真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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乙巳条約(第2次日韓協約)無効論の論拠

2009年11月27日 | 国際・政治
 韓国併合へと至る道筋をつけたという意味で極めて重要な乙巳条約(第2次日韓協約)が、法的に無効であったという学説がある。そして、それは単なる過去の問題ではなく、日韓はもちろん、日朝にとっても、極めて現代的な問題としてあるという。それは、1965年の日韓条約締結の際に、最大の係争点の一つであったが、日韓条約では有効・無効の判断を下すことなく、対立点を残したまま調印されたからである。1991年に始まった日朝国交正常化交渉では、それが、今なお交渉進展を阻む対立点の一つになっているというのである。
 伊藤博文は、日本の「立憲体制の生みの親」であり、「明治の元勲」であると教えられたわれわれには、乙巳条約無効論の論拠は衝撃的である。「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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Ⅰ 研究の現状と問題点

 2 脅迫による協約締結

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 交渉の経過については本書収録論文以外にも多くの論文があるので省略し、ここでは、協約の無効を証拠づける武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為を列挙するにとどめよう。

<武力的威迫>
① ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。

② 17日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐?軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば、「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵、騎兵、憲兵与巡査及顧問官、輔佐員、連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮
(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。

③ 17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に招集して予備会商を開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ一決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後3時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するため、憲兵に「途中逃げ出さぬやうに監視」させた。事実上の拉致、連行である。


<脅迫的言辞>
④ 15日午後3時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ、将又韓国ノ独立ハ何人ノ賜ナルヤ」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国ニ於ケル対外関係所謂外交ヲ貴国政府ノ委任ヲ受ケ、我政府自ラ代ツテ之ヲ行フ」ことを申し入れた。これに対し回答を保留する皇帝に向かい、伊藤は「本案ハ……断シテ動カス能ハサル帝国政府ノ確定議ナレハ、今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御了承アルトモ、又或ハ御拒ミアルトモ御勝手ナリト雖モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ已ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スヘキカ、蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ坐シ、一層不利ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と暴言を吐き、威嚇した。

⑤ 同席上、逡巡する皇帝が「一般人ノ意向ヲモ察スルノ要アリ」と述べたのをとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主国である韓国皇帝が「人民意向云々トアルモ 定メテ是レ人民ヲ扇動シ、日本ノ提案ニ反抗ヲ試ミントノ御思召ト推セラル。是容易ナラサル責任ヲ陛下自ラ執ラセラルルニ至ラン」と威嚇した。

⑥ 17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其折衝ニ当リ妥協ヲ遂クルコトハ敢テセサル」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻をとらた伊藤は、巧妙に誘導し「反対ト見做スヲ得ス」と一方的に判定した。他の4人の大臣のあいまいな発言もすべて伊藤により賛成とみなされた。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対者であることを認めなかった。

⑦ 同席を終始主導した伊藤は、韓主?参政、閔泳綺度相の2人の反対のほかは6人の大臣が賛成と判断し、「採決ノ常規トシテ多数決」による閣議決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可を受けるよう促し、拒否するならば「予ハ我天皇陛下ノ使命ヲ奉シテ此任ニ膺ル。諸君ニ愚弄セラレテ黙スルモノニアラス」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退ヲ決シ、謹テ大罪ヲ待ツノ外ナカルヘシ」と涕泣しながら辞職を漏らし、やがて退室した。韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマヘ、ト大キナ声デ囁イタ」という。肉体的・精神的拘束を加えて上での威嚇である。

<不法行為>
⑧ 17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って参内した伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメン」との勅諚を引き出し、閣僚との交渉を開始した。これは、韓国閣議の形式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表ではない伊藤の外交交渉への直接参加も違法である。

⑨ 協約書への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、調印は「外部大臣之章」と刻まれていいる邸璽(職印)であるが、その邸璽は、公使館員らによりもたらされた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、「遂ニ憲兵隊ヲ外部大臣官邸ニ派シ、翌18日午前一時、外交官補沼野ハ其官印ヲ奪ヒ宮中ニ帰リ、紛擾ノ末、同1時半日本全権等ハ擅ニ之ヲ取極書ニ押捺シ」た、とのソウル発電報を掲載している。 
 『大韓季年史』もまた「使公使館通訳員前間恭作、外部補佐員詔(ママ)野、往外部、称有勅命而求其印、須知分斯即与之、無数日兵環囲外部、防其漏失、日本公使館書記官国分象太郎、預待於漱玉軒門前、仍受其印、入会議席遂捺之、時18日(旧暦10月21日)上午一点鐘也」と述べ、日本公使館員による邸璽入手の経緯が詳しく述べられている。前間恭作は二等通訳官、沼野安太郎は外交官補、国分象太郎は二等書記官である。
 伊藤の復命書である「日韓新協約調印始末」では「朴外相ハ其官印ヲ外部主任者ニ持来ルヘキ旨電話ヲ以テ命シ」たとしか記していないが、前述の2資料の記述は具体的であり、日本人が強奪するようにして邸璽を持ってきた事実は否定できない。

 以上の事実は、いずれも韓国代表者個人に対して加えられた脅迫的行為または強制である。それが条約無効の根拠となることを前述したが、当時もっとも権威ある概論書として流布した東京帝国大学法科大学教授高橋作衛『平時国際法論』(1903年、日本大学)も述べている。
「主権者又ハ締結ノ全権ヲ有スル人ガ、強暴又ハ脅迫ヲ受ケ、為メニ条約ニ記名スルニ至リタルトキハ、該条約ハ有効ニアラス。斯ル場合ニ於テハ、国家ノ名ニ於テ条約ヲ為ス個人ハ、強迫ヲ受ケ、為メニ自由決定ノ能力ヲ失ヒタルモノナルヲ以テ、其条約ハ拘束力ヲ生スルモノニアラス」



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