真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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不敬罪、相馬屋事件「天皇ごっこ」

2020年06月16日 | 国際・政治

 「明治秘史 不敬罪”天皇ごっこ”」石堂英人(三一書房)は、戦争に関する歴史の流れだけを追いがちな私に、生きた人間の複雑な思いや、現実に生起する人間社会の出来事には、入り組んだ矛盾が存在することを教えてくれる興味深いものでした。

 なぜなら、大のおとなが、大金を注ぎ込み、周到な準備を重ね、みんなでしっかり役割分担をして「ごっこ遊び」に興ずるということも、また、それを知って、不敬ではないかと騒ぎたてたのが、当時の自由民権派の新聞『庄内新報』の記者、本間定吉であったということも、さらに、「天皇ごっこ」に興じた関係者が、女官に扮した芸者たちも含めて全員逮捕されるという事態に至ったにも拘わらず、天皇絶対のあの時代に、何故か無罪になり、その後少しも社会的地位を失うことなく復活することができたということも、常識的な感覚では、理解できないからです。

 それは、やはり戊辰戦争で、最後まで薩長を中心とするいわゆる「官軍」に抵抗した酒田の人びとの複雑な思いや、そうした思いを共有する人たちの様々な人間関係抜きには理解できないことなのだろうと思います。

 また、著者・石堂英人氏が「終 日枝神社の大絵馬」で書いている、下記のような事実は、現在もなお、天皇の存在が、日本人にとって重大であり続けていることの証であろうと思います。

 ”私は、これまでに書いてきた原稿を、四年間にわたって『新雑誌X』という雑誌に連載した。誌名に見るようにこの小誌は決してメジャーな雑誌ではない。けれども編集長の丸山実氏は私の友人であり、また気骨の人であったから、天皇制について批判的なこの作品を快く載せてくれたのである。ついでにいえば、一見「自由」を謳歌しているように見えるわが国のマスコミは、相変わらず、”菊のタブー”に弱い。だからどの雑誌社を訪れても「不敬罪天皇ごっこ」という題名を聞いただけで迷惑そうな顔をする。そして最後には「今のところ当社では……」と口を濁して慇懃に断るのである。
 小説にも作者の主体的な理由に基づく発表のタイミングがある。私も雑誌社が”菊のタブー”を嫌がるというそんな下らない理由で、発表の時期を失したくない。だからいい加減なところでメジャーな雑誌社へのアプローチをやめることにした。そしてこの作品の連載を、友人の丸山氏の雑誌に託すことにしたのである。いずれにせよ、天皇の問題に関する限り、わが国のマスコミは自らの意志で「自由」を放棄しているのが現状なのだ。

 だから私は、酒田の人たちが茶飲み話のなかで「馬鹿なごどしたもんだの」と言いながら、それでも結構楽しそうに、しばしば話題にし続けていることに対する著者の、下記のような考察は正しいのだろうと思います。

ところで、この話が話題になる背景には二つの要素がある。ひとつは金持連中に対するやっかみと揶揄である。金があって暇を持てあましているから、そんな馬鹿げた遊びができたのであり、彼らの逮捕はいわば因果応報だというのである。もうひとつは、天皇に対する屈曲した心情である。もちろん戦前の天皇は絶対であった。酒田の人いえども、天皇が神のごときものだと教育された点では、他の土地の人びと変わりはない。にもかかわらず、天皇というのは、本当に有難いものだったのかというかすかなとまどいが、この話を好んで話題にする人びとの潜在意識にある。もし、天皇が神聖にして侵すべからざるものであるなら、そもそもこんな事件が起るわけがない。口にこそだしては言わないまでも、そうした思いがこの不敬事件にはこめられている。

 それは、「古事記」や「日本書紀」の神代の物語を歴史的事実とし、唐突に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされたこと、そして、封建時代に形づくられた儒教的な思想と天皇の存在を結びつけ、強引に君臣間の道徳遵守を強制する明治政府の天皇絶対の考え方が、当時の人たち、特に戊辰戦争で賊軍とされて戦いに敗れた人たちには、素直に受け入れ難いものがあったからではないかと思います。

 だから、秘かに実施された「天皇ごっこ」の事実は、現在の日本人の”菊のタブー”の精神構造にもつながるものではないかと思います。かつては、政治権力を恐れ、今は右翼勢力の脅しや暴力を恐れ……
 

 下記は、「明治秘史 不敬罪”天皇ごっこ”」石堂英人(三一書房)から「序 相馬屋事件取材ノート」を抜粋しました。 
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               序 相馬屋事件取材ノート

 明治二十六年(1893)一月二十八日、山形県庄内の港町酒田において、一大不敬事件が発生した。今日の酒田は人口十万の田舎町に過ぎないが、昔は、”東北の堺”とうたわれ、日本海沿岸では有数の殷賑を極めた商都であった。
 その酒田の豪商たちが集まって、宮中宴会の真似ごとをし、中の一人が恐れおおくも明治天皇に扮し、ひどくご機嫌であったというのである。ご機嫌であったのは彼だけではない。当時の”ミス酒田”というべき料理屋の娘は皇后の衣装を着せられ、大満足の体であったし、参集した他の豪商たちも、それぞれ大礼服を着用して大臣・参議に扮し、美人ぞろいの芸者による女官のお酌を受けて、実にいい気分だったのである。
 思えば何が楽しいといっても、こんなに愉快なことはあるまい。なにしろ絶対君主の天皇になって、豪勢に酒を飲むというのだから、面白くなかろう筈がない。それに他の連中にしたって玉(天皇)を担ぎだして権力を掌握した薩長の大臣になったのだから、戊辰戦争で西南の雄藩に痛めつけられた東北人としては、溜飲の下がる思いであったろう。
 こんな面白い遊びを考えだした人の才を称えるべきであろうが、好事魔が多し、彼らの楽しい大宴会は、官憲の知るところとなり、たちまち全員が不敬罪の容疑で逮捕されたのであった。警察に呼ばれた人の中には女官に扮した芸者たちもいたわけで、芸者遊びの好きだった酒田警察の署長も、なじみの女の前で謹厳な表情を取り繕うのに大いに苦労したらしい。
 それに逮捕者の大部分は、町の富豪であるばかりでなく、県議会議員、町会議員という要職にある人物だったから、酒田の町は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
 明治二十六年といえば、今から九十数年前になる。親子の代でいえば三代以上も過ぎている。あらゆる事件は世の星霜とともに忘れられてゆくが、酒田では今もこの話が、しばしば人びとの話題になる。
「昔だばこんだごどあったけぜ……」
 というわけで、要するに笑い話の種になっているのだ。私の母は酒田生まれであり、東京で結婚して私を産んだ。その私が縁故疎開で数年間酒田に暮らしていたときも、しばしば大人たちの茶飲み話の中で、このことを耳にしたことがある。
「馬鹿だごどしたもんだの」
 といいながら、それを話題にするときの大人たちは結構楽しそうであった。
 ところで、この話が話題になる背景には二つの要素がある。ひとつは金持連中に対するやっかみと揶揄である。金があって暇をもてあましているから、そんな馬鹿げた遊びができたのであり、彼らの逮捕はいわば因果応報だというのである。もうひとつは、天皇に対する屈曲した心情である。もちろん戦前の天皇は絶対であった。酒田の人といえども、天皇が神のごときものだと教育されていた点では、他の土地の人びとと変わりはない。にもかかわらず、天皇というのは、本当に有難いものだったのかというかすかなとまどいが、この話を好んで話題にする人びとの潜在意識にある。もし、天皇が神聖にして侵すべからざるものであるなら、そもそもこんな事件が起るわけがない。口にこそだしては言わないまでも、そうした思いがこの不敬事件にはこめられている。

 とするなら、天皇に対するそうした潜在的な疑問とは、一体何だろうか。その第一は明治維新の在り方にある。長い間日本という国は、少なくとも十二世紀以降は権威の象徴である天皇と、実際の政治権力を握る幕府の二本建てでやってきた。途中に後醍醐天皇の「建武の中興」があるが、長い目で見ればそれは、政治的失敗作の線香花火に過ぎない。ところが、明治以降二本建のバランスが崩れて、天皇が前面にのしかかってきて以来、一般の人びとには少しもいいことがなかった。
 実態としては、従来の幕府に代わって天皇を担ぎだした薩長の連中が、新しい権力を手中にしたに過ぎない。だが、いずれにせよ、幕府と天皇という二元構造が消滅した結果、為政者になりかかった天皇は、人びとに一層酷薄な顔をもつようになった。さすがにその失敗に気づいた黒幕たちは、国民は天皇の赤子であるという考え方を生み出す一方で、天皇の神格化を強引にすすめた。けれども、これがまた元来非宗教的な民族である日本人にとっては失敗だったのである。
 マリアの処女懐胎や、キリストの復活を信じることのできない日本人に、現人神が信じられるわけがない。従って天皇は、信仰の対象としてではなく、「制度」として定着したのであった。現人神を信じたように見える人がいたとすれば、それは信じた振りをする方が生活に便利だからである。信仰とかイデオロギーなどは便所紙みたいなものだと誰かがいったが、権力者がそれを押しつけている間はさからわない方がいい。それが庶民の知恵というものだろう。しかし、本音のところでは、ギクシャクしているのである。いわばその象徴が酒田の「天皇ごっこ」ではなかったか。そう思って、私が明治二十六年の不敬事件を調べ始めたのは、十数年前のことである。

 私は何度も酒田に足を運び、まず酒田の郷土史の本を調べてみた。この事件は宮中宴会の会場となった酒田の料亭、相馬屋の名をとって、「相馬屋事件」といわれている。事件がユニークなものだけに、大抵の郷土史の本は、何らかの形でこの事件にふれている。例えば昭和三十三年に発行された『酒田市史』(下)にも「相馬屋一件」として、この事件のあらましが書かれている。
 その他に地元の佐藤三郎が書いた、『酒田の本間家』(中央企画社刊)ほか、五、六冊の郷土史に関する本にも事件に対する記述があり、さらに昭和五十八年十月十三日の『山形新聞』紙上でも「酒田市制50周年記念特集」の一環として、九十年前のこの事件を取り上げている。それらを総合して分かったのは次のようなことである。

① この事件を起こした富商たちは、いずれも明治二十二年に結成された「飽海(アクミ)有恒会」のメンバーである。明治十年に酒田には政治結社として「酒田尽性社」が結成された。それはやがて明治十四年に「飽海協会」と「飽海農談会」に分裂し、前者は明治十六年に「庄内自由党」となってラジカルな自由民権運動を展開する。一方の「飽海農談会」は、郷土の産業開発を主目的とする団体となり、前述の「飽海有恒会」に発展したのである。したがって有恒会の会員には富裕者が多く、この団体は「庄内自由党」と対立しながら、産業の振興を計る今日の経団連のようなものだった。「天皇ごっこ」はこの保守派の有恒会の連中が引き起こしたのである。

② 実際に逮捕されたのは、県議大泉長治郎、町議森重郎ら、有恒会のメンバー十七名である。この中の森重郎は、庄内最大の反権力闘争「ワッパ騒動」(明治六年~十一年)を指導した自由民権の活動家、森藤右衛門の一族である。

③  天皇ごっこの催しは、約一ヶ月ほど前から周到に準備され、天皇、大臣、参議の大礼服、皇后、女官の衣装はすべて京都及び東京から取り寄せられた。そして事件の二日前の一月二十六日には、「宮中風の大宴会催し候に付、大礼服着用、相馬(屋)内裏へ参朝有之度……」という案内状が仲間のところに届けられた。なお、彼らは宮中の儀式や料理、酒についても事前に調査して、極力本物に近い宴会をめざしている。

④「天皇ごっこ」は一月二十八日の夕刻、酒田今町の料亭相馬屋の二階大広間において行われた。各自が参集すると「諸卿早速の参内大儀也」と挨拶を交わし、君が代が演奏され、一同敬礼の上、各自の席に着席した。この時、天皇に扮したのは県議の廻船問屋越後屋こと大泉長治郎である。皇后に扮したのは美人で評判の相馬屋の姉娘。また、白綸子(シロリンズ)の上衣に真紅の長はかまという衣装の女官たちは、いずれも相馬屋がかかえる芸娼妓であった。彼女らは緑の黒髪を切り下げ、頭にびらびらのついた冠をかぶり、長柄の柄杓で酒を酌んで歩いた。部屋の奥の欄間には、菊の御紋を染抜いた紫の幔幕が張られ、中央には一段と高い雛壇がおかれた。当日相馬屋では、朝からものものしい準備をはじめ、この大宴会については緘口令をひいた。特別の人以外には会場となった二階に上ることは禁止され、廊下をうろつくことも差し止められた。一階の客はなるべく部屋からださないようにした。

⑤ 関係者以外で、最初にこの秘密の催しを知ったのは、当時の自由民権派の新聞『庄内新報』の記者、本間定吉である。当日彼はたまたま相馬屋の一階で酒を飲んでいたが、あたりの様子がいつもと違うことから、店の女たちにさまざまのことを聞きだし、ついに二階では不遜にも「天皇ごっこ」が行われていることを知った。翌日彼は、さっそく「一大不敬事件」として、事件のあらましを新聞に発表した。一方、これとは別に酒田署には二、三の密告があった。氏名は密告者の常で分かっていない。

⑥ 事件が明らかになるにつれて、『庄内新報』はさらに厳しい不敬罪キャンペーンを開始した。一方、有恒会系の地元紙『商業新報』は、この事件を専ら弁護する立場で報道し、事件は民権派と有恒会の対立抗争という根の深いものに発展した。

⑦ 不敬罪の疑いで警察が関係者を逮捕し、家宅捜査を行ったのは、事件から一週間が過ぎたニ月四日である。関係者は町の富豪ばかりであり、警察としても逡巡はあったが、騒ぎがそこまで大きくなった以上、放置することはできなかった。

➇ 警察の調べに対して被告側は、金に糸目をつけず「東京から花井卓蔵という一流の弁護士を呼び寄せた」と前出の佐藤三郎氏は書いている。結果は事件から一ヶ月後に免訴となり、被告一同は釈放された。ただし、取調べの経過は記録がなく全く分かっていない。他に事件のもみ消しのために、被告たちが大量の金をばらまいたという噂もあるが、その真偽は不明。なお、その後の被告たちは、この事件によって少しも社会的地位を失っていない。

➈ 事件の翌年、明治二十七年になると、自由民権の壮士芝居を演ずる朝日太郎が秋田から酒田に巡業にやってきた。彼はさっそく「相馬屋不敬事件」を何幕かの芝居に仕立てたが、何故か警察に逮捕され、三ヶ月も獄につながれている。なお、同じこの年の秋には、酒田をはじめとする庄内地方に未曽有の大地震が発生した。この地震は折からの強風で大火災を発生させ、酒田は壊滅的な被害を受けた。人びとの中には「天皇ごっこなどするから罰があたった」という人もあった。当時の政府は日清戦争に夢中で、この大災害に対する援助の手は一切さしのべなかった。ただし、「天皇ごっこ」の不敬を知ってか知らずか、天皇家からは四千円の災害見舞金が下賜されている。

➉ 以後酒田にあっては、「天皇ごっこ」のことは表むきタブーとされながら、今日まで秘かに語りつがれてきた。

 私が調べることができたのは、たったこれだけである。これでは「天皇ごっこ」をするに至った詳しい動機も、彼らが不敬罪に厳しかったあの時代に、何故無罪になったのかも分からない。しかもお気づきのように、私は何ら「直接資料」にあたったわけではなく、郷土史の本という「間接資料」にあたったに過ぎない。
 だが、直接資料にあたることは事実上不可能であった。今となっては当時のことを見聞している人が生きている筈もなく、その頃の地元紙の『庄内新報』や『商業新報』は、酒田はもとより東大の明治文庫、新聞研究所、国会図書館にもないのである。さらに、当時の酒田警察の調書も残っていない。わずかに山形地方裁判所酒田支部の「予審終結署」が残っているだけである。
 ・・・
 さて、結論を急ごう。結局私の取材は、「相馬屋事件」の詳細を解明するにいたらなかった。だが、たったひとつだけ興味深いことに気がついた。それはこの事件を不敬罪として騒ぎたてたのが、他ならぬ自由民権派の連中であり、弁護にまわったのが保守派の有恒会であったということである。
 もともと事件は有恒会の金持連中が引き起こしたことであり、有恒会が弁護にまわるのは当然である。しかし、保守派の有恒会の人びとに天皇ごっこをしてみようという発想が生まれたのは、一体どういうわけか。資料がないので多くを語れないが、ひと言でいうなら、それは酒田の商人たちの心意気と自信ではなかったか。江戸期以前から酒田には、堺と同じような「三十六人衆」による町人の自治組織があった。彼らは大筋のところで庄内藩や明治政府に従ったとしても、心の底では武士や薩長政府なぞ何するものぞという気概があったのである。だからこそ、薩長政府が天皇を担ぎだすのなら
、こちらが天皇になってやったって別に構うことはないではないか。彼らはそう思ったに違いない。 
 庄内藩や各大名と結託した豪商の本間家や中央の御用商人ならいざ知らず、武士や天皇が直接商人に利益をもたらしたことは一度もないのである。そういえばこの「天皇ごっこ」に当時の日本一の豪商、本間家が参加していないのは興味深い現象である。

 それにくらべて、酒田の自由民権派はいささかヒステリックである。民権の自由を訴え、国会開設を要望し、時には貧民の救済と結びついた彼らのスローガンが、何故天皇の不敬罪とだけは合致するのか。金持連中に対する貧しいものたちのひがみ根性という動機だけなら私にもよく分かる。
 しかし、彼らがそのひがみ根性のために、「天皇ごっこ」を不敬罪として糾弾したとき、実は彼らは自らの首を自らの手で締めていることにならなかったか。そこに自由民権運動の未熟性と限界があったのである。それは「自由党」がどういう方向に転換し、結局いかにして民衆を裏切っていったかというその後の歴史が見事に証明している。
 といって、私は明治初期の自由民権運動を決して否定するものではない。酒田と庄内には十年近くねばり強く闘われた「ワッパ騒動」という、全国にさきがけた反権力闘争の実績があるのであり、もしその精神が国会開設後にしぼむことなく、相馬屋事件の明治二十六年ごろにも生きながらえていたら、この事件は別の方向をたどったことだろう。そんな思いに駆られながら、私はその後もこの事件をこつこつと調べ歩いた。そしてようやく「事件」の発端となったと思われるあるものにぶつかったのである。


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日本の内戦構造 (ななしさん)
2020-06-24 09:31:11
●日本の内乱の可能性
日本は、戦後70年間に渡り防衛を米軍に頼ってきた。それは日本の天皇家が日本陸軍と対立し、陸軍勢力を封じ込めるためにアメリカ軍を駐留させている経緯があったからだ。米軍が撤退すると、陸上自衛隊に巣くう旧陸軍(バックにロスチャイルド)が蠢き始め、国内で内乱を起こす危険性がある(日本の政治構造については、別途分析が必要)。日本の政権はロシアに頼るしかなくなる。(※アメリカ・中国が崩壊していく中で、ロシアが世界の防衛・秩序化を担っていくだろう。)
日本は、危機時こそ秩序収束する国民性(縄文体質)から、国民による暴動の危険性は、ほぼゼロ。しかし戦国時代よろしく、朝鮮由来の支配層による内乱が起こる可能性は捨てきれない。現在からは予想できない、非常な困難が予想される。
ttp://blog.nihon-syakai.net/blog/2020/06/10251.html


私は、ここに一面の真理があると思います。
戦前と戦後の日本を見る時、重要なのは、陸軍と海軍の間に内戦構造があったということ。
そして、太平洋戦争を利用して、海軍は内戦に勝った。
しかし、陸軍は降伏せず、大陸に残置勢力を残し、中共やソ連と手を結び、海軍(+在日米軍)に支配された政府に対し抵抗運動を続けて来た。
その背景にあるのが、南朝と北朝の対立で、実はこれが、日本の歴史の背骨を貫いています。
日本の歴史が動くとき、常に二つに割れます。
その核にあるのが、南朝勢力と北朝勢力の対立です。
彼らの血脈は、ずっと生きています。表から見えないだけです。
何故見えないように争っているかというと、支配すると言う点では共通の利害を持っているからです。
バレたら革命が起きてしまう。革命はさせないという点で南朝と北朝は協力しつつ争っています。
これが日本が安定して続いている秘密でもあります。
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面白い話ですが… (syasya61)
2020-06-24 22:01:58
ななし様

>それは日本の天皇家が日本陸軍と対立し、陸軍勢力を封じ込めるためにアメリカ軍を駐留させている経緯があったからだ。

>陸軍と海軍の間に内戦構造

>南朝と北朝の対立で、実はこれが、日本の歴史の背骨を貫いています。
には、その根拠が求められます。面白い話ではあるのですが、そして、そう考えられるような事実がないわけではない、とは思いますが、断定には無理があると思います。
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