夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

明日の16日より、八ヶ岳の山里に、錦繍(きんしゅう)の情景、そして満天の星空を求めて・・。

2011-10-15 20:41:04 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、たまたま昨年からの国内旅行に関しては、
家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったし、
色々と調べた結果、海外旅行には苦手な私たち夫婦は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知った。

往復路は『おがさわら丸』を利用して、片道だけでも都心から1000キロ南下する25時間半の船旅となり、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』で程ほどに揺れ、
宿泊先の選定は、父島の静寂で景観の良い海辺のリゾートホテル『ホライズン』に宿泊した。
結果的には、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。


その後、若葉の季節に5月24日から9泊10日間で、
JRの秋田新幹線の特急『秋田こまち』、五能線などの『リゾートしらかみ号』、
帰路は東北新幹線などを利用して、
青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3泊、
その後は竜飛岬にある竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3泊、
そして八甲田山連峰のほとりにある『酸ヶ湯』温泉に1泊、
最終として『蔦〈つた〉温泉旅館』に2泊をした。


夏の終りの旅路は、8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北新幹線、そして山田線を利用して、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、岩手県の宮古市の海岸にある清麗な『浄土ヶ浜』を訪れ、
『浄土ヶ浜パークホテル』に3泊した後、
盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉の『長栄館』に2泊した。


12月中旬になると、青森県は雪の舞い降る頃と思い、
東北新幹線、そして五能線などの『リゾートしらかみ号』を利用して、
12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある『蔦(つた)温泉』に再訪し4泊し、
ブナの雪景色の中を散策したり、観光客のいない雪舞い降る奥入瀬渓流に魅了したり、
その後は青森市内の『青森グランドホテル』に1泊し市内を散策、
そして日本海の黄金崎の『不老ふ死温泉』に再訪して3泊して、8泊9日間で訪れてきた。


そして今年の2月13日より、雪舞い降る時に山形県の銀山温泉に行って観たいわ、
と家内は私に言ったりしたので、
山形新幹線の特急『つばさ』などを利用して、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策した。
その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
5泊6日で冬の旅をした。


このように青森県、岩手県、山形県などの東北に改めて魅了された私たち夫婦は、
五月中旬に秋田県の田沢湖を北上した乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策で、
8泊9日間の予定を3月の初旬に立案して、
いつも愛用している旅行代理店に予約をしょう、と決意していた。

この後は、もとより3月11日に東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
旅行の予定も中止し、私たち夫婦は日常生活も変貌したのである。


3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながら、平常心こそが大切である、
と自身に言い聞かせてきた・・。


過ぎし東日本大震災の時、東京郊外の我が家は、
家も揺れ、本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされたり、その後も幾たびか余震があり、
私たち夫婦は困惑したりした・・。

こうした中、、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。

そして我が家として、防災対策として、旅行用のショルダーもできるバックを居間の片隅に置き、
いざ避難所に行く時に、持って行こう、と互いに決めている。

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、板チョコレートを4枚、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

この間、私たち夫婦は、5月中旬の北東北旅行をやむなく中止した分の半額を赤十字に、
そして自治会でわずかな義援金を供出したりした。

或いは、自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
そして、地上波デジタル対応で薄型テレビを新調したり、
バソコン、エアコンなども買い改めたりした。


こうして過ごしている間、旅行会社から幾たびか小雑誌が郵送されて、
ときおり私たち夫婦は、見たりしてきたが、意欲がなく心が定まらなかった。

夏が終わり、落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の紹介記事を見たりすると、
どの地域に魅せられるところは・・と漠然と探したりした。

私の住む地域は調布市の片隅であり、世田谷区と狛江市に隣接した辺鄙なところで、
11月3日の『文化の日』の頃から11月23日の『勤労感謝の日』の頃まで、
数多くの雑木は朱紅色、黄色に染められる錦繍の時節を迎える。

このようにぼんやりと錦繍の情景に思い馳せたりしてきたが、
ある有力な旅行会社の雑誌に、
八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに三連泊する団体滞在型のプランが掲載されていた。


このリゾートホテルは、星空が観やすいところ、と何かの雑誌で私は読んだりしたこともあり、
その上、この地域は10月中旬の頃から、朱色、黄色などに染め始める錦繍の情景が展開するので、
私は家内に、
日中は錦繍の情景、そして夜には満天の星空を眺められる・・
独断と偏見の多い私でも、三日間宿泊すれば、一日ぐらいは煌々と輝く数多くの星が見られる、
と家内を勧誘したのである。

新宿駅に集合し、特急『あずさ』を利用して、小淵沢駅で下車し、
ホテルからの送迎バスに乗車し、ホテルに3連泊する間、それぞれ好きな所を見てきて下さい、
滞在の自由プランである。

明日より、甲斐大泉駅から徒歩15分前後にある『八ヶ岳ロイヤルホテル』の周辺に、
東京の田舎者が、うろつき歩いていたら、もとより私のことである。

このように、夫婦だけの旅行から、久々に団体の滞在型に参加する私たち夫婦は、
3泊4日の旅行をするので、10月16日より19日まで、投稿文は、休止とさせて頂く。

帰宅後、つたないなりに心を揺さぶられたこと、ときめきを感じたことなどを
素直に綴る予定である。


尚、私のこのサイトの右側にあるカテゴリーに於いて、
『旅』として旅の最中に感じたことを発露した紀行文の形式で、
154通ばかりあり、お読み頂き、ご笑話を頂ければ、幸甚である。


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国内旅行の周遊、或いは滞在する旅、ささやかな私の思いは・・。 【下】

2011-10-15 14:10:35 | 旅のあれこれ
前回は観光地めぐりの周遊型の私なりの想いのひとつを投稿したが、
観光ホテルなどで滞在して、周辺を散策したり、観光ホテルで朝の10時過ぎ、
或いは昼下がりの時など自在に露天風呂につかったり、
このような滞在型も魅力があり、
私たち夫婦、或いは私の定年退職後の少し前から独り住まいとなった家内の母を誘って
3人の旅を重ねたりしてきた。

この中のひとつ過ぎし2008年5月18日から5泊6日で、
富山市郊外の里山にある観光ホテルに滞在した時のことがあり、
【 越中・呉羽山温泉滞在記 】と題して投稿しているが、今回はあえて再掲載をする。

【・・
   序章  温泉滞在の選定は

私たち夫婦は、家内の母を誘い、ここ3年に於いて、年に数回温泉滞在旅行をしている。

私は自動車を所有できず、年金生活の身であり、程々の旅費で5泊6日前後の温泉滞在をしている。

こうした場合は、東京の郊外に住む私達は、新聞の旅行の広告、駅前にある旅行会社のパンフレット、
そして旅行会社の月刊誌で旅行の選定をすることが多い。

旅行会社の主催に基づいて、
都心の数箇所に集合して、団体観光バスで、現地の温泉地に直行するプランである。

観光周遊コースと違い、気楽に現地の温泉観光ホテルまでバスに乗っていれば、
連れてってもらえるプランであるので、
家内の母のような高齢者が利用されることが多いのである。

観光ホテル滞在中は、それぞれ個室でゆったりと過ごし、
食事処で全員で、朝夕の食事を頂き、好きな時に温泉につかり、
そして日中のひとときを自在に現地の観光地めぐりが出来るので、
60代、70代のご夫婦がこうしたプランを利用されることが多い。

私達夫婦は齢上のこうしたご夫婦と、
ときおり語り合いながら、人生の知恵をさりげなく享受させて頂き、学んだりしている。


   第1章  桐の薄紫色の花

5月18日(日)
家内と2時半過ぎに起床し、私たちは4時40分に家を出て、タクシーで最寄駅の成城学園前に行き、
始発の電車で新宿に向かい、上野駅に着いたのは5時45分であった。

家内の母が千葉県の八千代市に住んでいるので、待ち合わせ時間を6時10分としていた。

私たち夫婦は家内の母と予定より早めに逢い、
喫茶店でコーヒーを飲んだ後、上野の集合時の7時10分前に行き、指定の観光バスに乗り込んだ・・。

この後、新宿の第2集合場所に向かったのであるが、
都心の御茶ノ水、水道橋、飯田橋の付近は、
日曜日の為には閑散として、新宿の都庁付近に早めに到着したのである。

私たち夫婦は、最寄の集合場所は新宿であるが、
家内の母が高齢者に伴い、わざわざ上野駅まで出向いたのである。
新宿の集合時間であったならば、
自宅を始発バスの6時過ぎで充分に待ちあうのであるが、こればかりは止む得ないと思っている。


新宿のビル街を8時過ぎ出た後は、
関越自動車道で北上し、上信越自動車道の甘楽PAで小休憩した後は、
松林、杉林の常緑樹の中に、落葉樹の萌黄色、緑色、そして深緑色に染められた豊かな景観の中、
ときおり薄紫色の花が観られた・・。

私は車窓から注視しながら見つめていると、
下方に咲いているのが藤(フジ)の花で、空に向かって咲いているのが、
桐(キリ)の花と気付いたりした。

ともに薄紫色していたのであるが、東京の郊外より一ヶ月遅い陽春かしら、
と名残りの春景を心に残ったのである。

黒姫、妙高高原付近にも数多くの桐の花が多く観られ、
やがて日本海の北陸自動車道の名立谷浜PAで昼食としたのであるが、
新宿から4時間足らずで到着したのは、
昭和の終わりの頃のJRで金沢、能登半島を旅した私は、ただ速さに驚きである。

この後、富山ICで高速道路の北陸自動車道を降りて、
富山市内の中心部を抜けたところに小高い里山が観えた。

呉羽山と呼ばれている里山の頂上付近に、
滞在する『呉羽山:富山観光ホテル』が観え、周囲は樹木につつまれていた。

そしてチェック・インした後、
私は大浴場に身をゆだねたのは午後3時であった。


   第2章  富山、そして呉羽の風土と文化

大浴場の湯は、肌がつるつるとなるようで、心地よくご婦人の身であれば、なおのことよろしいかしら、
と余計なことを考えて、広いロビーで浴衣でくつろいでいた。


そして壁面の一面に『富山の地名の由来』、
その左側に『呉羽の地名の由来』と題された解説書が展示され、
私は深く読み耽(ふけ)ったりした・・。


私なりに富山についての書物より思い浮かべれば、
日本の言語の境界線は、糸魚川と古来から云われている。
そして、東西文化の境界線は越中の国の説が多いと思われている。

正月の雑煮は角餅は関東風、味付けや言葉は関西風であり、
色々な生活様式で東西の要素が融合している。

その越中の中心部に呉羽丘陵があり、
東西文化の融合した越中を更に東西に分けているのが呉羽丘陵でもある。

現在では、呉羽丘陵を境とし、富山県を呉東、呉西と分けられている。

奈良時代に於いて、この地域一帯の行政を司っていた越中国府は、
現在の高岡市伏木におかれていた。
その古国府から見ると、現在の富山市は、
呉羽丘陵の外に当たる為、外山郷と呼ばれていた。

その後、天文元年に在地豪族の水越勝重が藤居山に城を築き、
外山城と呼ばれていたが、
この藤居山には、古くから真言宗の富山寺(ふせんでら)があり、
いつしか外山から富山になったと伝えられている・・。

そして呉羽に関して、私なりの解説の綴りを思いだすと、
能には『呉羽(くれは)』という演目があるが、
呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という2人の美女が、
呉の国から渡来し、呉服の里に機織りを伝えたという話である。

『呉服』とは絹を作る人々のことで、日本では『くれはとり』と呼ばれいる。
『はとり』は『はたおり』がつまって出来た言葉で、
『くれはとり』とは、中国から渡来した機織り技術者のことである。

奈良時代になると、それを音読みで『ごふく』と呼ぶようになり、
以来、絹の衣服『きもの』は、『呉服(ごふく)』と呼ばれるようになった。

現在に於いては、呉羽山の西側が『呉羽(くれは)』、東側を『五福(ごふく)』という地名になっている。

尚、古代には、この地域に大和朝廷に仕えた帰化系り機織り技術達が暮らしていた。

このようなことが、滞在したホテルりロビーに明示されて折、
私の記憶が間違いなければ、上記のように掲げられていた。


   第3章 街中を散策すれば

5月19日(月)
昨夕は8時過ぎに寝付いてしまったので、早朝の3時過ぎにロビーで私は煙草を喫っていた・・。

ホテルの夜間担当の方が、朝刊を取り込んで、新聞棚にファイル化していたのには、
驚きながら、ひとつの地方紙を私は取った・・。

『北日本新聞』を読み出したのであるが、『越中文学館』の連載記事で、
たまたま今回は亡き作家の久世光彦(くぜ・ てるひこ)氏を取り上げて折、
私はこのお方の遺言のような、昭和は遠くになりにけり、
と名言を思い出しながら記事を読んだのである。

氏は敗戦時の直前、昭和20年7月に、ご両親の出身地の富山市に疎開され、
富山高校卒業まで、この地で過ごされた様子、
そして空襲を受けた時の鮮烈な思いを綴られているが、
このことは以前で読んでいたが、改めて氏の言葉を再読し、
富山市の空襲時の惨禍を私なりに重ねたりしていた・・。

朝食後、街中で独りで美術館へ出かけるつもりであったが、
遅ればせながら月曜日は休館日が多く、思い立つように岩瀬浜を散策することに決めた。
駅前からライトレールと云われているモダンな市電に乗り、
日本海に接している終点駅の岩瀬浜に下りた。

江戸時代から明治期の頃まで、北前船の往来で繁栄した岩瀬浜であるが、
私は回船問屋などの豪壮の館には興味がなく、浜辺を歩き出し、左は日本海の洋上を眺め、
かっての北前船の往来時に思いを馳(はせ)たりした・・。

そして、右前方の黒松越しに立山連峰の景観を期待し、数キロ浜辺を歩いたが、
やはりこの時節には無理な願いと理解し、私は富山市に戻った。

そして、本屋に寄り、中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)の新刊本を購入した後、
昼食に迷った末、居酒屋風の食事処に入った。

昨夕は観光ホテルで白エビの天ぷらを頂いたので、
刺身を期待し、入店したのであるが、残念ながらなく、
地酒の『立山』を呑みながら、ホタルイカの一夜漬け、ブリの刺身などを想像以上に美味しく頂けた。

そして私は機嫌よく、若手の男性店員に、
『一夜漬け・・やはり東京より、遥かに鮮度が良く・・地酒を呑みながら頂くと、更に味が増しますよ・・』
と絶賛したりした・・。

その後、タクシーで観光ホテルに帰還した後、
大浴場で身体を清め、部屋の布団に浴衣で横たわりながら、
購入した本を数ページ読んでいると、家内達が市内めぐりから戻ってきた。


    第4章 セラピーユ、そして読書

5月20日(火)
小雨が降りしきる早朝を迎えたが、3時過ぎのロビーは静寂で、私は煙草を喫ったりして、
地方紙の『北日本新聞』の朝刊を読みはじめた・・。

そして、『日経』の朝刊も読み終えると、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を開いたりした。

旅先で自由きままに過ごしているし、
もともと少し甘い自身の性格に更に心身弛緩してしまうので、
多少の緊張感を持たせるのに最適な本かしら、と思いながら読んだりしているのである。

6時過ぎに部屋に戻ると、
『昼過ぎまで・・雨らしいので・・今日は私達は館内でゆっくり過ごしますので・・
セラピーユに一緒に行きませんか・・』
と家内から私は誘われた。

この観光ホテルに於いては、セラピーユと称された岩盤浴が、ひとつの施設の特徴と聞いていたのである。

観光ホテルの案内書に寄れば、

《 トルマリン鉱石を利用した
      新しいリラクゼーション「セラピーユ」 》
と明示されて、
下記のように解説されている。

《・・
マイナスイオンを発生させるトルマリン鉱石、
免疫力の向上や細胞活性の効果のあるラジウム鉱石、
発汗作用や老化防止効果のある遠赤外線など、
自然界がもたらす癒しのパワーを利用した
お湯のないリラクゼーション「セラピーユ」をご体験ください
・・》


私は初めて体験するものであるが、家内達が10時30分より予約したと聴き、
私も同行することとした。

予約を済ませ、指定されたワンピースのような浴衣を受け取り、大浴場で身体を清め、温めた後、
下着も付けないようにと指定された浴衣を着て、セラピーユの館内の待合室で待機していた。

家内の母は、華やかに色合いした指定の浴衣となり、
『おかあさんさぁ・・このような格好になったのは・・人間ドック以来だょ・・』
と私は家内の母に軽口を云ったりしたのである。

岩盤浴の中は、畳一帖ぐらいに鉱石がゆったりと仕切られたのが、20前後の升目丈になって折、
私はその中のひとつに毛布を敷いて、枕を置き、横たわった。

まもなく、薄暗くなり、音楽が流れ、天上の満天の星空のような景観となったのである。

30分過ぎた頃、館内は明るくなり、私はゆっくりと起き上がった・・。
前方のご婦人が起き上がった時、ワンピースのような浴衣から白いパンティが見えて、
私は少しドキりとした。

出入り口の冷水を一杯飲んでいた時、
先程のご婦人が見えて、私と同様に冷水を飲んでいた。
60歳を少し過ぎたと思われるが、若々しい清楚な顔立ちの小柄なご婦人であったが、
私の方が何かしら照れてしまった。

この後、家内達に声をかけて、私は大浴場で泡風呂に入ったりして、
先程の見知らぬご婦人を思い出したりしていた。


部屋に戻り、窓辺が雨が降りしきる緑に染まった雑木林を眺めたりし、
家内達と他愛ない話をしたりしていた。

この後、私は布団に横たわり、本を読みながら、昼寝をした。

目覚めたのは、一時過ぎで、陽差しが燦燦と里山一帯を照らしていた。

夕食の後、遠方に住宅街の灯が銀河のように観え、その後方は市のビルの灯が観え、


♪街の灯(あか)りが とてもきれいね
 ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

【『ブルーライト・ヨコハマ』 作詞・橋本 淳 】

と私は口ずさんだりしていた。


第5章  民俗民芸村を散策すれば

5月21日(水)
私はいつものように独りで、ホテルを8時半過ぎに出で、里山の市道を少し登り、展望地に着いた。
市内の街並み、遠くに立山連峰が観える所であるが、本日もかすんでいるだけであった。

地元のご夫婦と立ち話をして、冬晴れるの時節であったならば、
一望でき、カメラ愛好家はもとより、テレビの報道の方たちも撮影で見られる場所と、
教えてくれた。

今の時節は、夕暮れのひととき、週に1度ぐらいは、
山並みが綺麗に観える時もあり、それなり美景である、と言葉を重ね、教示された。

この後、私は遊歩道を下り、
『民俗民芸村』で各所を観て廻り予定であったが、
拝観時の9時前であり、それぞれ竹の立ち箒(ほうき)で、掃きながら清められていた。

私は外れにある長慶寺に隣接した五百羅漢に行き、
右側に長慶寺、そして墓地、左側は里山を切り開かれた斜面にそれぞれの表情、しぐさの五百羅漢が観えた・・。

杉木立と竹林の中で、木漏れ陽を受けたそれぞれの表情をたたえた石像を眺めると、
現世の生臭さを忘れさせて下さるひとときある。

私はうっとりと眺めていると、斜面の小道を歩かれている老女に逢い、思わず黙礼をした。
そのお方は、私に近づいてきたので、
『お元気そうで・・何よりです・・』
と私は右手に杖をたずした老女に言った。

このお方は付近に住まわれる方であり、毎日周辺を散策され、
私の亡き母と同じの大正9年生まれと知ると、
私は心身ご健在でおだやかな表情をたたえた老女を絶賛した。

この後、歩道の素朴にベンチで煙草を喫っていると、
私より少し齢上の女性から声を掛けられて、昨今の世間話をした。

五百羅漢を眺めながら、昨今の社会の節度のない状況を話したり、
そのお方が日本海の海沿いの小川温泉で過ごされ、
幼少時の頃の食べ物、乗り物などの話を互いに話し合ったりした。


私は偶然にお2人の年配の女性と話し合えたが、
こうしたことはその地の風土、文化、日々の暮らしを知る上、言葉を交わし、重ねていると、
まぎれもなく最良の教えを受けると私は確信し続けている・・。

この後は、茶室の円山庵に寄り、抹茶と和菓子を頂きながら、応対して下さった30代の女性に、
具体的に露地の形態と樹木を誉めたりすると、
お互いに心がほぐれ、少し笑いあったりした・・。

そして帰り際には、
さりげなく活けられていた鉄線、菖蒲の花を誉めたりした。

そして、この後は『陶芸館』、『考古資料館』、『民芸館』、『民芸合掌館』、
『売薬資料館』を拝観し、
数多く教示させられたりし、遊歩道の登り道を20分ばかり歩き、
滞在している観光ホテルに帰還した。


第6章  館内にゆったりと

5月22日(木)
今回の滞在で、私は殆ど夜の8時には寝付き、早朝の3時にはロビーで、ペットボトルの煎茶を飲みながら、
煙草を喫ったりしている。

そして、『北日本新聞』、『日経』などの朝刊を読んだりし、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を昨日読み終わり、
持参してきた川本三郎・著の『向田邦子と昭和の東京』(新潮新書)を読みはじめている・・。

ときには、館内に置かれている雑誌を見たりしている。
隔月誌『こころの色』(民活開発)は初めて見る雑誌であったが、
特集として《歴史と文化に出会う、温泉旅》に惹かれ、読んだりした・・。

この中で、亡き作家の開高健(かいこう・けん)氏が残された旅の極意として語った言葉として、
『 少年の心で、大人の財布で歩きなさい 』
の名言が引用されて、私なりに深く読んだりした。

或いは、連載の『わたしの健康法』で、今回は私の好感している浜美枝(はま・みえ)さんが掲載されて、
改めて浜美枝さんの確かな発言に魅せられている。

ある時は、この観光ホテルのパンフレットを見たりし、
『風流絵巻』と題され、四季折々の状景、館内の優美な案内を見たりしている。

この中で詩歌になぞられて、

立山に 向かいし肩に 桜落ち

踏み入れば 真綿の心 寄り添いし

世をはなれ 心の糸を ゆるりゆるり

暖かき 絹糸の水に 肌染めぬ

我が身いま 花渡りゆく 蝶の舞

等の読みながら、その時節に思いを馳せたり、私なりに微苦笑しながら、読んだりしている。


朝夕の食事時以外は、すべて自在な時を過ごし、
風呂に入ったり、地酒、ビールを呑んだり、読書に疲れれば、昼寝をしたりしている。



最終章  旅の終りは、おむすびとなり

5月23日(金)
温泉滞在旅行も最終日となり、観光ホテル3時に出発のバスの時間まで、
市内めぐりをしょう、と私は家内と話し合い、
私達3人はタクシーで城址公園に向かった。

城址公園は、工事中が多いが、
この中の『佐藤記念美術館』に入館し、『インドネシア更紗のすべて』の特別展示があり、
私なりに更紗の布地を鑑賞したりした。

常設の茶室などは、三畳半の台目には注視したが、あとは私が感心するほど興味がなく、
出入り口に行った時、ひとつの展示予告ポスターに魅せられた・・。

画家のコローによる『真珠の女』(部分)であり、何かしら訴えるようなまなざしの表情は、
絵心には全く解からない私さえ、瞬時に感覚として詩情ある情念に圧倒的に魅了させられたのである。

何かしら今年の6月の中旬より、国立西洋美術館で展示される予告としてのポスターであった。


その後、『郷土博物館』で、富山城を中核とした戦国時代からの興亡を展示されていたが、
一時間ばかり観た後、駅前の喫茶店行き休息した。

その後、駅ビル内で、私は創意工夫された『おむすび』を
家内たちは、菓子パンを多めに購入し、昼食兼夕食用として、タクシーで観光ホテルに帰還した。


観光ホテルを午後3時前に出発し、田植えの終った田んぼの美景を眺めたり、
桐の薄紫色の花に見惚れたりし、新宿に着いたのは夜の8時半であった。

・・】


このように投稿していたのであるが、この旅の余情として、
私は一週間後に【 吉岡聖恵の唄声に魅了され・・。 】と題して投稿している。

【・・
過日、富山市に温泉滞在旅行に向うで途中で、
昼食兼休憩として『名立谷浜SA』に観光バスから私は下り立った・・。

外れの煙草の喫える喫煙場に向う折、

♪心の真ん中が痛い
 あなたを思うたびに

【『抱きしめてあげる』作詞・山田ひろし 】

私はこうしたサービス・エリアでも、徳永英明さんの最新の唄が流れていたことに微笑していた。

この後、

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
 大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから

【『帰りたくなったよ』 作詞・水野良樹 】

あたかも青空に向かい、素直で伸びのある歌声に、私は瞬時に心を奪われた・・。

私は初めて聴く曲で、唄われた歌手、そして曲名が、旅の間は気になっていたのである。

(略)

夜のひととき、私はパソコンでこの曲を検索したのである。

ヤフーの動画で、オリコンのベスト20を見て、初めて知ったのである。

水野良樹と山下穂尊、そして同級生の妹・吉岡聖恵によるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、曲名は『帰りたくなったよ』という曲名であった。

私はこの後、無料動画でこの曲を探し、2時間ばかり聴き惚れたのである・・。

私は齢を重ねた63歳の年金小父さんの身であるが、
これほど音楽に夢中になれたのは、
一昨年の秋、綾香ちゃんの『三日月』以来かしら、と微苦笑している。


私は過日の温泉滞在旅行で、思いがけないふたつのプレゼントを頂いた。

ひとつはこの『帰りたくなったよ』の歌であり、
もうひとつは美術館の出入り口に掲載されたコローによる『真珠の女』(部分)ポスターの一枚である。
・・】

このようなささやかな旅でも、それなりに深い想いが私の心に、
今でも鮮明に残っているのである。


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国内旅行の周遊、或いは滞在する旅、ささやかな私の思いは・・。 【上】

2011-10-15 10:51:44 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内と共通趣味のひとつには国内旅行であるが、子供に恵まれなかったこともあり、
新婚時代から国内の各地に四季折々訪れている。

私の現役時代は民間のサラリーマンであり、数多くの人と同様に多忙な身であった上、
住宅ローンなどの返済もあり、世に言われるセレブのような高級な旅には程遠かったが、
それなりに短かな旅をきた。

2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、直ちに念願通りに年金生活となったので、
現役時代と違い、少しは長い7泊8日前後の旅、
或いは海上の遥か彼方の小笠原に訪れた時は12泊13日をしたりしてきた。

私たち夫婦は海外旅行は、何かと苦手な身であるので、夫婦としての旅路は国内旅行ばかり重ねてきた。
そして点在した観光地を周遊するコース、
或いは観光地のホテル、旅館などで滞在し周辺を観るコースに大別される。

いずれにしても、私は定年後は自動車の普通免許書を放棄した身なので、
個人旅行、団体旅行に関わらず交通機関は電車、バス、飛行機、フェリーなどに頼って旅行を重ねてきた。

今回、個人旅行に関しては、このブログのカテゴリー【旅】にすべて掲載しているので、
団体旅行に於いて、周遊型、滞在型良好

こうした中でひとつの周遊するコースをあえて明示すれば、
定年退職後の一年を迎える頃の2005年10月19日から23日までの4泊5日で、
確か4回目ぐらいの北海道に訪れたことがあるので、
このサイトに【 錦繍の北海道周遊記 】と題して投稿していたが、この周遊を再掲載をする。

【・・
   序章  明日より、北海道へ

以前、『北海道へは、船で・・。』で綴ったことはあるが、
明日より4泊5日の団体観光ツアーに出かける。

東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、この港から小樽港に向かい1泊し、
翌日の早朝に小樽港に着くフェリー船に乗船する。

このコースは私共夫婦のひとつの夢である事は、『北海道へは、船で・・。』で綴っている。

小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。

夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。

私共は北海道には、心身の波長が合うので幾たびか訪ずれているが、
晩秋の道内は道東は訪れたことがあるが、このコースは初めてである。

紅葉の終わりかけたこの季節、どのようにに私たち夫婦の心に沁みる光景が、
のちの想いになるかは、解らない・・。

いずれにしても今回の旅行は、
私の定年退職記念旅行は、家内の父が私の退職時の直前に死去されたので、
慌ただしい日々となり幻となったので、敗者復活戦のひとつの旅でもある。


   第一章  旅の始まりは、月の光

新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。

私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、想像したよりテラスが広めであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。

そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中の日本海の雲の間に晴れ間が広がっているのを眺めながら、ゆっくりとビールを呑む。
朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、
早朝に家を出たので、やがて私は眠くなり、ベットにもぐり昼寝をする。

その後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会う。
フェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、楽しげに話し合っているのに好感を持つ。

ディナーの際、小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら食事をする。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
齢を重ねるたびに、食べ物にこだわりを持つのは、多くの人が経験するのだろう、と思っている。

部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、
あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。

その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。


   第二章  やがて錦繍の世界に ①

早朝の四時になると、小樽港の街の灯りが煌々と観えて来た。

フェリーは予定通り4時10分に接岸した。
港内はコンテナのトラックが100台前後あり、日本海の海上航路の要所であることを現していた。

私共の団体観光ツアーは、5時15分に下船し、バスで祝津にある食堂に向かう。

空は白く明け方の情景の中で、地元民も通う町外れの食堂で、
鰊(にしん)を私共の人数分を焼いてくれ、暖かなご飯と味噌汁で頂く。
素朴さであるが、これは最も贅沢な朝食である・・。

バスは高速道路を北上し、岩見沢を過ぎ、三笠のインターチェンジで降りると、
やがて里山はナナカマドとカエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色に染められて、
錦繍(きんしゅう)の世界となった。

私は家を出るときは、旅の最後の行程で定山峡周辺で錦繍の情景を秘かに期待していたが、
目の前で秋の色合いが展開されたのには、少し驚き錦繍の光景に瞠(みは)った・・。

バスガイドさんの話に寄ると、
道内の紅葉は例年より2週間遅れで今は最盛期、と伝えてきた。


   第三章  やがて錦繍の世界に ②

その後の芦別の三段の滝、富良野の新プリンスホテルのニングルの森も、
秋たけなわの錦繍の光景であった。

ニングルの森は、ゆるい傾斜の雑木林の中にあり、
開園前の時間であったので、即売店は閉っていた。

私の理想としては、このような環境の中で住むのに近く、
見渡す限り雑木林の中で、平屋建ての一軒屋に住み、
近くにはホテルがあり、ときたま食事が出来るところであった。

齢を重ねた今、私は自分の実力の拙(つたな)さを嘆いて、
煙草を喫いながら、夢の世界に近いニングルの森を見詰めた・・。

その後、美瑛を通り、旭岳の裾野にある『旭岳万世閣ホテルベアモンテ 』に宿泊する。
部屋の窓辺からは、夕陽が山なみの沈むところであった。
空は水色で、陽の周辺は朱色、そして黄色を取り混ぜて、そして山なみに消えていった・・。


   第四章  やがて錦繍の世界に ③

旭岳の裾野は、落葉樹は葉を落とし終わっていた。
エゾマツ、トドマツの濃い緑が、周辺を彩(いろど)っていた。

朝陽の差し込んでいるレストランで朝食をした後、
ロープウェイに乗り、旭岳が展望できる高原登山道を散策する。

小さな池は凍り付いて折、道端は霜が陽に当たって溶け出していた・・。
旭岳から下方の旭岳温泉や
遙か彼方の遠方の山なみまで視界の開けた雄大なスロープであった。

その後、旭岳を下った所にある天人峡に行き、羽衣の滝を観に行く。
バスから下車し、遊歩道を散策したが、朱色、黄色に彩られた錦繍の中を歩きながら、
午前の柔らかな陽射しの中、ときおり黄色の葉が上空から舞い降りてくる。

こうした光景を観ると、まぎれなく秋を受容した思いが、心に沁みてくる。
多分、今後このようなことは、幻想しか実感できないだろう、と思い返したりした。

その後、札幌のはずれにある定山渓に行き、『定山渓万世閣ホテルミリオーネ』に宿泊する。


   第五章  雨の中の錦繍

定山渓温泉は、渓谷沿いに数多くのホテルが建っている温泉町であった。

窓辺で観ていると、渓谷の対岸を川べりから空に向かって、樹木が色付いているようだった。
ナナカマド、カエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色、
そしてエゾマツ、トドマツの濃い緑色の配色は、秋の盛りであった。

朝食後、雨の中を豊平峡を散策する。
電気バスに乗り、ダムを囲むかのように錦繍の世界が拡がっていた・・。

雨の中、濡れた朱色、黄色も良い光景である。
朝の川霧が立ち昇り、雨が舞うようにしっとりと降っている。

雨の中、傘を差して立ち竦んでいても、飽きない光景であった・・。


   第六章  そして小樽に

雨の中を豊平峡を後にし、
バスは札幌をめざして走路したが、周囲は錦繍に染まっていた。

札幌から小樽に抜けると、雨が止み、観光客であふれた街が小樽であった。


3年前の冬、オホーツク海の流氷を観る為に、
網走の二ツ岩のホテルで2泊して流氷を待ち焦がれたが、
1週間前に接岸したが、沖に去っていた・・。

この間、斜里までノロッコ号に乗ったが、海上は快晴の中、見渡す限り蒼い海原で、
止む得ず路線バスで知床半島のウトロまで行った。

ウトロに近づいた峠を越えると、海の彼方まで流氷の情景であった。

その後、ウトロの海辺あたりを数時間散策した。

網走駅から特急『オホーツク号』で9時30分発で後にした後、
冬の道北、道央を抜けて、札幌駅着14時46分に乗車した。
これは私の長年の夢のひとつであった。

札幌駅から小樽駅に着き、ホテルにチェック・インした後、
雪の中を運河沿いのガス灯のある遊歩道を夕暮れ時に歩いた。

夜になると、居酒屋に行き、地酒を呑みながら、地魚をふんだんに食べたりした。


こうした想いが私共にあったので、
晩秋の小樽は味気なく、運河沿いの地ビールを呑ませる料理店に入る。

ここの店は、ラムの骨付き肉を食べさせてくれる所で、
塩味と大根おろしの付いた甘いたれの2種類を注文する。
地ビールを呑みながら、かぶりつくのは満足させてくれるひとつである。

集合場所に戻る時、小樽ワインの店があった。
試飲させてくれた時、
『辛口で・・深みのある・・』
と私が言った。

店員さんは、店頭の試飲用の十種類から選定し、私に呑ませてくれた。

結果として、この銘柄を1本買い求め、夜の駅弁を食べる時の友とした。


  第七章  旅の終りは、寝台特急で

旅の終りは、『北斗星号』であった。
札幌駅を17時12分に発車し、上野駅に翌日の9時41分着である。

お弁当と煎茶のペットボトルを買い求め、B寝台の個室は想像したより狭かった。

家内と旅行バックと手荷物を置く位置を決め、私は浴衣に着替えた。

小樽ワインを呑みながら、お弁当を開く。

今回の旅は、日中は原則としてサッポロ・クラシックのビールで、
夜はホテルのハウス・ワインか富良野、小樽ワインのボトルを数回ばかり呑んだ。
私は旅先では、その地のアルコールを呑むことにしている。
その地の文化を知ることは、お酒もひとつの手がかりとなるからである。

疲れを覚えたのでベットに横たわり、直ぐに寝付く。
深夜の1時過ぎに目覚め、煎茶を少し呑んだ後、地酒を呑む。
その後、眠りについて朝の5時過ぎに目覚め、ぼんやりと車窓から外の景色を眺めた・・。

東北地方を旅する時、殆んど新幹線を利用していることに気付いた。
今回の旅の最後は、在来線で上野駅に向かっているが、
在来線はその地をゆっくりと通っているので、その地の風土を教示してくれる・・。
その点、新幹線は単なる通過の役割しかないことに、改めて気付いた。

上野駅より私の住む小田急線の最寄駅の成城学園前に着いた時、
懐かしさを覚え、安心したせいか旅の疲れが出た。

家の門扉を開け、玄関庭を見ると、花梨の大きな実が3つほど落ちていた。
・・】

このように投稿していたが、この当時の私の投稿文は、
乾いた短絡的な文体で余情もない、と私は苦笑している。

団体観光周遊コースの旅行は見たい観光地を
個人旅行と違い、時刻表も気にすることなく気楽に周遊させ、
観光バスなどが待機して下さり移動時間の遊びもなく、
その上に旅費も驚くほど廉(やす)いので、ときおり私たち夫婦は利用したりしている。

                            《つづく》

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