真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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選択的夫婦別姓と婚外子差別の撤廃と人権

2021年04月02日 | 国際・政治

 スイス・ジュネーブに本拠を置く非営利財団、世界経済フォーラム(WEF)が、国別に男女格差を数値化した「ジェンダーギャップ指数2021」を発表し、日本は調査対象となった世界156カ国の120位という順位だったことが、先日報道されました。特に、政治参画における男女差が順位に影響したといわれています。
 私は、それは当然の結果だろうと思います。安倍・菅政権の中枢には、選択的夫婦別姓に反対し、婚外子(非嫡出子)の差別撤廃に反対し、ジェンダー・フリー教育に反対し、同性婚容認に反対する人たちが結集しているからです。
 また、そうした政治家を支える学者や研究者の存在も見逃せません。すでに取り上げた「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)の著者、長谷川三千子教授がその一人です。長谷川教授は女性でありながら「正義の喪失 反時代的考察」(PHP)に「愚かなり、男女機会均等法」などと題した文章を書いています。
 また、「国民の思想」新しい歴史教科書をつくる会編(産経新聞社)の著者、八木秀次教授もその一人だと思います。今回は、その記述から、私が受け入れ難い部分を、いくつか挙げたいと思います。
ーーー
 「第二章 今こそ伝統的家族の強化を」”5 家族解体を狙う夫婦別姓と非嫡出子「差別」の撤廃”の「日本は伝統的に夫婦同姓」と題された文章のなかに、ちょっとひっかかる下記のような文章があります。

同じ儒教国の韓国や中国は夫婦別姓であるが、それは男女平等、個人主義でそうなったのではなく、儒教の男尊女卑の思想から来たものである。つまり夫婦別姓だから男女平等が進むわけでも、それが世界的な潮流でもない。むしろ、世界的には家族の価値の再認識が主流である。
 
 この”むしろ、世界的には家族の価値の再認識が主流である”は、いったいどういう意味で、何を根拠としているのでしょうか。日本の「ジェンダーギャップ指数2021」が120位であることを考えれば、それは、「日本の伝統的家族の強化」とは、逆の流れなのではないでしょうか。

 次に「イデオロギーからの夫婦別姓論」には
 ”姓を変えることで生活上の不都合が生じる問題は、通称使用を広く認めることで片付くのだが、それで納得しない一部の人たちがいる。彼らはイデオロギー的な理由から夫婦別姓を主張しており、戦前の家制度どころか、戦後の核家族でさえも解体してしまおうという考えである。個人主義を極めると家族共同体は壊れていく。
 ところで、昔から家族の解体を主張しているのが共産主義者である。共産主義イデオロギーの柱の一つは国家の死滅だが、もう一つは家族の死滅である。マルクスやエンゲルスは家族の死滅を主張したが、それは彼らの頭の中だけで終った。しかし、レーニンはそれをロシア革命直後に実践した。個人主義は家族の解体という点では共産主義と親和性を持つ。夫婦別姓は表向きは個人主義の顔をしているが、実態は家族の死滅を志向する共産主義のイデオロギーに基づいている。
 夫婦別姓が共産主義の文脈で主張されれば、保守派は敏感に反応するだろう。しかし、個人の人権や自由の文脈で巧みな主張がなされると、それに乗ってしまう人が多い。従来の保守は、家族を解体させるような問題には敏感だったはずだが、現在ではそれが見えなくなっている。
 従来から確信犯的に夫婦別姓を主張している者たちは、保守派をうまく取り込もうとして戦略をたてている。例えば、自民党のある大物代議士は娘しかいないため、結婚によて自分の家の名前が途絶えてしまうのを心配して別姓に賛成している。家族を大事にし、家を継承していこうという発想と、家族の死滅をし好する共産主義に基づいた発想とが、呉越同舟になっているのである。それが今の夫婦別姓論議をわかにくくしている。”
 家名存続派といわれている人たちが、娘しかいないので別姓に賛成するというのはあまりにも短絡的だ。たとえ夫婦別姓になって娘の段階で家名は存続できても、その次の代はどうなるかわからない。本気で家名の存続を考えるならば、従来からある養子制度を活用すればいい。最近は養子が減っているが、戦前はもっと一般的で、柳田国男のように兄弟全員姓が違うという例も珍しくなかった。首相になった岸信介と佐藤栄作氏も実の兄弟である。 

 まず、” 姓を変えることで生活上の不都合が生じる問題は、通称使用を広く認めることで片付くのだが…”とありますが、現実には、通称使用では片付かない不都合がいろいろ報告されています。それほど問題は簡単ではないのです。
 また、”彼らはイデオロギー的な理由から夫婦別姓を主張しており、戦前の家制度どころか、戦後の核家族でさえも解体してしまおうという考えである。”というのも、事実に反するのではないかと思います。多くの人たちの夫婦別姓の主張には、その人なりの現実的な理由があり、また、家族の解体など考えてもいないと思います。

 さらに、こういう文章を読むと、私は、確認しないわけにはいきません。
 マルクスやエンゲルスは、資本の運動諸法則(資本の論理)が、どのようにして労働者を窮乏化させ(格差を拡大させ)、人間を疎外していくのかを、論理的に明らかにしたのです。そして、それを乗り越えるために、”万国のプロレタリアートよ、団結せよ! ”と呼びかけたのです。国家や家族の死滅などを目的として、そんな呼びかけをしたのではないのです。何を根拠に、”共産主義イデオロギーの柱の一つは国家の死滅だが、もう一つは家の死滅である”と、人を脅かすようなことをいうのでしょうか。
 もし、八木教授が、マルクスやエンゲルスが、国家や家族の死滅を主張したというのであれば、どこに、どのように書かれているのか、その文章を示してほしいと思います。
 もちろん、プロレタリアートの団結によって、資本主義生産体制が克服された後、人民が政治的意思決定や共同体の運営に直接参画できるようになれば、家族における夫婦の主従関係や、従来的な階級国家が廃止されることについて、マルクスやエンゲルスの著作のどこかに、何らかの記述があるかもしれません。でも、それは革命後の将来的希望であって、マルクス、エンゲルスは、何よりも資本主義生産体制に基づく労働者階級の窮乏化(格差の拡大)や人間疎外からの解放の必要性を説いたのだと思います。
 まして、夫婦別姓の問題などは、マルクスやエンゲルスとは無関係だと思います。何でもかんでも、マルクスやエンゲルスと結びつけたり、夫婦別姓論者を共産主義者呼ばわりするのは、いかがなものかと思うのです。八木教授は多くの若者に影響を与える大学教授です。私は、批判するのであれば、きちんとマルクス、エンゲルスの理論を踏まえ、批判対象の文章の引用元や根拠を示した文章を書いてほしいと思います。アジテーターのような文章ではなく、若者がそれらを確認して、自らの考えを持てるように、丁寧で学術的な文章を書いてほしいと思うのです。

 「夫婦別姓の最大の被害者は子ども」には、下記のような記述があります。 
もっといえば、別姓論者は夫婦をつなぎとめている名前の機能に気付いていると思う。それゆえ、これを別々にすることによって、家族を解体の方向にもっていこうという戦略であろう。そして、彼らの主張が究極的に行き着くところは個体主義、アトミズムの世界である。属する共同体を持たない個体になってしまえば、それを上から統制すればいい。つまり、究極の全体主義が可能になる。
 夫婦別姓は過去、女性の社会進出と結び付けて論じられてきた。この女性の社会進出という主張もイデオロギー的にいえば、女性は経済力を持つことによって真に解放されるというマルクス主義の発想に基づいている。女性の目を、家族よりも外に向けさせ、家庭内の男女の力関係を逆転させるという考えである。

 こうした記述も見過ごすことができません。夫婦別姓論者は、家族を解体させようとしているのでしょうか。全体主義の社会をつろうとする人たちの協力者なのでしょうか。私は、八木教授は、労働者の団結を恐れる資本家階級や資本家階級と一体となった政治的指導者の妄想にも似た思いを代弁されているように思います。極論すれば、共産主義者を、恐ろしい危険思想の持ち主とした戦前の治安維持法の背景にある感覚と同じようなところがあるように思います。
 また、”女性は経済力を持つことによって真に解放される”などというのは、マルクス主義の考え方ではあり得ません。人間は、資本の運動諸法則(資本の論理)から解放されないかぎり、解放されることはないのです。
 
家族こそ保守主義の柱」には、下記のようにあります。
今の日本に必要なのは、家族を国の基本単位としていこうという発想である。日本の保守主義は、家族の価値をその中心に据えるべきである。しかし、日本には保守の人はいても、イデオロギーとしての保守主義を理解している人は少ない。家族こそは世代を超えて文化を伝承していく場所であり、次世代の国民を育てる場所である。家族の機能がおかしくなると、犯罪が増え、社会秩序も乱れる。
 福祉の場面でも、家族が健全に機能すればこそ幼児時から老人に至るまで保護され、社会的な負担は小さくてすむ。福祉は第一義的に家族が担うもので、社会福祉はその代替措置としてとらえるべきである。高齢化社会の問題でも、在宅介護を基本に据えるには、家族の役割が重要である。そのように、家族の機能をしっかりと認識しているのが欧米の保守主義である。
 しかし、日本にはそういう考えの保守派が少ない。家族のことはあえて口にするまでもないという文化があったからだろうが、現実はそうもいっていられない状況にある。家族と地域は保守派の守るべき最高の価値である。この視点に立って日本の保守主義を再構築する必要に迫られている。”

 この主張には、東京五輪・パラリンピック組織委員会前森会長と同じような、女性蔑視の感覚が背景にあると思います。
 現在は、結婚したら新たに戸籍がつくられます。昔のように女性が名前を変えて、男性の「家」に入り、男性の家族の一員となって、男性側の戸籍に入るのではないのです(でも、現在もなお、女性の芸能人や有名人が、自らの結婚の報告として、”入籍しました” などと言っているのを聞きますが、それはほとんどの場合、正しい表現ではないと思います。「入籍」という昔の感覚が、いまも残っているということだろうと思います)。
 女性が名前を変え、男性側の戸籍に入り、家事労働の一切を女性がやっていた昔は、女性にとって結婚が生きていくために必要な生活保障の場だったと思います。でもそれは、夫に対して、女性を従属的立場に立たせることになっていたと思います。そして、外で働く夫の世話、育児、親族の介護なども、当然のように嫁である女性の仕事でした。だから、女性は男性の主張に従順でなければならなかったと思います。女性は、男(夫)に従順な良妻賢母であることが求められていたのです。
 でも、多くの女性が外で働くようになった現在、女性は、昔のような家族国家観に基づく「○○家」の意識に縛られたリ、「嫁の務め」に拘束されたリすることに抵抗を感じ、自らの主張をするようになってきているのだと思います。ジェンダー・フリーの考え方や選択的夫婦別姓の主張の背景には、そうした社会情勢の変化があるのであって、それをマルクスやエンゲルスの共産主義に結び付ける八木教授の議論は、いかがなものかと思います。

 「嫡出子と非嫡出子の区別は不要か」には、次のような文章があります。
一般に非嫡出子には①既婚男性との間に生まれ、認知を受けた②父親の認知を受けていない③夫婦別姓にするために事実婚を選んだ夫婦の間に生まれ、父親が認知した、などのケースがある。この裁判の原告は③のケースであり、自分の信念から事実婚を選択し、敢えて非嫡出子を儲けた「夫婦」の間に生まれた子どもの戸籍の続柄の記載が「プライバシー侵害」というのは事実誤認も甚だしい。非嫡出子であることは周知の事実だからである。また戸籍は「身分事項」を見れば、法律の専門家でなくとも非嫡出子であることはわかる。続柄のみを問題視するのは理解できない。
 嫡出子と非嫡出子との最大の違いは民法上、法定相続分は非嫡出子は嫡出子の二分の一であるところにある(900条四号但書)。例えば、夫が妻以外の女生との間に子どもを儲けた場合、その子ども(非嫡出子)は本妻との間に生まれた子ども(嫡出子)の半分の額しか、父親の財産を相続できない。
「婚外子差別の全廃」を叫ぶ人々はこの規定を改め、嫡出子と非嫡出子との相続分を同等にすべきだと主張する。「生まれた子どもに責任はない」からだというのであるが、この問題を「子どもの権利」の問題に矮小化してはならない。
 ・・・
 一方、「婚外子の差別撤廃」を叫ぶ人々は、次のように「女性のライフスタイルについての自己決定権」を主張する。
 どのような結婚をし、家族をつくるかということは、本来、個人のライフスタイルの問題であり、個人の自由意思にまかせるべきである。どんな家族形態を選んでも不利益をうけたり差別されたリせず、家族のありかたについての自己決定権が尊重されるためにも、嫡出子非嫡出子の差別、そして区別自体も早急に廃止したい。(榊原富士子・吉岡睦子・福島瑞穂共著『結婚が変わる、家族が変わる──家族法・戸籍法 大改正のすすめ』日本評論社刊、1993年、吉岡氏執筆の項)
 つまり法律上の婚姻関係とそれ以外の男女の結び付きを同等にするということである。
 嫡出子──非嫡出子の区別の撤廃は、法律婚とそれ以外の男女の結び付きとを区別しないという主張に行き着く。これは一夫一婦制の解体であり、婚姻制度や家族制度の解体にほかならない。非嫡出子の問題は単なる平等論ではなく、そこまで見通して考える必要がある。

 この八木教授の考え方は、日本の家族制度を守るために、婚外子(非嫡出子)は、差別されても仕方がないということではないかと思います。そしてそれは、八木教授の”人権軽視”の考え方に由来するのだと思います。八木教授には『反「人権」宣言(ちくま新書298)』”という著書があります。同書には、”1「人権」が無軌道な子供を作り出す”とか”2「人権」が家族の絆を脅かす”とか”3「人権」が女性を不幸にする”などと題された文章があることでわかります。
 「婚外子の差別撤廃」は、一夫一婦制の解体などを意図するものではなく、どんな人も差別をされてはならないという「人権」の問題だと思います。
 私は、婚外子(非嫡出子)差別は理不尽だと思いますし、「人権」が無視されてはならないと思うのです。

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