真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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旅順虐殺事件 捕虜殺戮・掠奪

2017年11月02日 | 国際・政治

 日清戦争では日本が戦勝国であり、下関条約の調印によって、日本は清から遼東半島・台湾・澎湖列島などの領土を割譲され、多額の賠償金受領や通商・関税・航海などにおける最恵国待遇の権利を得ました。また、日清戦争当時は、捕虜に関する国際法も整っておらず、したがって、当然のことながら旅順虐殺事件が問題とされることはなく、裁かれることもありませんでした。

 しかしながら日清戦争でも、後の南京事件に関する裁判で、”日本軍が南京市各地区で大規模な虐殺、放火・強姦・略奪をおこなった”として関係者が裁かれた戦争犯罪と共通の犯罪行為が多々あった事実を忘れてはならないと思います。

 そうした事実は、日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄が、本国へ虐殺事件の記事を送った外国人新聞記者のクリールマンやコーウェン、ヴィリアース等と交わした会話の中にも読み取ることが出来ます。
 そのときのやりとりは、クリールマンが、「ワールド」にヴィリアースが「ノース・アメリカン・レヴュー」に書いたようですが、事件を目撃した記者に、有賀長雄が”旅順の人々の殺害が「虐殺(マサカ)」と思うか”と直接聞いているのです。即答は躊躇ったようですが、記者は「虐殺」であると答えたといいます。そして、見逃すことが出来ないのは記者が 
有賀氏は、私たちが至急報のなかで、虐殺という単語を使わないようにさせようとしていた。
と書いていることです。法律顧問として従軍した有賀長雄でさえ、事実の報道を抑え込もうとしたということではないかと思います。
 また、記者は
 ”あなた方(日本軍)は捕虜を殺しているのではなく、つまりは、無力な住民たちを捕虜にしようとせずに、無差別に殺しているわけです。”
と指摘したのに対し、有賀長雄は
 ”私どもは(日本軍)は、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは、捕虜にしていません。”と応じています。
 南京戦で、師団を率いた中島師団長の日記に「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ……」という記述があったのを思い出します。

 そこで、今回は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から、南京戦と似かよった捕虜の扱いや掠奪の問題に関する部分を抜粋しました。

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                 諸半島占領ノ任務ヲ達シタリ  十一月二十三日

    
 ・・・
 有賀長雄が『日清戦役國際法論』のなかで言う旅順占領時における海外からの日本への批判三点のうち、第二点目は占領後の捕虜の扱いに対する問題であった。
 (ロ)日本軍ハ二十一日ノ一戦ヲ了(オハ)リ其ノ後ニ於テ此ニ戦闘力ヲ有セサル敵ノ兵士ヲ殺戮シタルコト。
 これに対する大山巌の回答、つまり日本軍の見解は次のようなものであった。
  (ロ)に対スル答弁
 二十二日以後ニ於テ捕虜中間ゝ(ホリョチュウママ)殺戮セラレタル者是アリタルモ此等ハ皆頑愚不覚(グアングフカク),或ハ抵抗シ或ハ逃亡等計リタル徒ヲ懲戒スル為万止ムヲ得サルニ出テタルノミ

 有賀自身も、二十二日~二十四日の三日間は、「稀(マ)レニ日本兵士カ縄ヲ以テ支那人ヲ三々五々連縛(レンバク)シテ」市内を引いてゆくのを目にしている。これが、「日本軍ニ向(ムカイ)テ数多(アマタ)犯ス所アリシニ因リ殺戮スル為」であったことも承知していた。そして、大山は第二点目についても、「其ノ事実タルコトヲ承認」したのであった。大山の言うところが事実であろうとなかろうと、抵抗の有無に関係なく、少なくとも第二軍は、捕虜を歓迎しなかったはずである。
 軍上層部がどう言葉を並べようと、兵士は正直である。先の伊東連之助はこのころ、雙臺溝に清国兵士五、六十名を追いつめ、十名の仲間とともに、「其過半(ソノカハン)」を斃した。そのときの様子は、友人宛ての手紙に詳細に書かれた。

 予(ヨ)は生来(ショウライ)初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽(シュウスイイッカシュシンタチマ)ち所を異にし、首三尺餘
(クビサンジャクヨ)の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに逬騰(ホウトウ)し(中略)予は茲(ココ)に始めて実際的撃剣を試みしが、経験上人を斬るの法他なし只胆力如何に由(ヨリ)て存するのみ、故に斬るに従って益々巧妙となり胆力の動かざるに至るべし。

 これを読む限り伊東は、捕虜の首を刎ねる”据えもの斬り”をしたとしか思えない。みごとに首が飛ぶと、伊東に周囲から拍手喝采が湧いた。

 何の罪もない人々が、戦争中に殺されるということは、避け難いことである。私は、そのことだけで日本軍を責めはしない。清国兵は、農夫の身形をし、武器を持ち、変装を隠れ蓑として、可能なときに攻撃した。それゆえに、軍服を着ていようといまいと、全ての清国人を敵と見なすことは、ある程度許されることになる。その点では、日本軍はあきらかに正当化されている。しかし、清国人を敵と見なしたとしても、彼らを殺すことは、人道にかなったことではない。彼らは、生かして捕らえられるべきである。数百名の人が捕らえられ縛られたあと、殺されるのを私は見た。それはおそらく、野蛮な行為ではないのだろう。どうあろうと、それは真実なのだ。
 これまでの住民の殺戮に続く、捕虜の殺戮という新しい事態を目の当たりにし、コーウェンは、「タイムス」(1月8日付)にこう記した。

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  4
 今や、清国人のほとんどいない市街と化した旅順 ─── そうなれば、そこで発生するのは、ほかならぬ「分捕(ブンドリ)」であった。「分捕る」とは、「戦場で敵の財物や物を奪い取る」ことである。ある地で敵に勝つとは、その地の敵のものが全て自国のものになることであった。個人の所有物であっても大きな軍事力を背景にしていれば、それが可能になった。まして旅順は、住民も敵兵もいない、といっていい状態である。「私は、兵士たちがひきつった死体を踏みつけながら、死者の家を掠奪するのを見た。凄まじい犯罪を隠そうともしていなかった。恥というものが、消え失せてしまっていた」と、クリールマンはこの日のことを「ワールド」(12月20日付)に記している。旅順では、人の命までもが分捕り品になっていた。また、「一方では、市街の全ての建物が完全に掠奪された。全ての戸が開け放たれ、全ての箱や箪笥、隅という隅をくまなく漁りまっくった。得る価値のあるものは掠奪され、残ったものは壊されるか、溝へ投げ捨てられた」と、コーウェンも「タイムス」(1月8日付)に報告している。
 分捕りは、国家の財産を増やすことである。平壌の戦いのあとには、例えば、「平壌分捕の金銀十六函(ジュウロクハコ)を大本営に廻致(クワイチ)し来りしことハ我特派員の電報に依りて已に記したたるが今目録に依り其種類を区分すれバ左の如し」(「東京朝日新聞」10月13日付)という記事が、「分捕金銀の種類」の題のもとに、第一面に掲載されもしたのである。記事はこれに続き箱ごとの詳細を記し、「金の総量 廿五貫三百五十目」「銀の総量 百十三貫九百十匁(モンメ)」「混合物四貫六百目「但通貨を除く」と結ばれている。金や銀ばかりでなく、米などの穀類はもちろん、分捕りの対象であった。平壌の戦いでは、「正米二千六百石」「小麦三百二十石」「玄米三百石」「黍百石」「粟八百二十石」「大豆千二百石」「鹽(シオ)五百俵」などを分捕った。
 国家が大規模に分捕りをするのなら、兵士は何を分捕ったらいいのか。美術品や小さな貴金属などから日用品に至るまで、上は金目のものから下は使えそうなものまで、さまざまであったと思われる。異国の記念品として持ち帰ったことであろう。洋画家黒田清輝(1866~1924)の場合、その日記(『黒田清輝日記』中央公論美術出版・1967年)によれば、従軍して12月4日 に大連湾に着き、翌日、「七憲兵の案内ニテ分取品をもらひニ行く」。おそらくは、美術品を選んだことであろう。

 生きているものも、分捕の対象となった。前日の二十二日、兵士橋爪武は清国兵営を捜索中に二頭の駱駝を発見し分捕り、これを山地元治に贈った。山地はこれに丹頂鶴を添えて、天皇に献上するため、橋爪にこれらを携えて帰国することを命じ、十一月二十九日に献上品は宇品港に陸揚げされた。番(ツガイ)の駱駝は、翌1895(明治28)年二月になって、皇太子からの下賜という形で、東京・上野動物園に寄贈され、飼育された。
 「国民新聞」(10月24日付)は、東京・九段の靖国神社境内にある遊就館に展示されている分捕品の見物に訪れる人の人数が、浅草や上野への行楽客よりも多いことを伝えている。そうした国内の盛り上がりから、ついには商品にも分捕と冠したものが現れるようになった。「擦り潰す支那人の生首」と題し、「時事新報」(10月23日付)は「分捕石鹸」が発売されたことを報じている。この石鹸は、「支那人の生首の形に造れる」もので、新聞広告には、あたかも旅順の惨劇のような絵柄が載った。これに限らず、同じような報告の絵柄は日清戦争の期間、よくみられた。

 住民の殺戮、捕虜の殺戮に続き、有賀のいう海外からの批判の第三番目は、分捕のことであった。
 (ハ)市街ノ民屋(ミンオク)ニ於テ財貨ヲ掠奪シタルコト。
 これに対する大山巌の回答は、前の二つと違い、真っ向から否定していた。
  (ハ)ニ対スル答弁
 人民ノ財貨ヲ掠奪シタル事実ハ全ク無根ナリ、但シ當夜同市ニ投宿シタル軍隊ノ其宿営用具、即チ机、腰掛、火鉢、茶碗、薪炭等ノ類ヲ徴用シタル事実ハ之レアルヘキモ財貨ノ掠奪ノイ至リテハ斷ジテ之レ無シ、已(スデ)ニ一二心得違ノ者ハ夫々(ソレゾレ)處分ヲ終ヘタリ

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2 コメント

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内容を! (syasya61)
2020-08-02 08:54:33
軽部様

>奇妙な解釈、歴史解釈が貧しいですよ。

 どのように奇妙であるのか、なぜ貧しいといえるのか、を示さないコメントは、
ただ貶めることだけが目的のように思われ、生産的ではないと思います。
ご指摘を!
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奇妙な解釈 (軽部)
2020-08-02 00:20:18
歴史解釈が貧しいですよ。
返信する

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