、
iPodに始まった”音楽革命”のメリットを説明する。
・・》
注)記事の原文にあえて改行し、和暦などを加えた。


こうした記事の全文であるが、この後にYMOのサウンドプログラマーを務めた松武秀樹さん(60歳)のコメント、
《プロとアマ 垣根下がる》と見出しで、続いて記事が掲載され、無断ながら転記させて頂く。

《・・
iPod登場をきっかけに音楽配信が普及した。
世界中の人に曲が届けられるようになったことは、ミュージシャンの可能性を広げる出来事だ。
誰でもネットで演奏や曲を投稿できるようになり、プロとアマチュアの垣根も下がった。

曲の流通主体は、一定の収入が見込めるCDから、安価で権利関係の整備が不十分な配信に変わった。
このため、ミュージシャンが音楽を創造し、リスナーから対価を得て、
再び創造にあたるという音楽活動のサイクルが崩れてしまった面もある。

著作権で守られた作詞家や作曲家を除けば、ミュージシャンらの権利保護は不十分なままだ。
放置すれば、プロの音楽家が育たないことにもなりかねない。
(談)
・・》
注)記事の原文にあえて改行した。

以上、長々と記事を転記させて頂いたが、
私は最初に読んだ後は、正鵠な記事を綴られていると思い、微苦笑をした。

そして、再読しながら、このiPodに始まった”音楽革命”は、
私たちの音楽愛好者にとっては、果たして幸福をもたらしたのか、
確かな文化の一面が失ったのではないか、と深く感じながら強く考えさせられた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事を4年ばかりし、明日の見えない世界に彷徨(さまよ)い、
やがて敗退した。
やむなく民間会社に中途入社して、まもなく音楽業界のあるレコード会社で、
管理畑、情報畑などで35年近く勤務し、定年退職をした身である。

もとより音楽の制作に直接携わる部署ではなく、レコード会社の片隅に在ただけであるが、
定年後の今でも文学、そして映画に続いて、それなりに音楽に関しては熱い思いをある。

こうした不十分な資格であることは承知の上であるが、私なりのiPodに始まった”音楽革命”に関し、
この後に、過ぎ去り日々に思いを重ねながら、綴ることとする。

                                  《つづく》

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする