真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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台湾出兵と琉球処分、そして尖閣領有、台湾併合へ

2010年12月01日 | 国際・政治
 1874年の日本の台湾出兵については、当然のことながら清国の抗議があった(下段資料1)。しかしながら7月7日の閣議は台湾駐兵の続行を決めた。そして、領土相互不侵越を約束した「日清修好条規」(下段資料2)が結ばれていたにもかかわらず、下記の「宣戦発令順序条目」を定めて、和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。
 また、琉球処分断行にあたった松田処分官には、警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士が同行している。明らかに力ずくの琉球処分-琉球藩の廃止であった。そしてそれらが日本の帝国主義的領土拡張政策によるものであったことを示す関係者の言葉が残されている。したがって、尖閣諸島領有も、そうした歴史的流れの中で理解するべきではないかと思う。「アジア侵略の100年-日清戦争からPKO派兵まで」木元茂夫(社会評論社)の抜粋である。
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              第1章 日清戦争への道

3 台湾出兵と西郷従道


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 明治政府が成立してまもなく、日本は「日清修好条規」を結んだ。1871年のことである。清国との間には正式な外交関係が結ばれた時、明治政府の首脳が考えたのは、日清両属の形であいまいになっている琉球をどうするかであった。最も強硬であったのは、長州出身で伊藤博文とともにロンドンに留学した経験をもつ、大蔵大輔井上馨である。井上は1872年5月に、次のような建議を行っている。

 「……従前曖昧の陋轍(ロウテツ)を一掃して、改て
皇国の規模御拡張の御措置有之度(アリタク)……彼の酋長を近く闕下(ケッカ)に招致し、其不臣の罪を譴責……速に版籍を収め明に我所属に帰し……」

 「彼の酋長」とは琉球国の国王をさし、「闕下」とは朝廷の意味である。つまり井上は、国王を呼びつけて、明治政府への忠誠を誓わせろと主張したのである。この井上の主張は、朝鮮についての木戸孝允の主張とうり二つである。木戸は「神州の威を振」いと言い、井上は「皇国の規模御拡張」と言った。明治政府の指導者、とりわけ長州閥の面々は、かくも侵略的であった。

 明治政府が実際に行ったのは、井上の建議のような過激な方法ではなく、琉球国の国王・尚泰を上京させて、天皇の前で、「藩主」に命じ、華族の一員に列することであった。1872年9月のことである。同時に琉球国の外交権を外務省に移管した。まさに「皇国の規模御拡張」の第1歩が記されたのである。
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 しかし、7月7日の閣議は、台湾出兵続行と大久保利通を全権大使として清国に派遣することを決定した。和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。日清開戦の場合に備え「宣戦発令順序条目」を決定している。これは、その後の日本の戦争指導の基本となったものなので、重要な事項だけに紹介しておく。

宣戦発令順序条目
 一、宣戦に決したる時はその趣旨判然と詔書をもって布告すべき事[中略]
 一、天皇陛下大元帥とならせられ六師を統率し大阪へ本営を設けられるべきこと
    [中略]
 一、戦略は大参謀の籌図にするはもちろんたりといえども、その枢軸は、内閣と
    協議を為すべきこと[以下略]


 清国に派遣された大久保利通は、交渉の結果、賠償金50万両(約75万円)を獲得し、日本軍は12月ようやく撤兵することになった。しかし、清国の北洋大臣威李鴻章は、この台湾出兵を契機として、日本を仮想敵国とする北洋海軍の創設に着手していく。日清の対立は台湾出兵をもって始まり、朝鮮半島の権益をめぐって、激化していったのである。
 台湾蕃地事務局長官であった大隈重信は、台湾出兵の意義を、のちにこう記している。


「征台の役に日本の費やすところ780万円なりしかば、得失相償わざるの感ありといえども、清国は間接に、琉球人が日本の臣民にして、したがいて琉球群島は日本の領土たることを認めたるのみならず、各外国は我が兵力の有効なることを認めたる結果として、英仏二国は、幕末の外人迫害以来、横浜に駐在せしめたる兵を徹したるにより、明治外交の上に受けたる間接の利益は、はなはだ大なりき」(『開国の大勢史』)

 台湾出兵が決着を見ると、日本政府はすぐさま琉球処分に取りかかっていく。この年、琉球関係の事務は外務省から内務省の管轄に移され、那覇の出張所も内務省の所管となった。西郷従道が台湾から長崎に向かっていた12月24日、大久保利通は、琉球と清国の関係を断ち切るよう説得するため琉球藩の首脳に上京を命じている。

 ・・・

 こうした経過の後、自由民権派のテロリストに刺殺された大久保利通の後を継いで内務卿となった伊藤博文は、処分断行を決定し松田を琉球に派遣する。松田は警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士を率いて琉球におもむき、首里城で処分断行を言い渡した。1879年4月4日のことである。ここに数百年の独自の歴史を持つ琉球国は、日本に併合されるのである。のちに大隈重信は、この琉球処分を「明治時代における帝国膨張の第一程となす」と記した。

 台湾出兵と琉球処分は「皇国の大陵威(オオミイツ)」「国体と国権」にかかわるものとして強行された。そして台湾出兵の戦死者は、陸軍中将西郷従道が祭主を務めた招魂式によって、初の”対外戦争”の戦死者として東京招魂社(現靖国神社)に合祀されたのであった。……
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 「戦争と新聞」鈴木健二(毎日新聞社)に、台湾出兵に同行した従軍記者の戦地報道の一部が紹介されているが、台湾出兵が単に琉球人殺害にたいする処置ではなく、領土(皇国の版図)の拡張にあったという捉え方をしている事実は見逃せないと思う。
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                第1部 軍国の形成

 第1章 新聞は戦争で育った

 台湾出兵

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 「まず丈夫では居るけれどもなかなか苦しい。大概のところではこれ程の苦しみはあるまい。食う物はなし、食えば高し、うまくはなし、あついあつい、ああ苦しい」 これは台湾出兵に同行した日本初の従軍記者、岸田吟香の戦地報道である。

 …「まず支那領の堺より南なる地に手を下し、これを略取して植民地となし、それよりまた北支那領の堺より南の地に兵を置きて、漸々にこれを開拓し、大木を伐り荊棘を焼き、土蕃を教え導きて、以て
わが皇国の版図を広めんとなしたもうの思召しなるべし」(同5月15日)と岸田は書いている。

 ・・・(以下略)

資料1「台湾出兵ー大日本帝国の開幕劇」毛利俊彦著(中公新書)------

 日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日(1874年)であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。
 また、西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
 清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日、清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵要求せよ、従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。


資料2「日中国交文献集」竹内実+21世紀中国総研編(蒼蒼社刊)-----

   大日本国と大清国は古来友誼敦厚なるを以今般一同旧好を修め益(マスマス)
   邦交を固くせんと欲し、
   大日本国欽差全権大臣従二位大蔵卿           伊達
   大清国欽差全権大臣辨理通商事務太子太保協辨大学士
        兵部尚書直隷総督部堂一等粛毅伯   李
   各(オノオノ)奉じたる上諭(ジョウユ)の旨に遵(シタガ)い、公同会議して修好条規
   を定め、以て双方信守し久遠替らざる事を期す。
   その議定せし各条左の如し。

第1条 此後大日本国と大清国は弥(イヨイヨ)和誼(ワギ)を敦(アツ)うし、天地と共に
   窮(キワ)まり無(ナカ)るべし。又両国に属したる邦土も、各(オノオノ)礼を以て相
   待ち、聊(イササカ)侵越する事なく永久安全を得せしむべし。
第2条 両国好(ヨシミ)を通ぜし上は、必ず相関切(アイカンセツ)す。若し他国より不公
   及び軽藐(ケイバク)する事有る時、其知らせを為さば、何れも互いに相助け、
   或は中に入り、程克く取扱い、友誼を敦くすべし。
第3条 両国の政事各異なれば、其政事は、己国(ココク)自主の権に任ずべし。彼
   此(ヒシ)に於て何れも代謀干預(ダイボウカンヨ)して禁じたる事を、取り行わんと
   請い願うことを得ず。其禁令は互いに相助け、各其商民に諭(サト)土人を誘惑
   し、聊違反あるを許さず。

 ・・・(以下略)

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

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ペルシャ湾へアメポチ掃海補給行ってる間に尖閣有... (なおみん)
2014-09-12 21:05:59
ペルシャ湾へアメポチ掃海補給行ってる間に尖閣有事、50万在日中国人国防動員蜂起なんてならないためにも、秘密保護法施行までの残された短い間に中曽根さんに自衛隊納品前のアメリカ製無人機当たり隠すために救助遅らせ多数見殺しの123便真相を語らせ、トモダチ作戦の高額賠償請求を報道させないと。アメリカは南京事件誇張映画で原爆正当化し台湾民政府に日本と合併言わせ戦前の構図再現図ってますが乗せられてはダメ。台湾出兵からアメリカの助言に驚き。100発100中国産迎撃技術と国民が守って憲法守り改悪はさせないこと、そして尖閣は台湾と沖縄の合併独立が解決策のように考えています。
返信する
なおみん様 (Unknown)
2014-09-13 08:23:27
なおみん様

>尖閣は台湾と沖縄の合併独立が解決策のように考えて
います。

 合併独立がよいかどうかは私にはわかりませんが、最終的には、トラブルのある地域を包摂する政策、あるいは共有する政策を進めるべきだと思います。
返信する

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