真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ミャンマー 南機関とアウンサン将軍

2021年06月09日 | 国際・政治

 私が、アジア太平洋戦争にこだわるのは、310万もの日本人と、その数倍のアジアを中心とする人々を死に追いやった戦争を指導した人々が、冷戦など、その後の情勢の変化によって、公職追放を解除され、戦争責任を追及されることなく、敗戦後も日本の中枢で活躍することになったために、今なおいろいろな場面で、日本の野蛮な戦争を正当化し、日本国憲法を蔑ろにしたり、戦前・戦中の考え方に基づく政策を進めようとするからです。
 先日、慶応大学名誉教授でパソナ会長の竹中平蔵氏が、”オリンピックってのは、世界のイベントなんですよ。世界のイベントをたまたま日本でやることになっているわけで、日本の国内事情で、世界の『イベント(五輪)やめます』というのは、あってはいけないと思いますよ。世界に対して、『やる』と言った限りはやる責任があって”、と述べたことが報道されました。驚きました。
 しばらく前には、内閣官房参与の高橋洋一教授がツイッターで、世界各国の新型コロナウイルス感染者数比較のグラフとともに、”日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑””、と投稿したため、ネット上で反発が広がり、退職したとの報道もありました。
 新型コロナ感染症によって、何人亡くなろうが、医療機関がどんなに追い詰められようが、飲食店が何店潰れようが、職を失い、住む所までも失う人が何人出ようが、オリンピックはやる、という自民党政権中枢や政権を支える人々の感覚は、明らかに戦争指導層のそれと同じではないかと、私は思います。降伏を許さず、玉砕といわれる全滅戦を強いた、かつての戦争指導層の人命軽視、人権無視は、生き続けているように思うのです。
 
 戦前・戦中の日本は、現人神である天皇が統治する国でした。だから、戦争指導層は、”上官の命令は朕の命令と心得よ”という「軍人勅諭」に支えられ、かなり強引な作戦も、反対を恐れることなく命令できました。
 そして、戦争指導層の考え方や思いを受け継いでいる安倍・菅政権のコロナ対応にも、そうした強引な独断専行の傾向がうかがえると思います。コロナ一斉休校布マスク全戸配布も、ワクチン1日100万回接種も、きちんとした専門家に対する諮問や民主的な手続きなしに行われ、今、五輪開催を強行しようとする政府の姿勢に警告を発している新型コロナ対策分科会の尾身茂会長外しが話題になっています。
 当初から、安倍・菅政権の下では、専門家が専門家として尊重されず、政治的に利用されているという指摘がありました。そして、野党から”五輪開催について尾身氏に諮問しないのか”と聞かれた西村コロナ担当相が、”分科会は五輪開催の可否などを審議する場所ではなく、そういう権限はない”と答えたことが報道されています。政府の新型コロナ感染症に対する政策や姿勢が問題なのであって、分科会に権限があるかないかの問題ではないと思います。西村コロナ担当相の答えは、一般国民の感覚とは、著しく乖離していると思います。

 またミャンマーでは、軍がクーデターを起こし、多くの民主化指導者を拘束するとともに、抗議活動の弾圧を続けていますが、すでに死者が800人を超えているといわれています。軍の暴力的なクーデターはもちろん、民主化指導者の拘束や抗議活動の弾圧に対し、世界中から抗議や非難の声が上がっているなか、日本の丸山大使は、軍事政権のワナ・マウン・ルイン氏と会談を行いました。それ自体が、他国では考えられないことのようですが、会談後、在ミャンマー日本大使館が、フェイスブックに投稿した内容や、ワナ・マウン・ルイン氏を「外相」と表記していることが、ミャンマーで大変な反発を招いたといいます。
 ”日本はミャンマー国民の声を聞かず、軍人を認めるつもりなのか?”とか、”ワナ・マウン・ルウィン氏は、外務大臣ではありません。誰も認めてはいけませんし、このような言葉使いをやめて頂きたい。ミャンマー国民としては強く非難します”などという非難コメントが相次いだといいます。
 これを受けて、加藤官房長官が、”「外相」と呼称はしているが、呼称によって国軍によるクーデターの正当性やデモ隊への暴力を認めることは一切ない”と強調し、その上で、”ミャンマー側の具体的な行動を求めていくうえで、国軍と意思疎通を継続することは不可欠で、これまで培ってきたチャンネルをしっかり活用して働きかけを続けることが重要だ”と、記者会見で語ったということです。私は、こうした対応にも、やはり法や道義・道徳の軽視を感じます。
 それで、”これまで培ってきたチャンネル”というものが何なのかをよりよく知りたいと思い手にしたのが、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)です。  
 その内容は、私の戦争指導層に対する認識を、さらに一層強めるものでした。
 
 というのは、ミャンマーの人たちとの交流によって信頼を得たのは、当時の鈴木敬司陸軍大佐を中心とする「南機関」(特務機関の一つ)の人たちであり、戦争指導層は、その信頼を台無しにするような作戦を展開したことがわかったからです。鈴木大佐の考えは、イギリスの支配から逃れるために、ビルマを独立させようと活動を続けるアウンサン将軍などと力を合わせることによって、援蒋ルートを遮断しようということでした。でも、下記抜粋文でわかるように、戦争指導層は、そうした真のビルマ独立の作戦を受け入れませんでした。だからアウンサン将軍は、”立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ”と言って、逆に連合軍と手を結び、日本軍に銃口を向けるに至るのです。鈴木大佐以下南機関のメンバーたちも、次第に戦争指導層の方針に反発し、事と次第によっては反旗を翻すことさえ仄めかしたといいます。
 日本の敗戦は、戦争指導層のそうした現場の意向を無視した作戦や、現地の情勢分析の欠如にあったことも忘れてはならないことだと思います。
 下記は、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)から、日本との関わりについて書かれている「第一部 わたしの父、アウンサン」のなかの、「日本との同盟」と「レジスタンス」から、一部を省略して抜萃しました。
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             第一部 わたしが受け継いだもの

             第一部 わたしの父、アウンサン

 日本との同盟
 アウンサンは、軍事闘争の必要性について考えていた。幼い頃からの独立の夢とは異なるが、合法的手段で独立を手に入れる可能性を否定していたわけではなかった。大学生の頃には、文官試験を受けることも考えたし、教養に裏づけられた政治手腕とその愛国精神ゆえに、心から崇拝していたインドの政治家たちの例に倣うことも、おそらく考えただろう。
 有名な学生運動のリーダーになった後、アウンサンはラングーン大学の英語教授に、自分は「平和的革命家」だと書き送ったともいわれている。しかし、ビルマの国情は彼のそうした考え方を変えてしまった。アウンサンは、1940年に自らの考えをつぎのようにまとめている。

 個人的には、われわれの運動を世界に知らしめて支持を得ることも必要だと考えたが、民衆を民族闘争に駆り立てるという最も大事な仕事は、ビルマ国内で実行しなければならないとわたしは思っていた。
 わたしの計画の概要は以下のものだった。
 まず、イギリス帝国主義に対する民衆の抵抗運動がビルマ全土で展開される。それは世界および国内の流れとも歩調を合わせ、産業・農業労働者による各地での散発的なストライキがゼネラル・ストライキや地代不払い運動に発展し、また民衆のデモなどあらゆる形での闘争的プロパガンダや民衆の行進が大規模な民族抵抗運動につながるようにすることである。さらにイギリス帝国主義に反対する経済キャンペーンが、英国製品の不買運動という形であらわれ、最後には納税拒否運動に発展していく。そして、この計画は軍部、官僚、警察機構の各機関や情報網を攻撃するゲリラ活動の展開によってさらに勢いを増し、その結果、わがビルマにおけるイギリス人の統治が終焉を迎えるという筋書だった。その時こそ、世界情勢の変化に同調しながら、ついにはわれわれが権力の掌握を宣言できる時だったのである。さらには、英国政府に帰属する軍隊のなかで、とりわけイギリス人以外で編制された部隊が、われわれの側に寝返ってくれることをわたしは期待していた。
 計画の中でわたしは、日本がビルマに侵攻してくる可能性についても考えはした。しかし、その時点でそれを明確に想定することはできなかった。
 ・・・
 1940年8月、アウンサンともうひとりのタキン、フラミャイン(後のヤンアウン)が、ハイリー号(海利号)に乗ってビルマを脱出した。彼らは、中国アモイのカウンロンスにある外国の租借地に着いた。彼らはそこに数ヶ月間滞在し、中国共産党と接触をはかろうと空しい努力を続けた。中国共産党との接触は実現しなかったが、彼らはある日本人に会った結果、日本で鈴木敬司大佐に会うべく東京に飛んだ。鈴木は日本軍の将校で、やがて南機関の機関長として有名になる人物だった。南機関は「ビルマの独立を支援し、ビルマ・ロードを遮断すること」を任務とする秘密軍事組織だった。
 ・・・
 「自由ブロック」のメンバーの意見は、日本の援助を受けるべきかどうかで分かれた。共産主義者たち(シュエやバヘェィン、タントゥン、テェィンペなどが力をもってえいた)は、日本のファシスト政府と協力する考えに特に反対だった。しかしアウンサンは、援助の手を差し伸べてくれる所からはどこからであれ援助を受け入れ、事態の推移を見守るべきだという現実的な考え方をしていた。とは言え、彼自身が認めているように、それが結果にどう結びつくかは、充分に考えぬいていたわけではなかったようである。
 東京では、アウンサンと鈴木が相互理解を深めていたが、双方にためらいもあったようだ。鈴木は、アウンサンの誠実さと愛国精神は認めていたが、「彼の政治的思想は充分に熟していない」と考えていた。
 それは、当時の評価として必ずしも不当なものではなかった。と言うのも、日本の侵攻を招いたのは自分や同胞たちの「ファシズムへの傾倒ではなく、自らの失策と小ブルジョア的小心さだあった」と、アウンサン自身が記している。日本に向かう途上、アウンサンは不安にかられていた。日本に来てみると、状況が「さほど悪くない」ことが分かり安心したが、心配はなお残った。彼は、日本人の愛国精神や清廉潔白さ、禁欲的な姿勢に尊敬の念を抱いたが、軍国主義思想の「残虐さ」には反発を覚えたし、女性に対する態度には少なからぬショックを受けた。
 アウンサンは、1941年2月、中国人の船員に変装してビルマに戻った。彼は、日本からある申し出を受けていた。これはきっと、反乱を支援する武器と資金の提供だろうとビルマ側は理解していた。
 選り抜きの若者たちに軍事訓練が行われることになり、彼らは密かに国外に脱出することになった。アウンサン自身は早々にビルマを離れ、レッヤーその他三人と共に再び日本に行った。彼らは「三十人志士」と呼ばれる先鋭メンバーだった。三十人は、やがてビルマ独立義勇軍(BIA)の中心的存在となるのだが、彼らの選抜の基準は、その人望(投獄中の民族主義者は除外)と、タキン党内の派閥の対立(将来の紛争の原因)を抑えたいという意向にそったものだった。
 海南島で、三十人は厳しい軍事訓練を享け、その中から、アウンサン、レッヤー、トゥンオウ、アウンタン(のちのセッチャー)が、司令官、指揮官としての特別訓練のために選抜された。タキン党の一派閥のリーダーだったトゥンオウが、このグループの「政治的指導者」に選ばれた。
 しかし、「三十人志士」のリーダーとしてのみならず、ビルマ独立義勇軍誕生後の軍の指導者として誰もが認める存在となったのは、アウンサンだった。彼は細身で、とりわけ頑強というわけではなかったが、優れた能力をもつ勇敢な兵士として、多くの困難に耐え抜いた。
 しかも「人間関係が下手だ」という批判があったにもかかわらず、心身ともに弱り果てた仲間を元気づけ、とりわけ若い者たちに心を配った。訓練生活への不満が出たり、日本人に対して感情が高ぶった時にそれを抑えるように言い聞かせたのは、ほかならぬアウンサンだった。と言うのも、若い訓練生の多くは一部の指導官に対して尊敬や親愛の情を抱いてはいたが、日本人の態度をある面ではきわめて不愉快と感じていたのだ。二つの民族の間には、1941年末の日本軍のビルマ侵攻以前にすでに摩擦が生じ始めていた。
 ビルマ独立義勇軍は、海南島軍事基地の訓練生とビルマ系のタイ国人と南機関のメンバーによって構成され、1941年12月にバンコクで正式に結成された。鈴木が司令官となり、アウンサンは、副司令官格の参謀となった。
 結成したばかりの軍の隊員は、忠誠の誓いを立て、将校たちは勇ましい響きをもつビルマ名を使うようになった。例えば、鈴木はモウジョウ(「雷」の意味)、アウンサンはテーザ(「火」の意味)と名乗った。「三十人志士」のほかのメンバーもやがてその名を知られるようになったが、その中には、レッヤー、セッチャー、ゼヤ、ネウィン、ヤンナイン、チョオゾオといった人々がいた。しかし、「テーザ」の名は、やがて彼がまだ学生でタキン党の指導者だった頃に国内に知れ渡っていた元の名前、アウンサンに戻った。彼が国民的英雄として偶像視されるようになったのは、「将軍ボジョウ)」アウンサンとしてであった。ビルマ独立義勇軍が日本軍と共にビルマに進軍したことは、ビルマ人にとって非常に誇らしく、喜ばしいことであった。ビルマ人は、自分たちの民族の尊厳がついに認められたと感じた。
 しかし、すでにアウンサンとその同志たちは、目の前に難題が控えていることに気づいていた。彼は、まだバンコクにいた間にビルマ国内の民族主義者たちに対して独立の準備を進めるよう、そしてそれを既成事実として日本に認めさせるように働きかけたと、記録に残している。それが失敗に終わると、民衆を動員し、侵略者日本が権力の地盤を固めることのないよう、地下活動による抵抗運動を開始した。しかし、ビルマは混乱常態に陥り、政治家の多くは投獄された。そのためにあらゆる計画が実行不能となり、ビルマは日本に占領されてしまった。
 日本による占領の物語は、幻滅と疑惑と苦痛の物語である。イギリスから離れて自由になることができると信じていた人々は、今度はアジアの同胞によって支配されることになり、激しい落胆を覚えた。多くの人々は日本の兵士を解放者として歓迎していたのだが、その正体は、評判の悪かったイギリス人以上に悪質な圧制者だった。日ごとに忌まわしい事件が増えていった。ケンペイ(日本の軍事警察、憲兵)という言葉が恐れられ、人々は、突然失踪や拷問、強制労働が、日常生活の一部となった世界で生きる術を身につけなければならなかった。
 それに加えて、連合国と日本軍の双方からの爆撃による被害、戦争による物不足、密告、異なる国同士の気質と文化の衝突、共通の言葉を持たない人間同士の避けられない誤解といった問題もあった。もちろん、正義と人間の道に則した生き方をし、ビルマの味方となる日本人もいた。しかし、軍国主義的な人種差別が幅をきかす中では、彼らの積極的な貢献も水泡に帰した。
 南機関のメンバーで、ビルマに独立を約束したからには、面目にかけても実現しなければならないと考えていた人々は、事態の推移に苦々しい気持ちを抱いていたようだ。実際に、鈴木は、1942年にラングーンが日本軍の手に落ちた直後、トゥンオウを首班とするビルマ中央政府を作った。しかしこの政府は短命に終る。
 なぜなら、占領下の状態が長引くにつれて、日本軍が軍政を敷き、ビルマは征服された一領土として扱われるようになっていったからだ。ビルマ独立義勇軍の立場は、不安定で厄介なものとなっていた。義勇軍は、行軍に加わってきた補充兵でどんどんふくれ上がっていったが、こうした新兵は、部隊の一員として効率的に動けるような訓練も教育も受けていなかった。アウンサンは、部下を指揮する権限を与えられず、鈴木の参謀将校に過ぎなかった。
 一方で鈴木は、ビルマの将来を巡って日本の軍政と義勇軍の間で苦しい立場にたっていたようだ。アウンサンと彼の同志たちは、義勇軍の指揮権をビルマ人将校に譲るべきだという気持をしだいに強めていった。レッヤーは、自分とアウンサン、そのほか数名の「三十人志士」のメンバーが、この問題で鈴木と対決した劇的な場面を記録に残している。この結果、アウンサンがビルマ義勇軍の司令官に任命された。レッヤーが参謀長となった。
 アウンサンは、自らの立場や祖国の窮状について、何の幻想も抱いていなかった。独立のための闘争が決して終っていないことを知っていた彼は、軍隊の強化と訓練を徹底的に行った。同時に、ビルマ独立義勇軍を党派政治から遠ざけ、行政上の問題に介入させないように努めた。しかし、政治を軍から切り離す時はすでに遅く、軍の中枢が政治を掌握していたことをアウンサンは知っていたに違いない。1942年7月、鈴木はビルマを去り、ビルマ独立義勇軍は「ビルマ防衛軍」に改編された。アウンサンは司令官となり、大佐の地位に就いた。しかし、日本人の軍事「顧問」が、新しい軍隊の各レベルに配属され、ビルマ人将校の実際の権限はかなり制限されていた。8月には、ビルマ日本軍の司令官、飯田中将がバモオを首相に据えた。表面的には、ビルマ政府は国民のものとなったかのように見えたが、実際には、それは完全に日本軍の支配下にあった。

 レジスタンス
 アウンサンとその同志は、ビルマ独立義勇軍(BIA)との行軍で体力を消耗し、マラリアもこれに追い打ちをかけて、その多くが入院した。アウンサンが大勢の仲間とともに運び込まれたラングーン総合病院では、献身的な医師と看護婦たちが働いていて、大変な混乱の中で最大限の治療を施そうと努力してくれた。アウンサンはその厳めしい顔つきと、近寄りがたい雰囲気、さらに英雄であるという評判が広まっていたこともあって、新参の看護婦たちは彼を恐がって、ほとんど近づこうとしなかった。
 そのため、彼は若いが経験の豊富な看護婦、マ・キンチーの介護を受けるようになる。彼女は大変魅力的な女性で、治療に打ち込むその姿勢は、患者からも同僚からも深く敬愛されていた。彼女の優しく、そして明るく献身的な介護を受けるうち、皆に怖がられていたこの最高司令官も、すっかり彼女に魅了されてしまった。アウンサンは内気だったし、強い使命感を持っていたので、それまで女性を避けてきた。自らに非常に厳しかった彼は、東京で鈴木から女性を提供されたとき(鈴木にしてみれば、おそらく本流の親切心からやったことなのだろうが)、たいへんショックを受け、この年上の男は自分を「堕落」させようとしているのではないか、と疑ったほどだった。
 ・・・
 1943年3月、アウンサンは少将に昇格、日本へ招かれて天皇から勲章を授かった。この日本への代表団は、バモオが団長を務め、アウンサンのほかに、ビルマの優れた政治家、テインマウンとミャも同行した。日本の東条首相はこの年の1月、まもなくビルマの独立が認められると発表しており、代表団は一通の文書を携えて帰って来た。
 その文書は、アウンサンの簡潔な言葉を借りれば、「ビルマは1943年8月1日をもって独立を認められ、われわれは条約を締結することになるであろう」という内容だった。アウンサンはその文書をあまり重大に受け止めてはいなかった。8月1日、ビルマはその文書どおりに、主権を有する独立国家として認められ、大東亜共栄圏の対等なメンバーとなる。バモオは首相となるとともに、アディパティ(「国家代表」の意)も称号を与えられた。
 アウンサンは陸軍大臣となった。日本はさまざまな策略を使って、ビルマ国軍(BNA)と改名されたビルマの軍事力を弱めようと試みた。最初は軍隊を国中に分散させて配置し、その後、ニ三カ所に集中させたりして、陸軍省と実戦部隊の接触を困難にしようとした。アウンサンは冷静沈着だった。彼は、日本の示唆することには何でも同意しながらも、胸中を明かさず、独自の計画を練った。
 アウンサンが、レッヤー、ゼヤ、ネウィン、チョオゾオら、数人の軍将校を招集し、レジスタンスの時機について討議したのは、彼が東京から帰ったころのことだったにちがいない。将校たちは事態が好転するまで待つように主張した。アウンサンがしぶしぶこの意見に同意したのは、タントゥンとこの問題について話し合ったすぐあとだったと思われる。タントゥンも、まだ機が熟していないという意見をのべたのである。ほかの共産党員、特にシュエとテェィンペは、イギリスの撤退によって監獄から解放される前から、ずっと抗日運動を唱えていた。
 日本軍の前進とともに、彼らは地下に潜行し、テェィンペは、シュエボーでアウンサン、ネウィンと短い会談を持ったあと、イギリス軍との接触を図るためインドへ向った。1943年11月には、対日反乱の計画は着実に進み、ビルマの山中に隠れてゲリラ部隊を組織しようと狙っていたシーグリムという少佐は、「ビルマ国軍のアウンサンという人物が、機を見て日本に攻撃を仕掛けようと計画している」と、インドに報告している。
 アウンサンはレジスタンスの準備が完了するまでは、日本からの疑いをそらしておかなければならなかった。が、その一方で彼は国民に対しては、現在の「独立」はみせかけであって、真の独立のための闘いはこれから始まるのだ、と大胆な発言をしていたのである。
 1942年の終わりごろ、ビルマ防衛軍内の無責任なメンバーと、国内の主要民族のひとつであるカレン族との間で衝突が起こり、大規模な流血事件と民族紛争になった。アウンサンは、ビルマの異民族間の関係を良好に保つことが、国家統一にとって不可欠であることを知っており、この問題をいつも非常に重視してきた。
 1940年に鈴木のために描いた「ビルマ独立の青写真」のなかで、彼はすでに「イギリスの陰謀によって、大多数を占めるビルマ族と、アラカン州、シャン州などの山岳民族との間にできてしまった大きな溝を完全に埋め、各民族を統一してひとつの国家とし、平等な扱いを受けられるようにする」ことの必要性を強調している。
 カレン族とビルマ族の争いは、アウンサンを大いに悩ませた。1943年の後半を通して、彼とタントゥン、レッヤーは、この二民族間に平和と理解をもたらそうと懸命に力を尽くした。彼らの必死の努力は報われた。カレン族はビルマ族のリーダーたちを全面的に信頼するようになり、カレン族の大部隊がビルマ国軍に加わったのでる。
 アウンサンが急いで解決しなければならなかったもうひとつの問題は、共産党員とビルマ革命党の社会主義者との間でしだいに高まっていた敵対感情だった。共産党のリーダーはシュエ(日本の占領下、ずっと地下での活動を続けた)、タントゥン、(農林大臣になっていた)、バヘェィンで、これに対してチョオニェィンとバスェの二人が、最も活動的で傑出した社会主義者だった。アウンサンは、この両者の間を取りなそうと必死で努力した。
 こうした調停は迅速に行われた。と言うのは、このころ、政治上の意見の相違が軍隊内部に広がり、軍の団結が脅かされそうになっていて、レジスタンスを成功させるチャンスも危うくなっていたからだ。さらにシュエが、反ファシスト運動の過程で、BNAを攻撃する宣伝を広めたことから、軍隊内部に憤りが広がり、アウンサンも腹を立てていた。数ヶ月にわたる意見交換をしたあと、1944年8月、アウンサンは、シュエ、タントゥン、バヘェィンと、数日間におよぶ秘密会議を持った。反ファシスト組織に関するアウンサンの提案が討議され、同組織結成へ向けて声明書の草案と、団結行動のための計画案が承認された。
 まもなく、共産党のリーダーとビルマ革命党のメンバーの間で会議が設定され、その席でアウンサンは、「立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ」と題された声明を、ビルマ語で読み上げた。ここに、公式に反ファシスト組織(AFO)が発足、シュエが政治的指導者となり、タントゥンは参謀として対日連合国との連携を担当し、アウンサンは軍事指導者となる。当時ビルマ国軍内には若手将校も何人かいたが、アウンサンは自分の相談相手を、数人のタキン党のリーダーと幹部将校に限定していた。ところが、若い将校たちは、独自にレジスタンスを起こそうと計画した。これを知ったアウンサンは、事態を解決するため、彼らにAFOでの特殊任務を与えた。
 国内勢力の統一が終われば、あとは対日連合軍とどのように連携していくかを決めさえすれば、レジスタンスの計画は完了する。アウンサンとAFOのリーダーは、外部からの援助があろうとなかろうと、、日本に抵抗して立ち上がろうと決めていたが、連戦連勝の連合国の協力が得られれば、さらに有利になることは明らかだった。
 結局、イギリスの明白な理解が得られないまま、1945年3月27日に対日反乱は開始され、国中のビルマ軍が日本に反抗して立ち上がった。その10日前、アウンサンはラングーンで記念行進に参加し、それが終ると「作戦行動」のために、部下とともに首都を抜け出した。イギリス人将校スリムの第十四連隊は、すでにマンダレー北方のイラワジ河を渡っており、タントゥンもイギリス軍将校との会合を試みるためタウングーへ発っていた。対日反乱は一気に盛り上がった。
 5月15日、アウンサンは部下の将校を伴って、スリムをその本部に訪ねた。そのあとの会談で、アウンサンは大胆にも、自分はビルマ臨時政府の代表であると名乗り、ビルマにおける連合軍の指揮官の地位を要求した。しかし、このイギリス軍将校から最大限の譲歩を引き出そうとしながらも、アウンサンは自分が現実的で、協力的で、正直な人間であることを相手に分からせ、スリムの好意と尊敬を勝ち取ったのである。スリムはこう言っている。
 「彼から受けた最大の印象は、いわゆる誠実さだった。いいかげんな安請け合いを並べ立てたりせず、はっきりと公約することも躊躇していた。だが、もし何かをやると約束すれば、その約束は必ず実行する男だろうと思った」
 アウンサンとスリムとの会見後、ビルマ軍と連合軍は日本軍に対抗して共同作戦をとり、日本軍はあっと言う間に崩れ去った。6月15日、ラングーンで戦勝パレードが行われ、大英帝国と連合軍を代表する部隊とともに、ビルマ軍も参加した。対日反乱は終った。ビルマの民族主義者たちにとって、イデオロギーの違いや個人的意見より共通の目的が優先された。最も素晴らしいときであった。
 1945年8月、AFOは拡大して、広範囲にわたる社会団体、政治組織や個人を含むことになり、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)と改名した。

 


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