真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカのマルコス支援とウクライナ戦争

2022年11月21日 | 国際・政治

 これまでアメリカを中心とするNATO諸国とウクライナが一体となって進めてきたウクライナ戦争が新しい局面に差し掛かっているように思います。
 ロシアによる「侵略行為」を強く非難し、2月の経済制裁以来、次々に一致して制裁を発動してきたNATO諸国の中には、このままウクライナ支援を続けると、政権が持たないという危機に直面している国があり、アメリカが、NATO諸国の結束が維持できない恐れが出てきたと判断したのではないかと思います。

 それは、ウクライナの隣国ポーランドの領内にミサイルが着弾し、2人が死亡した問題に対するアメリカの対応やNATO関係者の発言から察せられます。
 ゼレンスキー大統領は、ポーランドのミサイル着弾発表直後に、”NATO加盟国に対するロシアの意図的な攻撃だ”と強く非難し、”NATOの行動が必要とされている”と訴えました。
 でも、バイデン大統領は、”軌道からみてもロシアから発射された可能性は低い”と述べ、ゼレンスキー大統領の主張を否定しました。驚きました。専門家は、バイデン大統領の発言を受けて、”アメリカ諜報機関によるミサイルの軌道解析などから、そう結論したと思われる”などと語っていましたが、ロシアを一層孤立化させ、弱体化させる絶好の事件であるにもかかわらず、今までと異なる対応をするのは、そうせざるを得ない状況に陥っているからではないかと私は思います。
 原子力発電施設に対する爆撃などは、ほとんど調査されることもなく、ロシア側の爆撃であるかのように語られてきたと思います。「軌道解析」がどのようになされているのか、詳しいことはよく知りませんが、今回だけ、アメリカの諜報機関による軌道解析などで判断されるのはどうしてか、と疑問に思います。
 また、あちこちから一斉にゼレンスキー大統領を批判したり、非難したりする声があがっていることも、アメリカが戦略や戦術を変更せざるを得ない状況にあることを物語っているように思います。
 EU諸国やNATO関係者はもちろん、ウクライナ戦争を主導するアメリカ国内でも、”世界を新たな戦争に導こうとした”とゼレンスキー大統領を非難する声があがり、中には、”ウクライナのミサイルがNATO加盟国に着弾し、罪のない一般市民が殺された。これについてウクライナの指導者たちは嘘をつき、ロシアのミサイルだと非難した”と、これまでには考えられないような声が上がっているようです。
 
 日本でも、森喜朗元首相が、都内で開かれた日本維新の会の鈴木宗男参院議員のパーティーで、”ゼレンスキー大統領は、大統領として多くのウクライナの人たちを苦しめている。のみならず、ポーランドをはじめとして、ヨーロッパにいるかつての仲間の国々もみな苦しんでいる”などと、発言したといいます。私は、アメリカのウクライナ戦争の戦略や戦術の変更を踏まえての発言だろうと思います。

 人間とは、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた「人」のことであると言われます。
だから、人間の社会に属さない人は、人間の範疇の外にあるといいます。それを踏まえてアメリカという国をみれば、その本質は、アメリカが他国とどのように関わってきたかということで示されると思います。
 だから、アメリカのフィリピンに対する関わり方も、ウクライナ戦争のとらえ方に、様々な示唆を与えてくれると思います。
 下記は、「アキノ大統領誕生 フィリピン革命は成功した」ルイス・サイモンズ・鈴木康雄訳(筑摩書房)から抜萃しましたが、フィリピンに対するアメリカの関わり方は、レーガン大統領の
フィリピンを狼の群に投げ与え、太平洋に共産国が出現する状況に直面するよりは、現政権との米比友好関係を維持し、フィリピンが抱える現在の欠陥を是正するよう手助けする方が賢明な方策だと思う”という主張に象徴されると思います。この考え方は、その他の国に対する時も、ほとんど変わりはないのだと思います。朝鮮、インドネシア、ベトナム、などと同じように、共産主義勢力を潰すためなら、非民主的で、残虐な独裁政権とも手を結び、内政干渉もするということだと思います。
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                   7 アメリカの盟友マルコス

 ニノイ・アキノを故国に引き寄せることになった国会議員選挙は、1984年5月14日実施と決められていた。この選挙で争われるのは、国会200議席のうち183議席だった。残り17議席はマルコスが直接指名することになっていた。大統領の率いるKBLは、改選前の議会では90%以上の議席を支配していた。選挙日が近づいてきたが、改選によって各政党の議席数に大きな変化が出ると予測する人はほとんどいなかった。野党の方は例によって、結束を欠いていた。さらに、これまた例によって、反マルコス派には不利になるような仕組みになっていた。例えば、野党勢力としては最大で最も組織化されていた民主国民連合(UNIDO)から180人が立候補した。しかし、インチキの多いことで悪名が轟いている投票・集計体制を監視するために、同党から各投票所に派遣が認められた立会人の数は僅かに84人にすぎなかった。
 マルコス派が牛耳っている選挙管理委員会(COMELEC)がUNIDO立会人の数を制限するためにあげた公式理由は、規則・法律策定の関係者に大いに参考になるものだった。自党の立会人を派遣することが許されるのは、各地方で「有力(ドミナント)」野党と認定された場合に限られ、UNIDOはフィリピン全土13地方のうち7地方でしか「有力」の”肩書”をもらえなかった。これ以外の地方では、政府派遣の立会人に任させることになるわけだった。これこそ、マルコス政府が進める行政の典型的な手法だった。マルコス以外の政権だったら、支配者は不正投票を工作し、それで事足れりとするだろう。だが、マルコスの場合は、偏執狂的なまでに行政規則を整え、自分は礼節を尽くしたやり方をしているという雰囲気をつくるのである。
 エネルスト・マセダは、アキノが帰国のために新しいパスポートを手に入れようと努めていたころ、ニューヨークでアキノの顧問弁護士をつとめていたが、その後、UNIDOのマニラ首都圏・中部ルソン地区の選挙運動責任者として活動していた。自党の立会人を派遣できずにマルコスとの対決に臨むことについて、マセダは「風車に挑むドン・キホーテ」みたいなもの、と語った。
 しかし同時に、UNIDOや結束を欠いた他の野党グループは、内輪揉めをくり広げていた。かつてマルコスのもとで情報相をつとめ、その後大統領と袂を分かったフランシスコ・タタドはUNIDO候補者としてケソン市選挙区から立候補しようとしたが、公認されなかった。そこで彼は、候補者が4人しかいない社会民主党を結成した。
 ケソン市とマカティでは、UNIDOの候補者3人が、それぞれ異なる理由から、選挙戦の途中で立候補を断念した。その一人ドミンゴ・イホクソンは、「私の親友である市長」が個人的に候補者として選んだ人物に挑戦するのは潔しとしないと語った。ヤブト市長は、イホクソンの長年の友人であり、会社経営のパートナーでもあった。
 反マルコス陣営は、選挙に候補者を立て積極的に闘うか、それとも妨害するかという基本問題についてさえ意見がまとめられずにいた。ニノイ・アキノの弟ブツは選挙ボイコットを呼びかけ、選挙反対の大衆デモの先頭に立った。選挙は「多少クリーン」とさえも言えないだろうと、彼は主張した。ブツ・アキノは、フィリピンの全有権者2千5百万人のうち少なくとも、半数が、独裁政治下での選挙を信頼するわけにはいかないという理由から、選挙をボイコットするだろうという見通しを語った。彼はまた、「マルコスとアメリカは、選挙を実施することでマルコス政権への信頼を高めたいと考えている。したがって、野党候補の四分の一ないし三分の一を当選させるだろう」という予言もした。ブツ・アキノのこの託宜は、最初の項目は外れ、二番目は当り、という結果になった。
 選挙ボイコット運動を展開したブツは、準左翼、左翼過激派の双方から支持を受けた。彼の政治手腕の限界を知っている人々は、主導権を握っているのは、ブツか、それとも左翼グループかわからないと疑問を感じていた。ブツは、その懸念はよくわかっているが、自分としては協力相手をコントロールできると考えていると語った。彼はあるインタビューの中で、「我々はもちろん、お互いに利用し合うつもりだ。そのことは私も承知している。しかし、私が主導権を握り、左翼勢力の上に立つと確信しなければ、こうした行動にはでなかったろう」と語った。ブツは、カンボジアのかつての国家元首ノロドム・シアヌークから教訓を学んでおけばよかったのかもしれない。シアヌークはかつて次のように予言した。クメール・ルージュは、シアヌークが彼らにとって価値があるかぎりは利用するだろうが、やがて「サクランボの種のように」彼を吐き捨てるだろうという内容だった。
 ブツ・アキノがボイコットの熱狂を煽り建てようと懸命になっていたころ、ラウレルとその一家は、フィリピン国民がアキノ暗殺に心底怒りを感じ、自分たちの生活苦に我慢しきれなくなっていると判断した。このことからラウレルは、国民がUNIDOに票を投じないことはあるにせよ、反マルコス感情からマルコスには投票したくないにちがいないと予想した。それどころか、絶好のチャンスが到来するかもしれない、とラウレル派が目をつけていたことがあった。つまり、野党、とくにUNIDO新議会で注目されるだけの地歩を築ければ、次期大統領選で、ラウレルはマルコスに対する挑戦者ナンバーワンとして浮上する強力な立場に立てるということだった。この理由から、彼は議会選挙には立候補せず、その代わり、UNIDOの候補者のために全国をくまなく遊説して全国的な選挙地盤を築くという長期課題に取り組み始めた。彼は、コラソン・アキノはじめアキノ派の積極的な支持を集めることができた。この人たちは、選挙をボイコットするのは正しくないと判断した。
 投票日の5月14日よりはるか以前に、野党候補者たちは、投票日当日にどんなことが起るか思い知らされる事件を体験した。3月末から4月初めにかけ4日間、有権者登録が行われたが、この期間中に有権者名簿には、推定200万人にのぼる不正記載が行われた。不正記載を行うのは、主としていわゆる”韋駄天投票者(イダテントウヒョウシャ)”と呼ばれる人間だった。つまり、KBL(新社会運動)から数ペソをもらい、いくつかの投票所で有権者登録を行い、当日、投票を数回繰り返す貧しい人々である。
その一方で、投票を棄権しようとして登録を行わなかった有権者が300万人いた。選挙ボイコットの呼びかけに共鳴したためだろう。
 有権者が大量棄権の意志を表明したことは、関係者に大きな失望を与えた。その一人が、ホセ・コンセプシオンだった。彼は有力な財界人であり、6か月前に「自由選挙のための全国市民運動」(NAMFREL)というボランティア組織を設立して、その議長に就任した。選挙戦が終盤に近づいたころ、NAMFREL、COMELECという二つの略称はフィリピン全土の”茶の間用語”となった。
 コンセプシオンと彼の新組織NAMFRELは、フィリピンの選挙制度がいかに腐敗しているかをフィリピン国民と全世界に知らせる中心勢力になるはずだった。コンセプシオンは現行選挙制度に不満を覚えていたが、手をこまねいて黙っているような男ではなかった。彼は、旧市街イントラムロスにあるむさくるしいCOMELEC本部の建物に乗り込み、マルコスから任命されたヴィセンテ・サンチアゴ委員長と渡り合った。
 コンセプシオンは財界仲間との会合でジェスチャーをまじえて説明し、国会議員選挙の集計作業にとって決定的に重要となる支持をとりまとめた。この協力とりつけは、この選挙から10か月後に行われることになる大統領選挙では、さらに重要なものとなった。彼がNAMFRELのために考え出したキャッチフレーズは気がきいており、何百万人ものフィリピン国民の心をとらえた。「暗黒を呪うよりは、蝋燭に火をともそう」。
 コンセプシオンはサンチアゴと辛抱強く話し合い、投票にあたっての新規則を彼から引き出した。つまり、投票をすませた有権者は全員、洗ってもこすっても落ちない紫色インクで指にしるしをつけることになった。こうすれば、一人一票以上投票することはむずかしくなるからである。なかなかの名案と思われた。コンセプシオンは喜んだ。ラウレルは、この規則のおかげで野党候補が有利になると語った。UNIDOの関係者がインクのテストをしてみたところ、洗ってもこすっても消えないことが証明できた。ところが、蓋を開けてみたら大違いだった。というよりは、”韋駄天有権者”のほうが上を行っていたというべきかもしれない。投票日当日、指に少量のアルコールか、テレピン油をつけて(あるいは自分の唾をつけてもよかったのだが)こすると、指のインクは消えてしまったのだ。
 脅迫や力づくの騒ぎが相次いで起きたが、それでもフィリピンの全有権者2500万人のうち約90%が、投票を行った。
 コリー・アキノは、UNIDOと亡き夫の組織フィリピン民主党・人民の力連合(PDP・ラバン)との協力を図り、野党勢力結集のため大いに頑張った。その努力は成果をあげた。彼女の演説の基本パターンは、ニノイの暗殺を招くにいたるまでの数々の出来事を列挙することだった。この演説を行うと、聴衆は必ずといってよいほど涙を浮かべて話に聞き入った。コリー自身も、聴衆の方も、この当時はまだ気づかなかったのだが、彼女が選挙遊説のために国民の前に姿を現わしたことで、彼女のイメージは、悲嘆に暮れるアキノ未亡人から政治家コリーに変わっていった。コリーが精力的に遊説したことも加わって、与野党両陣営の予想を上回るほど、有権者は野党候補に大量の票を投じた。正確には、与党候補に票を投じなかった有権者が多かったというべきかもしれない。投票集計の確定票数は、投票日から満一か月がたった6月半ばになるまでまとまらなかった。その理由はおそらく、COMELECがマルコスの指示に従い、得票数の微調整を行ったいたからであり、同時に、NAFRELが集計作業を入念に監視していたからである。
 最終的に、野党側は59議席を獲得した。実に改選前の3倍という伸長ぶりだった。大統領派のKBLは、それまで議席総数の90%を占めていたのが、70%に落ちた。とくにマニラ首都圏で敗北を蒙ったのは、与党にとって手痛い打撃だった。
 800万の人口を持ち、それ以上に重要なことだが、国民生活、政治活動の中心地として内外から注目を集めているマニラ首都圏での勝敗のなりゆきは、政府、野党のいずれもきわめて重視していた。首都圏の頂点に立つのが首都圏知事であり、そのポストを占めているのが他ならぬイメルダ・マルコスだった。こうしたことから、他の地域に比べるとずっともののわかっている首都圏の有権者は、改選21議席のうち僅か6議席しかKBLに与えなかった。フィリピン国民は、明らかに大統領一家に対する不信任であると判断した。
 だが、この選挙結果に対して大統領は、二通りの異なる対応をみせた。フィリピン情勢に神経質になっている外国の投資家たちを安心させるために、まず大統領は「このように与野党がそれぞれ選挙運動を実施できるのは、強力かつ安定した政府が存在する国だけである。同時に、こうした与野党伯仲の結果になったことは、フィリピン政府に得票数をごまかしたり、変更しようというつもりが全くないことを示している」と表明した。その一方で彼は、フィリピン国民が与党に反対票を投じたのは政府の特定の政策に反対だからなのか、それとも国民が「政治指導者の中の特定の人物、たとえば大統領や大統領夫人を非難しているためなのか」見きわめる”徹底的な分析”を行うよう命じた、と言明した。「国民がそうした行動に出たのなら、我々はそのことを知らなければならない。同時に、その理由を突きとめたい」。
 再びマルコスはその真骨頂を発揮した。彼は国民に対し、私やイメルダは国民のことを考えて行動したつもりだが、おそらく裏目に出たのだろう、と釈明したのである。いずれにせよ、事態を究明してみるつもりだ、と彼は言った。多少とも空気を和らげようとして、イメルダ・マルコスは再度、政治の表舞台から姿を消した。彼女は約1か月、公の席に現れなかった。
 現実にはマルコスは、レーガン政権との関係をかなり改善した。米国務省の判断を反映して、マニラの米大使館は選挙結果を肯定的に解釈した。大使館当局は投票が公正かつ清潔に行われたこと、従来に比べれば、格段に思い切った内容の記事をのせる新聞が登場したことは、マルコスがレーガンの改革要請に応じ始めた証拠だと考えた。アメリカの分析担当者の中にはその後1年、こうしたかすかな望みに希望を託し続ける者もいたが、きびしい見方をする専門家には、マルコスが真の改革を行うことなど全く考えていないことが明らかだった。
 現代の国家指導者の中で、フェルディナンド・マルコスほどマキャベリ的な策謀に長けている人物は見当たらない。ブツ・アキノが予想した通り、マルコスの騙しのテクニックは実に巧妙だった。国会への大幅な野党進出を許し、それによってワシントンからは、マルコス政権に対するクリーンなイメージを獲得するという”一石二鳥”を十分に計算していたのは間違いない。それでいて、結局のところ、マルコスは国会をがっちり押さえた。彼が首を振りさえすれば、野党に投票した有権者に対する嫌がらせはいくらでもできただろうし、不正集計もはばかるところなく実行されただろう。反面、マルコスは自分のイメージがどれほど下落したかわかっていなかったのか、それとも選挙の見通しを単純に間違えたのかは別として、野党勢力同様、選挙結果にびっくりしたことは想像に難くない。
 いずれにせよ、功労者はコンセプシオンとNAMFRELに違いなかった。NAMFREL集計作業監視のため、実に45万人という驚くべき数のボランティアを動員した。教会の支持があったため、NAFRELには大量の一般市民が参加した。もしこの教会の支持がなかったとしたら、市民たちは、KBLが金で雇った荒くれ男たちや、”韋駄天有権者”たちと対決する危険を冒さなかっただろう。コンセプシオンは、8600万ドルの資産を持つリパブリック製粉会社の社長だった。彼の地位と名声のおかげで、進んでボランティアとしてかけつけた上流階級の女性たちをはじめ、コンピューターを貸し出してくれた会社にいたるまで、社会的地位の高い人々や企業の支持を集めることができた。コンピューターという高度技術のおかげで、NAFMRELは、COMELECが上部の決裁を得た数字を発表するはるか以前に、自前の集計速報を行い、開票状況を発表することができた。
 マルコスが予知できなかったことの一つは、国会議員選挙を戦ったことで野党が大いに元気をつけたことだった。国会を支配したのが依然としてマルコスであることには変わりなかった。しかし、反マルコス派は微々たるものとはいえ、勝利の美味を味わった。

反マルコス派は、新たに獲得した力を仲間内のいがみあいにではなく、KBLとの闘いに使いはじめた。結束を欠く野党勢力の中で個人的にはなおいがみ合いが続いたが、数え切れないほどの野党支持者が投票所へ押し寄せたことで、選挙ボイコットを主張していたグループの活動は終った。ブツ・アキノと彼を支持する穏健派勢力は選挙前、公正な選挙の実施はとても期待できないと考えたが、有権者が投票したいのなら妨害はしないという態度をとった。ところが、選挙後、ブツ・アキノ派は完全に反マルコス派に合流した。
 ワシントンの見方は、穏健な反マルコス勢力が成長することはないだろうというものだった。総選挙からちょうど5か月がたったとき、レーガンは世界に向って、マルコスが退陣すれば、その後に進出してくるのは共産党しかありえないと表明した。10月21日、レーガンはカンザスシチーでの大統領選候補討論会で、ウォルター・モンデール民主党候補から「フィリピンが第二のニカラグアとなるのを防ぐため、あなたは何をしなければならないか。また、何ができるか」と質問を受けた。レーガンはフィリピンをパーレヴィ国王退位前のイランになぞらえた。両国の情勢、とりわけフィリピン共産党とイスラム原理主義を同一視することは誤りだが、この類推は、パーレヴィ国王とマルコスをアメリカの友人であるとみなすレーガンや保守派の人々には受けた。この人たちは、イランとフィリピンの国内情勢の違いには目を向けなかった。
「パーレヴィ国王は長年にわたって、我々の求めに応じて行動し、中東情勢におけるアメリカの利益のために働いてくれた。我々がパーレヴィ国王の退陣に手をこまねいていたのは、アメリカの歴史の汚点だと思う。国王退陣のあと情勢は好転しただろうか。パーレヴィ国王自身に問題があったにせよ、とにかく国王は低廉な住宅を建設し、ムラー(イスラム教シーア派僧侶)たちから土地をとりあげて農民に与え、自作農化した。ところが、我々はイランを狂信的な過激派指導者に引き渡してしまった。その結果、何十万という国民が、”処刑”の名のもとに虐殺された」
 レーガンはイランとフィリピンの情勢を比べながらさらに続けた。「民主的権利という観点からすると、我々にとって現在望ましいとは思えない事態がフィリピンに存在していることを私は知っている。しかし、それに代わる選択はなんだろうか。それは、フィリピンを支配しようとする大がかりな共産主義運動である。フィリピンは国家誕生以来、アメリカの友人である。過去の歴史を振り返ると、政権交替の選択として我々より右寄りと思われる人物に、革命の名のもとに権力を握らせ、最後はまさに独裁主義そのものに帰着した例はいくらでもある。したがって、例えばフィリピンについていえば、フィリピンを狼の群に投げ与え、太平洋に共産国が出現する状況に直面するよりは、現政権との米比友好関係を維持し、フィリピンが抱える現在の欠陥を是正するよう手助けする方が賢明な方策だと思う」。
 マルコスが政権の座を降りた場合、在フィリピン米軍基地の存続は危くなるか、という質問が出た。レーガンは、マルコスに取って代わるものがあるとすれば、共産勢力以外には考えられないから、マルコス退陣がアメリカの戦略的利益にとってマイナスに作用するのは間違いないと答えた。
 マルコスは、大統領のこの発言を”御用新聞”を通じて利用した。穏健派反マルコス勢力はレーガン発言に仰天し、裏切られた思いにかられた。フィリピンの野党勢力が総選挙で意義のある勝利を収めたにもかかわらず、その僅か2、3か月後に、アメリカの大統領は依然として現政権を強く支持することを明確にしたからだ。レーガン政権は、大統領が失言したことに気づき、直ちに釈明して、「フィリピンには、民主的変革のために努力している勢力がマルコス大統領の他にもあることは、だれの目にも明らかである」と述べた。
 ジョン・ヒューズ米国務省報道官は、大統領の発言の真意について補足し「フィリピンはアメリカの頼もしい同盟国であり、アメリカのフィリピン政策は、我々が希望する変化と改革をフィリピンに実現するため、マルコス政権と協力することである」と語った。ヒューズは、大統領の弁護を続けながら、「フィリピンでは共産ゲリラ活動がきわめて活発である。万が一、非民主的な方法による政権の交代を求める勢力があるとすれば、それは共産勢力である可能性が強い。したがって、当然ながら、そうした事態はアメリカにとって満足できるものではない」と語った。
 しかし、すでに波紋は拡がっていた。レーガンのコメントは結局のところ、マルコスか共産主義者かという選択であり、フィリピンの穏健派野党勢力の人々は、アメリカに支援を求めてもむだだ、と感じた。だがホワイトハウスの方は、そうしたフィリピン側の反応にあまりこだわらなかった。国会議員選挙が比較的公正だったことに望みをつなぎ、マルコスに対して、もう一つ別な改革の実行を迫った。国軍のファビアン・ヴェール参謀総長をはじめ、退官年齢を超えている将官27人を現役から引退させるよう、マルコスに求めたのである。しかし、この要求はマルコスにとって、わかりましたと応じるにはあまりにも難題だった。というのも、こうした将官が身も心も抛って忠誠を尽くしてくれるからこそ、退官年齢を過ぎても現役に引き留めているのであり、彼にとって是非とも必要な人間だったからだ。アキノ暗殺とアグラヴァ委員会の公聴会実施の結果、軍部は痛手を受けたが、中でもいちばん評価を落としたのはヴェール大将だった。ホワイトハウスの考え方は、ヴェールさえ交替させれば、残りの軍首脳は簡単に一掃できるだろうというものだった。ヴェールをどこかの大使に任命し、現役を引退させれば、フィリピン、アメリカ双方とも納得できるという筋書だった。
 さらに一般的な言い方をすれば、レーガン政権が求めていたことは、フィリピン軍部の「プロ軍人化」だった。つまり、マルコスへの忠誠度だけを基準にして昇進した軍首脳を引退させ、戦場で実力を示したプロの軍人を登用しようということだった。当然ながら、待ちぼうけを食わされていた中年過ぎのかなりの数の大佐は、この改革を支持した。将軍の中にも賛成派がいた。いくら軍歴を積んでも、昇進の見込みはないに等しい状態だったからだ。こうした軍人たちの筆頭にいたのがフィデル・ラモス中将だった。中将は軍部ナンバー2のポストにいたが、実は、ヴェール大将がラモス中将を追い越して最高ポストについた経緯があった。「プロ軍人化」の実施をだれよりも望んでいたのが、実はラモスだった。


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