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忘れられない“あの日”がたくさんあるほど人は豊かになる・・・駒木根淑子さん

2014-05-23 21:22:18 | 月刊『平和がいちばん』
 
 楠葉生涯学習センターの「5月祭」の展示の様子

 「平和がいちばん」5月号   2面「わわわのわ」から
 反原発・護憲の小旗を振り続ける駒木根淑子さん

 2011年3月11日の大震災と福島第1原発の事故の後、駒木根さんはいわき市勿来(なこそ)に住む友人が気になり、電話をした。その友人は、危険になればそちらに行くとのことだった。15日の水素爆発直後に避難を決めた友人から「今、京都に向かっている」と、新幹線から連絡があった。雪の降る中、大急ぎで京都駅に駆けつけた彼女に、リックサックに手荷物という友人が「難民の気分よ」と言ったのを忘れられない。友人は、東京に脱出するまでの大変さを話してくれた。まず、タクシーを見つけるのが大変で、水戸の友人に頼み手配してもらったこと。東京まで5万円。新幹線に乗るや眠り込んでしまったことなど。

 友人は、その後、駒木根さんの近所のワンルームマンションに居を移し、「しばらくは別荘住まい・・・」と明るく振舞いながらも、仕事である俳句誌第100号を、最終号になるかもしれないとの思いで取り組んでいた。そんな友人を吉野や京都の花見に連れ出した。今、友人は、比較的放射能の空間線量は低いと言いながら勿来で暮らしている。時々関西で保養したいとのことだが、実現していないのが気になっているという。「福島といえば果物のほか豊かな農産物や海産物に恵まれた土地。そんな故郷と人間の普通の生活が奪われることを目の当たりにした。これが、私が反原発の行動をよちよちと続けることにした直接のきっかけになった」と彼女は語っている。駒木根さんが25年にも及ぶ祖母、母、父の介護生活を終えた7ヶ月後のことだった。

 彼女は京都で学生時代を過ごした。「70年安保」の世代。半年ばかり学園封鎖が続き、学外でゼミが行なわれる始末だった。時々デモに参加した。そんな時、京都YWCA(キリスト教女子青年会)で外国人との交流の機会があり、英文科だった彼女は、YWCAに馴染んでいった。YWCAはキリスト教を基盤とし、“核否定”の思想があり、「安保反対」の会員もいた。彼女は卒業後職員になったが、5年ほどで退職した。「どこか生ぬるく、そこに居心地の良さを感じていた自分がいやになったのかもしれない」と振り返っている。

 その頃、ある人物との出会いがあった。ベトナム戦争の報道写真家・ジャーナリストの岡村昭彦さん。その仕事は、被差別や三池闘争にはじまり、ベトナム以降、生命倫理、ホスピス、精神病棟の開放と幅広い。彼女は、岡村さんが亡くなる前10年間、京都で続けていた勉強会(ゼミ)に参加した。その頃岡村さんは、長野県安曇野の精神病棟の開放運動にも取り組み、彼女もボランティアとして参加。そこでの人との出会いが、その後の支えになった。その過程で「弱い立場の人に寄り添うこと」を学ぶ。一方、岡村さんが海外から持ち帰る豊富な資料の翻訳に「ワクワクしながら取り組ませてもらった」と言う。

 その後、自宅で英語を教えたり、翻訳をしながらの介護が中心の長い、長い生活に入った。「身近な人の介護をやりきり、今は気持ちが軽い。後悔することはない」と語る彼女。学んだことを個人の生活で納得して実践したことが分かる。

 彼女は、古文書学習に熱心だ。日本人が江戸から明治への時代をどのようにのり越えたか、そこから今の日本に至る過程を冷徹な目で理解することが大切。これも岡村ゼミで学んだこと。古文書は江戸時代を身近に引き寄せるひとつの“ツール”であるらしい。封建社会の中で庶民がどんなに知恵を発輝して生きてきたかを知るとき、そんな本や資料に出会うとき、とても楽しいと言う。「死ぬまで勉強したい」という彼女は、反原発や平和への思いを強めながら、「おかしいことは、おかしい」という暮らしを貫いている。」 
                  取材・文 おおた幸世


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