備忘録として

タイトルのまま

破斯(ペルシャ)

2016-10-08 19:33:39 | 古代

          

やはり古代の奈良にペルシャ人がいた。

10月6日付け奈良新聞の考古学欄に、「波斯清通」という名前の書かれた木簡(上の写真)が平城京跡で見つかったという記事が載った。右上は奈良文化財研究所が撮った赤外線写真で、”波斯”を赤枠で囲った。波斯はペルシャのことで、530年頃の梁職貢図(下の絵)にも同じ漢字が使われている。木簡は天平神護元(765)年に役人を養成する役所「大学寮」が式部省に宿直勤務を報告した記録だという。当時、遣唐使が行った長安の街には大勢のペルシャ人がいたし、正倉院の宝物の中にペルシャ起源の工芸品があるように、8世紀の日本にペルシャ人がいても不思議はないのである。職貢図に描かれたようなペルシャ人が古代日本の役所にいたと思うと楽しい。

正倉院のペルシャ起源の宝物 左より白瑠璃碗、螺鈿紫檀琵琶、羊木臈纈屏風 (宮内庁正倉院ホームページより)

新聞記事は、天平8年(736)に遣唐使船が波斯(ペルシャ)人一人を伴って帰朝し天皇に謁見したという続日本紀の記録があり、木簡の人物はそのペルシャ人と関係があるのではないかとする。続日本紀のその箇所は以下のとおり。

天平八年

八月,戊申朔庚午,入唐副使-從五位上-中臣朝臣-名代等,率唐人三人,波斯人一人,拜朝.

十一月,丙子朔戊寅,天皇臨朝.詔,授入唐副使-從五位上-中臣朝臣-名代,從四位下.故判官-正六位上-田口朝臣-養年富、紀朝臣-馬主,並贈從五位下.准判官-從七位下-大伴宿禰-首名、唐人-皇甫東朝、波斯人-李密翳等,授位有差.

天平8年(736)、8月、遣唐副使の中臣朝臣名代らが、唐人3人とペルシャ人一人を率いてもどり、天皇に謁見した。11月、遣唐副使の中臣朝臣名代に従四位下を授け、唐人の皇甫東朝とペルシャ人の李密翳に位を授けた。この二つ以外に”波斯”の文字は見つからなかった。

続日本紀の736年や木簡の765年はちょうど阿倍仲麻呂が唐にいた時期(716から770年)で、7世紀中頃にムハンマドの後継者に滅ぼされたササン朝ペルシャの遺民たちが唐に亡命していた。その中の一人が遣唐使といっしょに日本に来たということだろう。奈良新聞に、奈良文化財研究所の渡辺晃宏・史料研究室長が「当時の平城宮が、外国人も分け隔てなく役人に登用する国際性を持っていたことが分かる史料」と語っている。阿倍仲麻呂が唐朝で重用されたことに通じる。今の日本の地方自治体には外国人職員がいて徐々に国際的になっているが、中央官庁はどうなっているのだろうか。


鞍作鳥

2016-02-06 16:25:20 | 古代

1月31日の読売新聞に飛鳥大仏が建立当初のままか材料調査を開始するという下の記事が載った。

日本最古の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・銅造釈迦如来坐(ざ)像(通称・飛鳥大仏、重要文化財)の材質調査に、藤岡穣(ゆたか)・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが、今夏から取り組む。鎌倉時代に火災に遭い、ほとんど原形をとどめていないとも考えられてきたが、昨年の予備調査で造立当初の部分があることを確認。頭部についても当時の造形のまま残っている可能性が高く、再評価につながりそうだ。 飛鳥大仏は像高275センチの鋳造仏。渡来系の仏師、鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利(とり)仏師)が手がけ、609年に完成したとされる。奈良・東大寺の大仏造立(752年開眼)を100年以上遡り、文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。

1月29日付け読売新聞関西版には上の全国版よりも詳しい説明が載っている。

 1196年、落雷による火災で、大仏が安置されていた金堂が焼失。大仏も大きく傷ついたとされる。戦前は国宝だったが、1950年に文化財保護法が施行された際、「残存状態が悪い」と判断され、国宝再指定はされなかった。藤岡教授らは2013年度から、大阪市立美術館所蔵の誕生釈迦仏立像(飛鳥時代)など、5~9世紀を中心とする金銅仏約500点の調査に取り組んできた。その一環として昨年8月、この大仏の予備調査を実施。金属の成分がわかる蛍光エックス線を用いて、大仏の表面約20か所を調査した。その結果、右手の指と手のひらは銅87~88%、錫すず5%、鉛4%で、飛鳥時代の金銅仏の成分と特徴が一致。造立当初のものが残っていると判断した。予備調査では足場が組めなかったため、頭部の成分分析はできなかったが、表面は右手とよく似た仕上がり具合となっている。このため、頭部についても、造立当時の様式を保っているとみられるという。

 頭部には補修した痕跡が多数残っており、これまでは火災で大きく損傷した証拠だとされてきた。これについても、藤岡教授は「当時の技術が未熟だったため、鋳造中に欠損してしまった部位を、造立時に銅材で補った跡もあるのではないか」と指摘。大仏の顔の一部には鋳造後に金メッキを施された跡が残っており、「完成すれば、補修跡は分からなくなると考えたかもしれない」と推測する。

 本調査では、足場を組んで頭部を含む全体を詳細に分析。造立当時の部分と補修部分を区別するとともに、補修が行われた時期についても検討する。藤岡教授は「飛鳥大仏は我が国の仏教史上、最も重要な仏像の一つ。実態を解明したい」と話している。

調査の成果を報告する記事でなく、これから調査を開始し成果を期待するという読売新聞だけのマイナー記事である。奈良新聞の考古学欄にも出ていない。結果が出るころには「そんなことやってたの?」と仏像マニアか古代史マニアでなければ記憶さえしていないだろう。「文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。」と記事にあるとおり、飛鳥大仏は鞍作鳥(止利)が造ったと日本書紀と元興寺伽藍縁起に書いてある。飛鳥寺はかつて法興寺や元興寺という寺名であった。寺の完成年は日本書紀が606年とするのに対し元興寺伽藍縁起では609年と異なる。日本書紀から鞍作鳥の名の出てくる3箇所を抜き出し、梅原猛『聖徳太子』の意訳を参考にした訳を付した。

十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗國大興王、聞日本國天皇造佛像、貢上黃金三百兩。閏七月己未朔、皇太子命諸王諸臣、俾着褶。冬十月、皇太子居斑鳩宮。

(訳:推古13年(605)4月、天皇は皇太子や大臣に詔勅し、銅と刺繍の丈六の仏像をそれぞれ1体を鞍作鳥に造らせた。この工事の為、高句麗の大興王は、黄金300両を献上した。7月皇太子は諸王諸臣に命じ礼服を着させた。冬10月皇太子は斑鳩宮に居住した。)

十四年夏四月乙酉朔壬辰、銅繡丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像、高於金堂戸、以不得納堂。於是、諸工人等議曰、破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工、不壤戸得入堂。卽日、設齋。於是、會集人衆、不可勝數。自是年初毎寺、四月八日・七月十五日、設齋。

(訳:推古14年(606)4月、丈六の仏像を作り終えた。その日、丈六の銅像を元興寺金堂に安置しようといたが、仏像が金堂の扉より高く堂内に納められなかった。工人たちは扉を壊して入れようと相談したが、鞍作鳥は優秀で扉を壊さずに仏像を入れることができた。多くの人々が集まり、この年に初めて寺ごとに4月8日(灌仏会)と7月15日(盂蘭盆会)を祝うことになった。)

(十四年)五月甲寅朔戊午、勅鞍作鳥曰「朕、欲興隆內典、方將建佛刹、肇求舍利。時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼。於是、汝父多須那、爲橘豐日天皇、出家恭敬佛法。又汝姨嶋女、初出家、爲諸尼導者、以修行釋教。今朕爲造丈六佛、以求好佛像、汝之所獻佛本則合朕心。又造佛像既訖、不得入堂、諸工人不能計、以將破堂戸、然汝不破戸而得入、此皆汝之功也。」則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥、以此田爲天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺。

(訳:5月、天皇は丈六の仏像を造ったことなどを賞し、大仁の位を授け、近江国の水田20町を給わった。鳥はその田に天皇の為に金剛寺を建てた。これは今、南淵の坂田尼寺と言う。)

推古14年(606)丈六の仏像を金堂に安置するとき仏像の背丈が金堂の戸より高くて堂の中に納められなかったという記事が古代史上の問題になっている。日本書紀に、法興寺は推古4年(596)に完成し、それから10年後の606年に本尊である丈六の仏像が奉納されたと書かれている。10年間も本尊がなかった説明がつかないからである。これについて上原和は『世界史上の聖徳太子』の中で、推古13年に高句麗が黄金300両を献上したことを重視し、法興寺はもともと百済の伽藍形式である一塔一金堂方式で596年に落慶したが、高句麗の献上金をもとに高句麗形式である一塔三金堂式に変更し、同時に本尊を入れ替えたとする。この形式変更は、毛利久の提唱した塔と中金堂を最初に建設し、次に東西金堂を建設したという二期建設説をもとにしていて、フランソワ・ベルチェが唱えた。上原和はベルチェ説を支持し、当初から高句麗形式だったという説に反対する。その根拠は発掘調査で出土した屋根瓦が百済様式であること、塔の基壇が四角形の百済方式であり高句麗の塔の八角形ではないこと、塔の基壇に中門と中金堂の南北方向に階段はあるが左右の東西金堂方向に階段がないことから、塔と中金堂は百済式であり、伽藍配置が高句麗式であるという。また、仏像製作が推古天皇の詔勅によってはじめられた点を重視し、法興寺が蘇我氏の私寺から官寺に変わったとする。

梅原猛は『聖徳太子』で法興寺が本尊の変更とともに私寺から官寺に変わったとする点は上原和と同じ意見だが、寺の様式変更はありえないと批判する。ベルチェ説を発展させた大橋一章は法興寺の建設が塔、中金堂、東西金堂建設の3期に分けて行われ、本尊はその進捗に合わせて作られたとする。そして最終的に完成するのは推古20年代に入ってからだろうとする。この大橋説を、梅原は文献をまったく無視していると批判するが、上原和の説なら形式変更や建設年代は異なっても大橋の段階的に完成したという説でも説明がつく。

個人的には、鞍作鳥が金堂の戸を壊さずにどのようにして丈六の仏像を金堂に入れたのか気になるところだが、それに答えてくれる説は手元の資料の中に発見できなかった。

田中英道は『日本美術史』で、以下の仏像が文献やその様式から鞍作鳥の作品だろうとしている。

  • 飛鳥寺飛鳥大仏 (日本書紀と元興寺伽藍縁起に鞍作鳥作とある)
  • 法隆寺釈迦三尊像 (光背に鞍作鳥作とある)
  • 法隆寺薬師如来像 (釈迦三尊像と同じ様式)
  • 法輪寺薬師如来坐像 (鞍作鳥作と寺伝にある)
  • 法輪寺虚空蔵菩薩立像 (同上)
  • 夢殿の救世観音 (様式から)

救世観音に関しては、フェノロサや岡倉天心が絶賛したことに反し、それが形式性が強く自然さに欠けていると指摘し、顔におおらかさがある反面、高貴さがやや乏しいし、かすかな笑みは見られるが、眉、鼻、口の彫の硬さ、首の3本の皺の写実性の不足を指摘する。ただしこれらの形式性は技量不足によるものではなく、美術史初期の「アルカイスム」的な硬さであるとする。アルカイスム様式とは、単純性、正面性、アルカイックスマイル、生硬さ、触覚値などを表現形式とする。田中英道は逆に当時の最高傑作として法隆寺の百済観音をあげ、それは同じ表現傾向を有する法隆寺四天王の光背に名前のある山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)が作者だと推測している。

アルカイックスマイルとは、紀元前5世紀ころの古代ギリシャ彫刻に見られる不自然な微笑を指し、日本では鞍作鳥の飛鳥大仏、法隆寺釈迦三尊像、救世観音像に加え中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像などに見られる。救世観音の微笑は当時の彫刻表現がまだ稚拙(古拙というらしい)で像に躍動感を与えるために微笑みをつけたと考えられており、そうだとするとフェノロサや和辻哲郎が比較の対象とした「モナリザ」の微笑とはまったく別次元の表現であり、比較の対象にさえならないことになる。


國中連公麻呂

2015-12-31 17:55:42 | 古代

田中英道は『日本美術史』で、新薬師寺の十二神将、東大寺法華堂の不空羂索観音像と日光・月光菩薩像と執金剛神立像、戒壇堂の四天王像の両眼の表現や顔や体の肉付けの形には共通性があり、同じ仏師によることを示唆していると書いている。さらに唐招提寺の鑑真像と法隆寺の行信像も同じ仏師による作品であり、その作家は東大寺の盧舎那仏(大仏)を造った國中連公麻呂であるとする。田中は、日本の美術史家には作品が個人の手ではなく集団の手によってつくられたように考える習慣があり、それは日本人の芸術観の、ひいては人間観の未熟さを示していることに他ならないと言う。これは、写楽は職人集団であるという説や、津田左右吉の凡人史観や聖徳太子非実在説に通じるものがある。

写真左より広目天 多聞天 行信 鑑真 (ネットで拾った写真を並べた) 左から順番に見ていくと顔の作りが似ているようにも思えるが、基本的に自分は審美眼がないので同じ仏師によるものだと言う確信が持てない。

國中連公麻呂の記事を続日本紀から拾ったところ、(1)761年に公麻呂が従五位上に任官されたこと、(2)761年に正五位下の公麻呂が東大寺を造営する次官になったこと、(3)767年に東大寺に天皇が行幸(みゆき)され、公麻呂が正五位下から従四位下に昇任したこと、(4)768年に但馬員外介となったこと、(5)774年に卒(死亡)したことが記されていた。774年の記事には、以下の公麻呂の出自が記されている。

  • 本是百濟國人也。(元は百済出身)
  • 其祖父徳率國骨富。(祖父は徳率國骨富)
  • 近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。(近江朝廷の時に帰化した=天智天皇のとき、すなわち白村江の戦いのときに日本に帰化した。)
  • 天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。(天平年中、聖武天皇発願により長さ5丈(約16.5m)の盧舎那銅像を造る。当時の鋳物工に手を出す者がなかったが 公麻呂は巧思(解決策)をもって成功させた。)
  • 以勞遂授四位。官至造東大寺次官■但馬員外介。(その功により四位を授かった。官位は、造東大寺次官、但馬員外介(名誉職とされる)となる。)
  • 寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。(天平宝字2年、大和国葛城下郡の国中村に住んだためその地に因む國中姓を賜った。)

公麻呂の祖父・國骨富は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ滅びた百済の徳率(四品官)で日本に逃れてきた。また、大仏殿碑文に、大仏建立の工人として、國中連公麻呂に加え、鋳師の高市大国と高市真麻呂と柿本男玉、大工の猪名部百世と益田縄手の名が上がっているが、彫刻家は公麻呂だけであるという。

以下は「続日本紀」原文。

(761)天平宝字五年 六月 廿六日 己夘。《廿六》從五位上國中連公麻呂

(761)天平宝字五年 十月 朔日 冬十月壬子朔。正五位下國中連公麻呂爲造東大寺次官。

(767)神護景雲元年 二月 四日 二月甲申。《辛已朔四》幸東大寺。授正五位下國中連公麻呂從四位下。

(768)神護景雲二年 十一月 廿九日 己亥。《廿九》從四位下國中連公麻呂爲但馬員外介。

(774)宝亀五年 十月 三日 冬十月己巳。《丁卯朔三》散位從四位下國中連公麻呂卒。本是百濟國人也。其祖父徳率國骨富。近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官■但馬員外介。寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。

以下の記事にある國中連三成は公麻呂の息子か一族だと思うが、官位だけが示されていて仏師だったかどうかはわからない。

(785)延暦四年 八月 十四日 丙子。《十四》正六位上國中連三成

(786)延暦五年 一月 廿八日 己未。《廿八》地震。外從五位下國中連三成爲助

今年もあと6時間程となった。3月に還暦を迎え、残りの人生設計に悩んでいる。


鬼怒鳴門(Donald Keene)

2015-10-11 22:39:40 | 古代

昨晩、NHKで『私の愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~』というスペシャル番組の放映があった。上の写真はNHKのホームページより。番組は、10代後半の1940年に源氏物語の英訳本に出会い日本文学に魅せられ、アメリカ軍の情報士官としてアッツ島に上陸し、戦後、日本に留学し多くの文学と作家に出会い、日本文学を世界に紹介し、東日本大震災で日本に帰化するドナルド・キーンの生涯をドラマ仕立てで紹介する。日本という国、日本人、習慣と伝統、日本文学に対するドナルド・キーンの思いが語られる。ドナルド・キーンの思う日本人とは、”あいまい(余情)を愛する、はかなさに共感する、礼儀正しい、清潔、よく働く”である。日本の魅力は伝統にあるという。日本人は日本が特殊であること、異質であることを誇りにするが、実は外国人でも日本の文化や習慣を共有できるのだという。

ちょうどドナルド・キーンが英語で書いた『Seeds in the Heart』1993の日本語訳『日本文学の歴史 ⑴古代中世篇1』土屋政雄訳を読んでいる。この本は、古代から現代までの日本文学を解説したあと、個別の文学作品を評価する。古事記、風土記、日本書紀、聖徳太子、万葉集、そして平安時代の空海や菅原道真らの漢文学までである。万葉集には特に紙数を割く。

日本文学のジャンルとして、詩歌、小説(フィクション)、戯曲、随筆、日記、紀行文などがあり、西洋文学で盛んな叙事詩、長編の物語、伝記は発達しなかった。随筆は西洋にはない。日記や随筆や私小説は内省的な日本人向きである。庶民の猥褻な俳句や春画が芭蕉のレベルの俳句や浮世絵に高められ、農民の田楽が能になったように、その芸術性は洗練され高尚化する。この高尚化はあらゆる分野の日本文化に内在する。文学者を含め文化に携わるものは、芸の最高原理に身も心も捧げる「道」を信奉した。また、日本人は文化に対し保守的で、歌舞伎、能、和歌、俳句など伝統を守り続けている。日本文学の思想的な背景は、仏教、儒教、神道にある。社会的な義務は儒教に従い、宗教的関心事と死後の世界への希望は仏教に託し、この世の楽しみ(四季の美しさ、恋、子供)は神道によって区分けされる。

古事記

『古事記』を文学作品としてとらえ、国生み神話からはじめ『古事記』中の挿話を解説する。特に歌謡や和歌を英語訳を添えて紹介する。原文日本語は難解だが、ドナルド・キーンの英語で歌の意が明瞭になる。意味が明瞭だからといって説明臭くなく詩的な英文になっている。例えば、ヤマトタケルが故郷大和への郷愁を歌う「倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭し美(うるわ)し」は次のように訳される。

Yamato, Fairest of provinces, Encircled by mountains, Like green fences, Layer on Layer, How lovely is Yamato!

古事記が歴史ではなく文学作品として扱われたのは1925年の高木敏雄『日本神話伝説の研究』からだという。戦後は、軍国主義や天皇崇拝から自由になって『古事記』を見直し始めた。以来、歴史学、言語学、民俗学からの研究が盛んであるが、文学研究者も『古事記』の位置づけを模索しはじめた。単に現存する最古の日本語書物というだけでなく、将来の文学的発展の種(Seeds)を内に秘めた文学作品としての位置づけである。『古事記』は日本の文学の源流である。

聖徳太子

十七条の憲法の思想は、この世のことは儒教(第1条和をもって貴しとなす)で、永遠の世界のことは仏教(第2条三宝(仏法僧)を敬え)に随えとあり、これはドナルド・キーンが序で書いた日本文化の思想的な背景そのものである。聖徳太子の著作を純粋に文学的観点から眺めることはこれまでなかった。十七条の憲法や三教義疏の漢文の素養は七世紀初めに日本人によって書かれたもので、それが聖徳太子の著作としても矛盾はない。ドナルド・キーンは太子偽作説をとらない。

懐風藻

大津皇子が死に臨んで詠んだ歌は万葉集にあるが、懐風藻にも死を目前にして作った漢詩がある。以下、読み下し文とドナルド・キーン訳の英文である。

金烏西舎に臨(て)らひ、鼓声短命を催す。泉路賓主無し、此の夕家を離(さか)りて向かふ。

The golden crow lights on the western huts: evening drums beat out the shortness of life. there are no inns on the road to the grave- Whose is the house I go to tonight?  (訳:金色の烏(太陽)が西の館を照らし、夕刻の太鼓が命の短さを響かせる。死地に向かう路傍に宿はない。今夜私が行こうとしている館は誰のものだろうか?)

大津皇子の漢詩は自分の感情に哲学的な余韻をもたせようとした結果生まれたものである。一方、皇子の万葉歌「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」は、死を間近に控えた瞬間でさえ、風景への親密な思い入れがあったことがわかるとドナルド・キーンは言う。説明がないので哲学的余韻とはどのようなものかよくわからないが、沈む太陽や夕暮れに響く太鼓の音が刹那的な感情を揺り動かす。その感情は生への執着よりも諦観だったように思う。柳田国男と折口信夫は「鳥は古代人にとって霊魂の使いあるいは死霊そのものだった」と言っているように、金烏の「お迎えがきた」という感情表現だったのかもしれない。

柿本人麻呂

『万葉集』の歌は歌人の体験と心情を直接的に表現し、吐露されている感情の激しさが歌に緊張感と力強さを与える壮麗なものである。これに対し、『古事記』の歌謡は原始的である。人麻呂の長歌が『古事記』以前に詠まれたとは信じられない。すなわち万葉集と古事記の歌謡は異質であるというのがドナルド・キーンの意見である。もしそうなら、梅原猛が論文『原古事記と柿本人麿』で語る人麻呂が原古事記を書いたとする説は成立しないのではないかと思う。

万葉集第二期を代表する人麻呂の長歌に典型的に見られる対句法は間違いなく漢詩に触発されたものである。人麻呂が多く詠んだ挽歌は殯宮(あらき=仮のとむらい)の間に詠まれたもので、702年に持統天皇が火葬にふされ殯宮の習慣がなくなってから挽歌はなくなる。ドナルド・キーンは人麻呂の最期について齋藤茂吉梅原猛やその他の人々の様々な説を紹介する。

万葉集第三期(702年~729年)

持統天皇崩御の702年から720年の間に万葉歌は1首しかない。720年は権力者である藤原不比等が死んだ年である。万葉集に不比等の歌は1首もなく、懐風藻には漢詩が5篇あるように不比等の文化的な関心はほとんど中国一辺倒であった。不比等の死後、人麻呂の伝統にのっとった万葉歌が復活する。そうだとすれば、梅原猛の「稗田阿礼は不比等」という説は絶対に成立しない。古事記は極めて和風だからだ。人麻呂が流罪になり許されて宮廷に戻り山部赤人になったという奇怪な言い伝えがあること(梅原猛)を紹介していた。これは知らなかった。

まだ、家持や憶良の歌の話、平安時代の文学についての章があるが、それは次回以降とする。今日は、ラグビーワールドカップUSA戦がある。昨日スコットランドがサモアに勝ったので残念ながら日本の決勝トーナメントはなくなったが、いい試合を期待している。 


七支刀

2015-08-16 16:45:11 | 古代

『日本書紀』巻九、神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶

"(百済の使者)久氐等が、千熊長彦等に従い詣(いた)り、則ち七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献ず"とあり、これが奈良の石上神社に伝わる七支刀を指すと言われている。その七支刀には表に34字、裏に27字、合わせて61文字が金象嵌(きんぞうかん=金をはめ込む)されている。七支刀表面は錆で覆われ損傷が著しく、文字は不明瞭であるが、石上神社のホームページによると、明治以降の研究によってほぼ次の文字であると解釈されている。□□は判読不能箇所。

(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作

(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世

宮崎市定は自著『謎の七支刀』1991年刊の中で、漢文の慣用法、当時の時代背景などをもとに一部の漢字比定を修正し、また空白部(□□)を埋めて以下のような解釈をしている。慣用法とは、漢文にみられる決まり事や他の文書にみられる用法で、考古学者や国文学者とは異なる東洋史学者の立場から新しい解釈を提言している。

(表面)泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 ▲辟百兵供供侯王 永年大吉祥 (▲は佀の人偏がない字)

意味=泰始4年(468年)夏の中月なる5月、夏のうちなる最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正午の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以ってあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを

(裏面)先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

意味=先代以来未だ此くのごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生まれながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。

百済の王が倭王に七支刀を送ったことは確実だが、年号を示す”泰”の次の字が不明瞭であるため、七支刀が制作された年には諸説がある。日本書紀の紀年は疑わしく、神功皇后52年が確定されていないことも年号が確定しない理由である。また、百済王による下賜か、あるいは百済から倭への朝貢かも意見が割れる。

年号

  • 泰始 西普武帝 265-274
  • 泰常 北魏明元帝 416-423
  • 泰始 南朝宋明帝 465-471
  • 泰豫 南朝宋明帝 465-471
  • 太和 三国魏明帝 227-232 (泰を太の借字とする)
  • 太和 東普廃帝海西公 366-370
  • 太和 北魏孝文帝 477-499 など

宮崎は泰を太の借字とする説には反対する。可能性が絶無とは言えないが、文字を書き換えてまで金石文に残す理由がないとし、他の泰から始まる年号で説明が可能ならば、そちらを優先すべきだとする。そのうえで、宮崎は宋の泰始を採用する。宋の泰始4年は、雄略天皇12年にあたり、日本は三韓、中国江南との関係が密接であったから、国際関係上、百済から七支刀を贈られてもおかしくないという。また、中国暦では、ある年ある月ある日に60日ごとに繰り返す干支が割り付けられ、銘文にある丙午という干支が、その年号の5月に存在しない場合は、その年ではないという判断ができるという。この日付と干支が一致することを条件とすると、丙午が五月にあるのは普の泰始4年(268年)だけになる。ところが宮崎は、このような銘文では実際の日付ではなく縁起のよい吉祥日を記す習慣があるため、必ずしも日付と干支が一致しなくてもよいとする。この不一致は他に事例があり古鏡の銘文などにも認められるという。

倭王旨

倭王の次の文字である旨を倭王の名前とする説があるが、旨に比定できる倭王がいないため宮崎はこれを否定し、旨は上半が欠けたとして嘗という字を当て、”嘗(はじ)めて”と解釈する。旨を倭王名とする説では、旨を替に置き換え倭の五王の最初の王である倭王讃だとする説が有力であるが、宮崎は当時の国際慣習上、贈り物に相手の実名を書くことは非礼にあたり実名を書くはずがないと反論する。宮崎の提唱する宋の泰始4年(468年)のころは、倭の五王最後の武であり、倭王は雄略天皇に比定される。古田武彦は倭王旨を九州王朝の王名だとする。

贈り主

七支刀の贈り主である百済王世子は、5世紀の蓋鹵王の太子で、後の文周王であるとする。蓋鹵王は連年北方の高句麗の侵攻を受けて苦しみ、北魏に援助を求めるが成功せず、高句麗と戦って敗北する。そのとき世子は上佐平という内閣総理大臣のような役職につき国政を見ていたので、倭に百済王世子として贈り物をする権限を有していたはずである。父王の蓋鹵王は475年高句麗との戦いの中、敵に捕らえられ殺される。太子の文周王は新羅の兵を借りて高句麗に反撃し、首都を南の熊津に遷す。このような情勢下のため、七支刀は百済が倭と友好を結ぶために贈った百済の献上品だとする。

稲荷山出土鉄刀と江田船山太刀

同じ頃の出土品であるこの二刀に象嵌された金石文についても東洋史学者として新しい知見を披露している。それでも両刀に刻まれた”獲加多支鹵大王”は、ワカタケル=雄略天皇である。これら鉄刀は、それぞれ埼玉と熊本で出土したため、雄略天皇の時代、すなわち5世紀後半には大和朝廷の支配はほぼ日本全土に及んでいた証拠とされている。

七支刀が贈られたときに百済は、中国と倭に使者を派遣し、外交力をもって北の脅威である高句麗に対抗しようとした。倭も中国の史書にあるように倭の五王が中国に使者を派遣し、密接な国交を持続している。脅威には硬直した軍事力ではなく柔軟で総合的な外交力で対抗すべきなのは歴史が示すとおりである。昨日は終戦記念日。第二次世界大戦時に陸軍参謀だった瀬島龍三は『大東亜戦争の実相』の中で、軍備は戦争に直結すると教訓を残し警告している。安保法案は日独伊三国同盟条約第三条に酷似する。この三国同盟の為に英米など他の国との関係が悪化しドイツのヨーロッパ開戦に誘われるように戦争に突き進んだ。存立危機事態において武力行使が容認開始されたなら、文民統制は効かなくなり統帥権は自衛隊に移る。危ない。日本は大戦前に戻ろうとしているように見える。


”古寺巡礼”批判

2015-03-22 16:38:16 | 古代

美術史家の田中英道は歴史認識発言で有名なので、彼の専門分野である美術史の本『日本美術全史』の評論も彼の歴史観をもとに語られているのではないかという危惧を抱きながら恐る恐る読んだ。不安は杞憂で、本は純粋に美術的な視点から評論したものだった。例えば、阿修羅像の作者・将軍萬福や百済観音像の作者が大陸からの渡来人であることを否定せず、”渡来系であったが故にこうして日本人像を対象化出来たのかもしれない”や”日本人は多かれ少なかれ皆渡来人である”と述べ、国粋的な主張はなかった。読む前の漠然とした不安は、田中英道の”新しい歴史教科書をつくる会”元会長という肩書や南京大虐殺や従軍慰安婦についてのヘッドライン上の発言によるものであり、彼の主張の詳細を知ってのものではないことを明記しておく。

『日本美術全史』は土偶、仏教彫刻、中世の絵巻、江戸時代の浮世絵、明治以降の画壇まで日本の美術作品を通観し評価するものである。中でも、運慶・快慶とその弟子たちの作品群に対する田中の評論は魅力的で、文庫本の中の白黒写真でさえ迫力があり実物を見たくなる。田中英道は和辻哲郎『古寺巡礼』を批判し、写楽北斎説を提唱している。和辻哲郎の「古寺巡礼」は奈良旅行や仏像がニュースになるときなどにお世話になるし、写楽については何度かこのブログで取り上げているので気になるところである。また、救世観音についても評価しているので以下に並べて示す。

『古寺巡礼』批判

田中英道の批判は、”和辻氏が、この「巡礼」は「美術」に対するものであって宗教的な意味合いのものではない、と述べて、あたかも美術作品の美的価値を中心に廻ったように述べている点が気にかかるのである。”と、まず和辻の仏像鑑賞姿勢に対する疑問で始まる。和辻の鑑賞方法は、対象に対する感情移入が激しすぎて、冷静さに欠けているため、古美術の客観的な評価ができていないとする。さらに和辻の”実をいうと古美術の研究は自分には脇道だと思われる”という認識そのものが『古寺巡礼』の欠点であると断定する。すなわち、芸術鑑賞は和辻の専門領域である哲学(道の探究や人心の救済)に役に立たないとする消極的な態度で作品を見ているが、そもそも宗教美術も純粋美術も、道や人心に深く関わっているはずで、そこから目を背けたときから芸術の退廃が始まったことは和辻も認識していたのではないのかと疑問を投げかける。専門外であることを認識しながら古美術を”したり顔”で、しかも極めて主観的に評論をする素人の和辻に、美術評論を専門とする田中は憤りさえ覚えているように見える。

さらに、”奈良の秀作を見て回ったにしては省かれているものが多すぎる”として、和辻の審美眼にも疑いの目を向けている。実は私も、田中と同じように、新薬師寺の十二神将に強烈な印象を受けたのだが、和辻は新薬師寺を訪れても十二神将にはまったく心を動かされていないのである。和辻の新薬師寺での文章ーー

本堂の中には円い仏壇があって、本尊薬師を中心に十二神将が並んでいる。薬師のきつい顔はーーーー(この後、本尊薬師についての感想が9行にわたって述べられ、”木彫りでこれほど堂々とした作は、ちょっとほかにはないと思う”と絶賛し、十二神将についてはまったく触れない)

2010年に新薬師寺を訪れ、薄暗い講堂に差し込む自然光の中に立つ十二神将の躍動感に圧倒された。本尊の薬師如来の存在がかすむほどの迫力だった。ところが、和辻の『古寺巡礼』がこのような記載だったので、自分の審美眼はまだまだなのかなと思っていた。木彫り仏像でも飛鳥大仏のほうに存在感があると思う。今回、田中英道が十二神将を絶賛し、和辻に疑問を呈するのを読んで、内心ほっとしている。田中が飛鳥時代の第一の傑作として百済観音を上げていることや、三十三間堂の二十八部衆を高く評価しているのもうれしかった。

写楽・北斎説

田中の根拠は以下のとおり。

彼の作風を見ると、決して能役者齋藤十郎兵衛の手すさびのようなものでなく、長く描いていた熟練した手腕を感じさせる。そしてその最終期の武者絵や相撲絵には、勝川春朗すなわち後の北斎の手を思わせるものがある。すでに16年も役者絵を描いていた春朗は、まさにこの時期、空白期となっていることからも、この春朗(=北斎)が写楽である可能性が高い。「しゃらく(写楽)さい、あほくさい(北斎)」という語呂合わせも、北斎らしい洒脱さをうかがわせる。

田中は上記に先立ち写楽の作品群について評論している。写楽の絵は表現主義的で、歌麿のような色気がなく見得をきる人物の性格描写しかない。役者の躍動感、緊張感の見得をきる一瞬を狙ったものや、美人とは言えない女形にリアリズムがあり、これが浮世絵類考で「あらぬさまにかきなせし故、長く世に行われず」とされた理由だろうとする。写楽の制作は146点、2年足らずで終わるが、緊張感のある作品は最初の10か月までで、その後は息切れがはじまり作品が単調になっているという。

梅原猛の豊国説や池田満寿男の中村此蔵説など別人説は多多あるが、浮世絵類考の齋藤十郎兵衛が実在したことが判明したあと自分的には写楽問題は解決し、美術の専門家に別人説を唱える人はいないと思っていた。田中は別に『実証 写楽は北斎である』や『写楽問題は終わっていない』で北斎説を書いているので読んでみたい。

 救世観音

田中の評は、当時の代表的作家である止利仏師の形式性の強い自然さが欠け、顔におおらかさがある反面、高貴さがやや乏しいし、目、鼻、口の彫りの硬さ、首に見える三本の皺も写実性が不足している。百済観音と同じように評価されるには問題がある。これが聖徳太子の等身像であるとか、滅多に見られぬ秘仏であるとか、さまざまに神秘化される要素があるが、美術作品として冷静に見られる必要があるとし、フェノロサや和辻や亀井や梅原らの像から受ける印象による評価を排除している。

『日本美術全史』に円空がないのは残念だった。田中の円空評を聞きたかった。それとも、運慶や快慶には並ぶべくもないということだろうか。田中英道の運慶・快慶とその弟子たちの話はまた別の機会とする。


神話

2014-07-07 01:34:10 | 古代

シンガポールとUSAテキサス・ヒューストンを往復すると連続だと36時間になるので信じられないくらい機中映画が見られる。さすがにヒューストンからの帰り道は時差ボケ解消のため半分以上眠ていた。その中に最新作「Noah」2014があった。聖書のノアの方舟の話である。古い映画「天地創造」1966で知った方舟と洪水の話が大層面白かったので、期待してこの新作を観たが、脚本がさっぱりだった。LOR(ロード・オブ・ザ・リング)の木の聖(鬚)のようなWatcherという岩の聖が戦ったり、神の意志とは言い難いノアの頑なさに家族が苦しめられたり、方舟に乗り込んだ悪者が動物を食ったり、ひどい映画だった。ノアの息子セムの嫁イラをハリー・ポッターのエマ・ワトソンが演じていたが、物語で重要な出産で苦悩する場面でもシリアスに観ることができず、どうしてもハーマイオニーに被ってしまった。残念ながら星ゼロである。

これまで多くの科学者や冒険家がノアの方舟を史実として探索を行ってきた。方船が流れ着いたというトルコのアララト山で方船の残骸が見つかったという報告は古くから何例もあるという。聖書を完全に信じる創造論者は人間が猿から進化したことを否定し、アダムとイブから始まったと信じているので、当然、ノアの方船や洪水も信じている。だから、聖書から逸脱していると思われるこの映画は創造論者からすればとんでもない話になると思う。

宗教書である旧約聖書の中の史実についてどのような研究があるのか不勉強なためよくわからない。一方で、日本の記紀神話には何がしかの史実が反映されているというのが津田左右吉史観を否定する歴史学者の一般的な見方であると思う。日本の神話を探求する梅原猛は、40年前『神々の流竄(るざん)』で論じた”出雲神話は大和神話を仮託したもの”という説を間違いだったとして平成22年4月刊「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」で撤回した。『神々の流竄』で梅原は出雲には大した考古学的遺跡がないから出雲神話は作り物だとした。初めてこの本を読んだときには、あまりに強引な決めつけに辟易し途中で読書を投げ出した。梅原猛ファンになってから読み返した2度目は、梅原が挙げた稗田阿礼=不比等説などの仮説の中に、根拠がないと言って捨て去るには惜しい魅力的な仮説がいくつもあると思った。

梅原が自分の仮説が間違いだったと認めた理由は、『神々の流竄』発表以降、出雲では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から数多くの銅鐸、銅矛、銅剣、出雲特有の四隅突出型墳丘墓などの考古学的遺跡が発見され、古代出雲に大和と同様の王朝が存在していたことが明白になってきたからである。出雲神話は大和神話から派生したものではなく、もともと出雲にあった古代国家の歴史を反映したもので、これら考古学資料はそれを裏付けるというのである。

しかし、『葬られた王朝』での梅原猛の歴史解釈の手法は、平成12年1月刊『天皇家の”ふるさと”日向をゆく』でもそうだったように、現地の古社を巡り、神主・宮司から由来を聞き、祭りや神楽や風習を観察し、自然や地形に触れ、考古学資料をにらみ、記紀神話や風土記の説話のなかから史実を類推するものである。現地の空気や言い伝えを大切にした上での文献解釈は梅原猛の感性に大きく依存する。『葬られた王朝~』では前説が間違いだったと言いながら、出雲神話を歴史的事実だと断定する箇所に梅原の思いがたっぷりと盛り込まれ、『神々の流竄』での断定と大差はないように感じた。

『天皇家の”ふるさと”日向をゆく』でも『葬られた王朝』でも、梅原の空想が紙面を駆け巡り非科学的な断定が多い。たとえば、天孫降臨の高千穂の比定地として、宮崎県西臼杵郡の高千穂と鹿児島県の霧島山があるが、西臼杵郡の方がふさわしいとする。記紀神話の記述や日向風土記の記述がどちらの地に合致するかを細かく分析するところまではいいのだが、”私は高千穂を旅して、ここは「明日香に似ている」という印象を持った”という感覚的な理由は科学的とは言えない。また、西臼杵郡の高千穂の古社には神話に由来する伝承が多く残っていることも、こちらが天孫降臨の比定地としてふさわしいとするのであるが、神主や古老の話に史実をみるのも科学的だとは言えない。鹿児島の霧島山の逆鉾は比較的新しい時代に誰かが突き刺したのは明らかであるように、西杵臼群の高千穂の誰かが後年、梅原の言葉を借りれば、自分の土地に”神話を仮託した”と考えられないこともないからである。 『葬られた王朝』では、高天原を追放され出雲に来てヤマタノオロチを退治しクシナダヒメをめとったスサノオノミコトと、その子孫である大国主命が大和朝廷への国譲り神話には史実が反映されているとし、ここでも梅原猛は空想の羽根を広げ仮説を立てている。

梅原猛は『聖徳太子』の中で、勝鬘経、維摩経、法華経の一文一文すべてに意味があるとして自分なりに解説を試みようとする聖徳太子の思弁の深さと姿勢を高く評価している。逆に矛盾があれば切り捨ててしまう津田左右吉の方法を否定する。梅原猛自身は上記2著で、記紀や風土記の日向神話と出雲神話の一字一句に意味を求め、そこから史実を抽出しようとする姿勢を貫いている。この姿勢は、『淮南子』の著者が儒学、老荘、法家、墨家など雑多な思想を”巧妙きわまる理由づけを行い”統一したことや、天台宗を起こした中国の天台智(ちぎ)が仏教の発展を釈迦の一生に置き換え統一的に解説した姿勢に通じる。そういう意味で梅原猛の姿勢にぶれはないのである。


海石榴

2014-05-04 14:29:05 | 古代

海石榴は、パソコンで”つばき”と打つと、椿に並んでちゃんと登録変換される。海石榴は、8世紀に撰述された日本書紀や万葉集に海石榴市(つばきち、或いは つばいち)として登場する。椿とは書かず、もともとザクロを意味する石榴に海をつけた海石榴をツバキと読ませるのはなぜだろうと考えた上原和は、自著の「大和古寺幻想」や「世界史上の聖徳太子」の中でその理由を考える。手元やネットにある資料を引きずり出してきて上原和の考察をたどってみた。まずは、万葉集と日本書紀に海石榴の出現する箇所を取り出した。

犬養孝の『万葉の旅(上)』に海石榴市の項がある。

紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰れ

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか  作者不詳 巻12-3101,3102

犬養孝は、”大三輪町金屋は、いまでこそ、わびしい村にすぎないが、古代には北から山の辺の道、東から初瀬道、飛鳥からの磐余の道・山田の道、それに西、二上山裾(大津皇子が葬られた)の大坂越えからの道がここで一つにあつまって、四通八達、まさに「八十の衢」となっていた。したがって、ここに古代物品交易の市ができ、椿の街路樹を植えて、海石榴市といわれていた。春秋の季節に青年男女があつまって、たがいに恋の歌をかけあわせて結婚の機会をつくる歌垣が行われた。日本書紀の武烈天皇が皇太子のとき平群鮪(へぐりのしび)と影姫を争った物語も、この海石榴市巷であった。”としるし 続けて”明治のはじめまで伊勢参りの旅人ににぎわったところだが、いま村中の小祠に「椿市観音」「つば市谷」の名をのこすのみで、家並のうしろの旧街道も、忘れ去られている。”として下の写真をのせる(『万葉の旅』は昭和39年初版だから昭和30年代に撮った写真と思われる)。

日本書紀の武烈天皇の歌垣の争いの箇所をネットで検索した。http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_16.html

十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節。於是、太子、思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人向影媛宅期會。影媛、會姧眞鳥大臣男鮪。鮪、此云茲寐。恐違太子所期、報曰「妾望、奉待海柘榴市巷。」

由是、太子、欲往期處、遣近侍舍人就平群大臣宅、奉太子命求索官馬。大臣戲言陽進曰「官馬、爲誰飼養。隨命而已。」久之不進。太子、懷恨、忍不發顏、果之所期、立歌場衆歌場、此云宇多我岐執影媛袖、躑躅從容。俄而鮪臣來、排太子與影媛間立。由是、太子放影媛袖、移𢌞向前、立直當鮪。歌曰、 (このあと太子と鮪の間に歌による応酬がある)

石が柘(つげ)になっている。この歌垣で敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。武烈天皇は25代天皇で、恋敵を討ち取らせた以外にも天皇の異常な行動が日本書紀にいくつも記されている。次が越前にいた応神天皇5世の孫で、即位してから大和に入るまで19年もかかった継体天皇であること、中国の易姓革命では、前王朝の最後の皇帝が暴虐だったため天命によって王朝が変わっていることなどから、日本でも武烈から継体の間で王朝の交代があったとする説がある。また、古事記では、歌垣で平群鮪と争いこれを殺したのは武烈天皇ではなく、第23代顕宗天皇が皇太子のときのことと記されている。継体天皇即位を正当化するために武烈に暴虐残忍性を押し付けたともいわれる。

以下は景行天皇が九州遠征のとき、海石榴樹(つばきの木)をとって椎(つい=つち=打撃武具)をつくり兵に持たせ土蜘蛛を殺した場所を、海石榴市と呼んだという記事である。大和じゃなく九州に海石榴市があることになる。景行天皇の九州平定説話には平定地として北九州が含まれていないことから北九州にあった九州王朝の九州平定説話を大和朝廷が剽窃したというのが古田武彦の「九州王朝説」である。

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

以下は日本書紀推古16年(608年)の条で、飾り付けた75騎が海石榴市で、唐からの答礼使である裴世清を出迎えた様子を記す。朝廷に導かれた裴世清は大唐からの信物を庭におき親書を言上する。海石榴には関係ないが、古田の九州王朝説では、この日本書紀の記述も九州王朝でのできごとを剽窃したものとする。隋書の記述から裴世清は九州に留まり大和までは行っていない。裴世清は筑紫国の東にある倭(俀)国に行き、王(多利思北孤タリシヒコ)に直接面会しているが女帝とは書かれていない。

秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。其書曰「皇帝問倭皇。使人大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世等、稍宣往意、幷送物如別。」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。

以下は天武天皇に、倭国添下群の鰐積というものが瑞鶏(めでたいにわとり)を献上する吉事があったという記事で、鶏冠が海石榴の花に似ているという。同じ日にメスがオス鶏になった報告もあった。下の文章には西国、東国、美濃国などと並んで倭国添下群と書かれていて、日本の中に倭国という名を持つ地域があったようである。

夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風・廣瀬大忌。倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。其冠、似海石榴華。是日、倭國飽波郡言、雌鶏化雄。辛亥、勅「諸王諸臣被給封戸之税者、除以西國、相易給以東國。又外國人欲進仕者、臣連伴造之子及國造子、聽之。唯雖以下庶人、其才能長亦聽之。」己未、詔美濃國司曰「在礪杵郡紀臣訶佐麻呂之子、遷東國、卽爲其國之百姓。」

海石榴市のことは清少納言の『枕草子』にも見える。これも全文検索できる。http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html

(一四段)

 市は  辰(たつ)の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。

椿市には長谷寺参りの人がかならず留まるとあり平安時代も繁華だった。西暦1000年前後の清少納言の頃には椿を海石榴とは書かなくなっていたのかもしれない。

次に上原和が注目する隋の煬帝が春に詠んだ詩である。

東堂に宴するの詩

  • 雨罷春光潤 日落瞑霞暉
  • 海榴舒欲尽 山桜開未飛
  • 清音出歌扇 浮颸香舞衣
  • 翠帳全臨戸 金屏半隠扉
  • 風花意無極 芳樹暁禽帰

石のとれたツバキ(海榴)だけでなく桜もでてくる。2行目は”海榴(つばき)は花びらが舒(ひら)き終えて落ちるばかりだが、山桜はようやく開花したばかりで、花びらはまだ舞い飛ぶにはいたらない”(上原和訳)。中国にはもともとツバキもサクラもなかったらしい。中国の椿樹は、荘子「逍遙遊」にある長寿のシンボルとしての伝説上の巨木で、日本の椿とは異なる。中国で春の花といえば梅、桃、牡丹の類であろうと上原は言い、江戸時代の契沖の『萬葉代匠記』を引用する。

およそ海棠(かいどう)、海石榴等は、海を越えてもろこしにいたるゆゑに、海の字をもてわかつよしなり。つはきは、石榴(ざくろ)の花に似て、海をこえて外国よりくれば、海石榴なり。

石榴はザクロで、海石榴は海から渡ってきたザクロに似た花だと契沖は書いている。煬帝から1世紀ほどのち、中唐の詩人・柳宗元は『柳河東集』に”海石榴を植う”という題の詩をつくり、”弱植尺にみたざれども、遠意蓬瀛にとどまる”と書き、海石榴が蓬莱や瀛州(えいしゅう)から来たことを示唆している。蓬莱や瀛州は、秦始皇帝の時、徐福が不老不死の仙薬を求めて山東半島から船出し目指した海東の神仙の地で、当時の中国人にとっては倭国のことである。当時の中国知識人に海石榴は海の向こうの倭から来た石榴という認識があったことから、上原和は、煬帝の詩は倭国から献上され、裴世清が持ち帰ったツバキとサクラを愛でたものであると”想像する”のである。ここまで調べつくしたら、梅原猛なら”断定する”ところを、上原和はとても控えめである。

8世紀に日本書紀や万葉集を書いた舎人親王や柿本人麻呂ら文人たちは、舶来好みで煬帝の詩などから本来の”椿”に、逆輸入した”海石榴”を当てたのかもしれない。今、文章中に英語を散りばめるようなものである。

ザクロ(Wiki)

下の椿の写真は、今年3月末に徳島の神山森林公園で撮ったものだから落花寸前で少しくたびれている。ザクロは実しか見たことがなかったので、花がツバキに似ているとは知らなかった。神山森林公園は、明王寺などよりも標高が高く、サクラの満開まではあと数日、サクラ祭りは次の週末に予定されていた。まさに”海榴舒欲尽 山桜開未飛”だった。

 


三角縁神獣鏡

2014-04-12 21:53:13 | 古代

3Dプリンターで三角縁神獣鏡を再現したところ、魔鏡現象が確認できた(2014年1月29日毎日新聞記事 下の写真も)。鏡面に太陽の光を当てると裏面の文様が映し出されたという。鏡面を磨くときに裏の文様の硬軟が影響し鏡面にわずかな凹凸が生じ、それが魔境現象を起こすと解説されている。これが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚としたら、”卑弥呼事鬼道能惑衆”(卑弥呼は鬼道(呪術)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす)という魏志倭人伝の記述に得心がいく。

実際、三角縁神獣鏡の中には魏の年号である景初三年の記銘をもつ鏡があり、三角縁神獣鏡こそが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚であるという説がある。そしてこの鏡は3~4世紀の近畿地方の古墳からたくさん出土することから邪馬台国近畿説の根拠のひとつとなっている。

九州論者の植村清二は「神武天皇」で、鏡は持ち運びが容易で渡来年と埋葬年が制作年と一致するとは言えないから、魏の鏡が近畿に多くあることをもって魏と近畿の国の間で交渉があったとは結論できないとする。しかし、この部分の植村の説明ははぎれが悪い。同じ九州論者の古田武彦は、魏王が銅鏡百枚を贈ったのは景初二年のことで、卑弥呼に贈られた鏡に景初三年銘があるはずがないとする。だから、景初三年銘のある三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとする。

魏志倭人伝によると、景初二年6月卑弥呼は帯方郡に使節を送り天子に朝献を求め、帯方郡太守の劉夏は護衛をつけて使節を都・洛陽へ送る。同年12月に使節は天子に謁見し返礼として親魏倭王の金印や銅鏡百枚を含む方物を賜わる。植村は景初二年ではなく景初三年(239年)に使節は洛陽に送られ朝献したと書いている。魏志倭人伝には、景初二年とはっきりと書かれているのだが、その年は魏と公孫氏が戦闘中で、戦時下の帯方郡に使節を送るはずがないという考えから江戸時代以降改訂が加えられ、後代の研究者は改訂に疑問をもたず景初三年が定説となったものだと「邪馬台国はなかった」の著者である古田武彦はいう。

古田武彦は、景初二年だからこそ説明でき、三年では解釈不能の事実がいくつもあると指摘する。(1)帯方郡太守が倭国使節に護衛をつけて都へ送り届けたのは、魏と公孫氏が戦争中だったからである。このとき以外に使節に護衛をつけるなどという記録はない。(2)倭国の使節は人数が少なく貢物が貧弱だったのは戦時下だったことで説明できる。それ以降、これほど使節や貢物が少なかったことはない。(3)戦争中にも関わらず、東夷諸国の中でいち早く倭国が使節を送ったことを魏は喜び、親魏倭王という称号と豪華な下賜品を与えた。(4)景初二年12月に魏の明帝は病を発し急死する。だから同月に魏は親魏倭王と下賜品を装封(品物は準備したが封印して留め置いた)し詔書だけを出した。(5)1年の喪が明ける景初三年12月に諸公事を再開し、実際に使者を発したのは翌正始元年で下賜品は卑弥呼に直接届けられた。

卑弥呼への下賜品は景初二年12月に装封したのだから、そこに景初三年銘の銅鏡が入る可能性はなくなるというのが古田の説である。だから、景初三年銘の銅鏡は、卑弥呼に下賜された銅鏡百枚ではないというのだ。もちろんその後も魏と倭国の使節の交換は続いたので後の使者が持ち帰った可能性は残る。一方、同じ鏡が中国では1枚も発見されていないことから、中国で作られたものではなく日本で鋳造されたという説もある。いずれにしても三角縁神獣鏡が近畿周辺で数多く発見されていることで邪馬台国の所在地が確定したということにはならないと九州説派は述べている。しかし、魏の年代を記した銅鏡が東北から九州まで広く存在することは特筆されなければならない。

 ところで、3Dプリンターの威力はすごいが、グーグルがまもなく限定販売するGoogle glassも優れものである。アーノルド・シュワルツェネッガーの「トゥルーライズ」で小型カメラの映像がメガネに映写されるスパイキットが出てきた。「ロボコップ」や「ターミネーター」では自分や対象物のデータが眼前に映し出された。それがやっと現実になってきた。検索、道案内、写真・ビデオ撮影、翻訳が音声指示でできるという。道を歩いていると、昼時なら近くのレストランを嗜好に合わせて教えてくれるらしい。ネット上で個人の嗜好はすでに筒抜けになっているから個人情報を制限することはもはや無理のようである。津波のときの人間の行動を分析するために集められたビッグデータをみると、個人の行動パターンは携帯やNavi管理会社にすべて把握されている。これらデータの制限は防災を目的とする津波時の行動パターンの分析やネットの利便性を阻害してしまうので、それを使う側の倫理観や、利用方法が適法かを監視するしかないと思う。


神武天皇

2014-04-06 12:00:51 | 古代

「古事記」の序を書いた太安万侶の墓は、1979年に奈良市此瀬町の茶畑(新薬師寺から東に5㎞ほどの山中)で見つかり、火葬された骨と真珠の入った木棺と、41字からなる青銅製の墓誌が出てきた。41字には、居住地、位階、没年(癸亥年(養老7年=723年)7月6日没)が記されていた。生年は不明だが文献上も考古学上も存在がはっきりとしている貴重な古代人である。それに比して、太安万侶が稗田阿礼から聞き取り「古事記」で語られる最初の天皇である神武天皇の存在は模糊としている。神武天皇のことは「古事記」と「日本書紀」の短い記事がすべてであり、それも神話、伝説、物語の域を出ず史実とするには外国資料も考古学も役には立たないと植村清二は自著「神武天皇」で述べている。この本は、昭和32年に書かれた。戦前の皇国史観では神武天皇は皇室の祖として尊崇されたが、戦後は一転してその存在さえ否定され教科書から名前が消えた。その所為か子供のころ(昭和30年代後半)いつも遊んでいた眉山中腹の公園に立ってこちらを見下ろす大きな像が神武天皇ということさえ知らなかった。政治的な事情で”史的事象の評価にまで変化が生じるのは好ましいことではない。”と植村清二は前置きして本書を書き始める。

記紀にある神武天皇の事跡をまとめた植村を、さらにかいつまんだものが以下である。

神武天皇はウガヤフキアエズノミコトと玉依姫(タマヨリヒメ)の四男として生まれ、兄たちといっしょに日向の地を発し東征する。筑紫、安芸国から吉備国に至りそこで3年あるいは8年留まる。難波に着いた皇軍は中洲(なかつくに)に入ろうとするが長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれ長兄の五瀬命(イツセノミコト)は矢傷を受け紀伊で薨去する。皇軍は熊野へ行く途中暴風雨に会い次兄と三兄も海に入ってしまう。熊野から中洲までの山道は険阻だったが八咫烏が先導し、宇田に到着した。土着の八十梟師(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)を倒し、長髄彦と再度対決する。戦いは不利であったがそこに金の鵄(とび)が現れ、金の光に目がくらんだ長髄彦を滅ぼす。その後も神武天皇は土蜘蛛などを滅ぼし、ついに中洲を平定し帝位につく。記紀の神武記は、この事跡に地名説話と歌謡を散りばめて構成されている。

以上が文献にある神武天皇である。考古学的には神武天皇陵がある。日本書紀の天武記に、壬申の乱(672年)のとき馬と兵器を神武陵に奉ったという記事がありその位置は畝傍山東北と記されている。また古事記の神武陵は畝傍山の北方白橿尾上と記される。7世紀後半に皇室が認定した神武陵があったということである。今の神武天皇陵は、畝傍山北東の麓、橿原神宮に隣接した地区が明治時代に指定されたものである。そこが考古学的に神武陵だと確認されたわけではなく、他にも有力な比定地(畝傍山の東北隅の丸山など)がある。

神武天皇の事跡の中心は、東征と大和平定の2点である。大和平定が事実であることに間違いないが、日向を出て大和に来たという東征については確証がないという。植村清二は神武東征は邪馬台国の東遷を反映しているという説を支持している。理由は以下のとおり。

  1. 邪馬台国が北九州にあったことは魏志倭人伝の記述から疑いようがない。
  2. 中国の史書にある倭国は、3世紀から7世紀までずっと一つの連続した王朝である。
  3. 九州中心の銅鉾・銅剣文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏は古墳文化の成立とともに消滅する。8世紀の大和朝廷は銅鐸が何であるかの知識がない。鉾と剣は記紀神話の中に頻出するが、銅鐸の記述がない。すなわち畿内勢力は銅鉾・銅剣文化を有する北九州の王朝によって支配権を失ったとみなされる。
  4. 魏志倭人伝に記された三世紀半ばの邪馬台国は、4~5世紀の大和政権の前段階の状況を示す。
  5. 卑弥呼の墓は、”大いに冢を作す。径百余歩。”とあり、北九州では甕棺主体の弥生式文化から古墳前期に墳墓の上に盛土をしたものが認められる。
  6. 3世紀に邪馬台国と並立して畿内に強力な国家があったなら大陸と通じなかったとは考えられないが、倭人伝にはそのような形跡はない。
  7. 記紀神話は天下を三分する勢力として大和、出雲と熊襲があり、大和朝廷は出雲と熊襲を征服したことを語っているが、大和朝廷が北九州を征服した説話がなく、九州勢力(神武天皇)が大和を征服したことが記されている。
  8. 東遷の時期は早くても3世紀末であろう。
  9. 4世紀末に倭国が朝鮮半島で高句麗と戦った(広開土王碑文)ことを考えると畿内勢力は、その時点で北九州を含む西日本を支配していなければならない。
  10. 仁徳天皇や応神天皇陵の規模から、その頃(400年前後とする説が有力)の畿内勢力は強大だった。
  11. 北九州と大和に同じ地名が存在しそれは偶然ではなく必然的な関係があったと考えざるを得ない。
  12. 隋書「倭国伝」に阿蘇山に因って霊祭を行うとある。隋の使者である裴世清らが聞いた話であり、倭人にとって阿蘇山が神聖視されていることは明らかで、東遷の記憶である。(九州王朝説では裴世清は近畿までは行かず九州王朝を訪問しただけなので、阿蘇山の話を裴世清が聞いたのは当然だったとする。)
  13. 北九州は鉄器使用において近畿勢力に優先したので軍事的に優位だったため東遷と征服が成功した。魏志「韓伝」に弁辰で鉄を産し倭が輸入していたとあり、鉄の製鉄技術を表す(たたら)という地名は朝鮮半島だけでなく北九州にも存在する。
  14. 邪馬台国そのものが東遷したのではなく、邪馬台国の一部あるいは別部が東遷した。これは旧唐書「日本伝」に”日本国は倭国の別種なり。日本国は元小国なり。倭国の地を併す。”とあり、当時中国には遣唐使が多くいたため、この旧唐書の記録が彼らからの伝聞によるとも考えられる。

植村は邪馬台国が北九州にあったことは文献上疑いようがないと断定する九州説派である。理由は以下のとおり。

  1. 倭人伝は最初に、「旧倭人国百余国あり。漢の時朝見するものあり。今使訳通ずる所三十国あり。」とし、次に、狗邪韓国、対馬、一大(一支)、末蘆、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬壱(台)と9か国の名前を上げ、さらにその後に21か国の名をあげている。狗邪韓国は朝鮮半島南岸(倭人伝「倭の北岸狗邪韓国」)にあった倭国で、残りの8か国の位置は九州を出ない。邪馬台国が三十か国を統属していたということで邪馬台国が三十国の中心あるいは直近に位置していたことは明白であり、遠く離れた畿内とは到底考えられない。
  2. その頃の国の大きさは対馬が千余戸、最も大きな邪馬台国は七万余戸と記され、魏志の韓伝に記された朝鮮半島南部の諸国の大きさとほぼ同じ規模である。そのうち馬韓は五十余国からなると記載がありその領域を考えると、倭の三十国が近畿から九州までの広大な地域を支配していたとは到底考えられない。
  3. 「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国あり。皆倭種なり。」という倭人伝の記事は本州、特に畿内に国が存在することを示す。邪馬台国畿内説ではこの記事の解釈ができない。
  4. 大和の古墳から発見された魏の銅鏡(景初3年の三角縁神獣鏡)が卑弥呼に与えられた銅鏡百枚とは断定できない。大和の古墳の多くは4世紀以降とされているので考古学的に卑弥呼の冢を畿内の古墳と断定することはできない。

3世紀の北九州の倭国(邪馬台国)と7世紀の畿内の倭国は連続した王朝である以上、北九州の勢力が東遷して大和を中心としたことは疑いようがないとする。ところが植村は邪馬台国の主力が東遷したのではないという。では、九州にとどまった邪馬台国主力はその後どうなったのだろうか。それと九州説最大の弱点は、強力な政権の存在を示す巨大古墳が畿内や吉備にあって九州にないことである。

植村が本書を著わした昭和32年から十数年後の昭和46年に古田武彦は「邪馬台国はなかった」を発表した。邪馬台国の所在についての古田の結論は植村説とほぼ同じである。植村は邪馬台国主力は北九州に残ったとするので、古田の九州王朝説の萌芽はすでに植村説に見えている。古田は植村の説に、白村江の戦いで天皇が人質になったこと、倭の五王は大和朝廷の天皇ではないこと、アメノタリシヒコは聖徳太子ではないこと、磐井の反乱は大和朝廷側が反乱者だったことなどを加えて自分の九州王朝説を補強したようにみえる。

本書は神武東遷を扱ったにも関わらず江上波夫の騎馬民族説には触れていない。後藤均平による本のあとがきに、騎馬民族説について植村清二がどう思っていたかを示すエピソードが紹介されている。聴講生が聞いた植村清二のことばは、「江上君は尊ぶところあり、されど真実はさらにわが良き友なり」というものであった。先入観や剽窃とは程遠い研究者の矜持と心構えがひしひしと伝わってくる。今の神武陵に考古学的な確証はないと植村が言ってることは既に書いた。天皇陵は、由来がはっきりしている天武持統陵など極わずかを除き大半は確証がないか間違いであると言われている。斉明天皇陵は間違って指定された代表例である。宮内庁が天皇陵の発掘調査を許可しないので日本の古代史と考古学は大きく停滞している。最近の発掘により考古学的にほぼ確実とされる新しい斉明陵についても、宮内庁は間違いを認めようとせず、ここが斉明陵ですと書いたものでも出現しない限り訂正はしないと公言したときには暗然とした。宮内庁にとって真実は重要ではなく矜持も心構えも必要ないらしい。


年輪年代法

2014-03-01 17:18:50 | 古代

  大橋一章の「法隆寺五重塔心柱伐採年の意義」という2001年10月の論文を読んだ。法隆寺五重塔の心柱の伐採年は594年であると、日本の年輪年代法を確立した光谷拓実が2001年2月20日に発表した。670年に(創建)法隆寺が全焼し、今の法隆寺が再建されたのが7世紀後半から711年までの間であることから、なぜ100年も前に伐採されたヒノキを使ったのかが問題になった。歴史学者や研究者が様々な説を展開しており、大橋はこの論文でそれらを検証したのち自説を披露している。建築年から100年前に伐採された木材が使われた理由として貯木説と転用説がある。貯木説は、建築用に伐採した後、貯木すなわち寝かしていたというもので、転用説は他の寺で使われていた木を転用したとする意見である。以前、この問題が気になって上原和に聞いたことがあるのだが、その時の上原和の意見は意外にも貯木説だった。上原和は法隆寺の再建を680年としているので、86年間貯木していたことになる。大橋一章の論文で引用された上原和の意見は、「転用とか寝かせていたという意見が出るだろうが、私にはどちらも考えにくい。年代が正しいとすれば、なぜそんな柱が使われたのか不思議でしようがない。」というもので、大橋はこの発言から、上原和は年代測定法に疑問を持っていると解釈している。論文の索引をみると上原和の意見は伐採年が発表された日の2001年2月20日に共同通信に語ったもので、私が上原和に質問したのは2010年、共同通信記事から10年近く経っている。当初と同じように転用説はとらず、積極的か消極的かわからないが貯木説だった。年輪年代法に対する疑義は解けたのだろうか。

転用説批判

大橋論文で紹介された転用説の代表は、梅原猛の飛鳥寺の仏塔を転用したという説で、飛鳥寺は596年に完成しているので心柱の年代とぴったり合うとする。他に、直木孝次郎の没落した蘇我氏の氏寺である豊浦寺とする説や、森郁夫の創建法隆寺の燃え残った心柱または法起寺や中宮寺からの転用の可能性もあるという説である。大橋は梅原猛説について、680年当時最高位に認定された官寺である飛鳥寺を解体する理由が見当たらないと反論する。飛鳥寺の仏塔は1196年に雷で焼失したという記録があり、飛鳥寺からの転用なら解体後に再建した記録があるはずだという。また、日本書紀に記録された飛鳥寺は593年に心礎に舎利を安置し、翌年594年正月には心柱が立っているので、594年伐採の木が飛鳥寺で使われた可能性さえないという。大橋は、梅原に「心柱で聖徳太子の霊を鎮魂したに違いありません」といささか情緒的に言われてもすれ違うばかりであるとし、学問的、学術的な見解とは程遠い意見だと言わんばかりである。直木孝次郎の主張する没落した蘇我氏の豊浦寺も、7世紀後半、天武天皇の100日法要を行うほどの寺格を与えられているので解体理由がないという。森郁夫の説に対しては、創建法隆寺の燃え残りと言われても推測に推測を重ねたものゆえ論評のしようがないとし、梅原猛説と同じように学問的根拠がないことを問題とする。森は7世紀後半に法隆寺周辺の斑鳩では再開発が行われ法起寺や中宮寺の仏塔が解体されて法隆寺五重塔に利用された可能性もあるとするが、これに対しても中宮寺は長い年月をかけて7世紀後半に完成しており、中宮寺の三重塔は鎌倉時代まで建っていたという確実な記録があり、やっと完成した建造物を解体し心柱を取り出したのち、さらに再建するなどありえないと大橋は断定する。また、法起寺の三重塔は法隆寺再建当時まだ形さえなかったという。

転用説に対する反論として、1941年の法隆寺五重塔の解体修理で心柱に転用の痕跡がまったくなかったこともあげている。心柱を再利用したならまったく同一規格でないかぎり当初の仏塔の痕跡が残るはずでこのことからも転用説は成立しないという。

貯木説

次に貯木説だが、上原和も疑問視したように、建築材を100年も寝かせることがあるのだろうかという疑問にどう答えるかが論点になる。古代寺院保護の責任者で第一人者で元奈良文化財研究所長の鈴木嘉吉は「伐採年はずいぶん古いが伐採から建立まで木を寝かしていたのだろう」と明快に述べたという。これに対して、大橋も貯蔵はありうる、いやもっと断定してあったとする。594年当時、日本ではやっと寺院建設が始まったばかりでその第一号が飛鳥寺であった。百済から寺院建設のために工人を派遣してもらったように、当時の朝廷には、どこもかしこも寺を建立するような力はなかった。だから、594年当時の日本で巨大寺院建築ができる集団は飛鳥寺建築を請け負った百済工人だけであり、法隆寺五重塔再建に使われた心柱は、飛鳥寺の仏塔の予備材としてその時に百済工人によって切り出された木材だという。光谷がやはり発表した法起寺の三重塔心柱の最外年輪(樹皮が確認されていないので最外とする)は572年であるが、百済工人が来日したのが577年である。法起寺心柱の最外年輪と樹皮まで5年分の年輪が除去されているとすれば、百済工人が来日してから伐採されたと推測することも可能である。法起寺の塔露盤銘に、法起寺の草創は622年の聖徳太子の遺願で岡本宮を寺とすることになり、638年に本尊弥勒菩薩像と金堂を創り、685年に仏塔を建てることになり、706年に完成したということが記録されている。完成までに発願から84年もかかっているのである。それと天武朝の7世紀末の朝廷の経済情勢は極めて厳しく、たまたま残っていた予備材を使ったこともうなずけるという。

大橋論文は、難波宮の柱の年代が酸素同位体法で612年と583年と確定したと言うニュースが数日前にあり、もっと情報を取ろうとネットサーフィンしていたときに見つけたものである。難波宮は、孝徳天皇が大化の改新の645年に遷都した都で、大阪城の近くに位置する。孝徳天皇の甥で皇太子だった中大兄皇子(のちの天智天皇)は皇后や一族を連れて奈良に戻ってしまい、一人難波宮に残った孝徳天皇は失意の中翌年淋しく病没する。孝徳天皇は有間皇子の父親で、親子で天智天皇に殺されたともいえる。そういえば、最近では中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒した645年を、改革に注目した大化の改新という名称よりも蘇我氏を倒した政変である乙巳(いっし)の変と呼ぶことが多いらしい。

酸素同位体法とは、年輪中の同位体酸素3種(O16、O17,O18)の比率が気候を反映することに着目し、各年次の酸素同位体比率をカレンダーにして木材の伐採年を求める方法である。年輪年代法が年輪の幅のパターンでカレンダーとしたアナログ法であるのに対し、酸素同位体比率の数値で年代をデジタル化したようなものと理解している。光谷の年輪カレンダーの酸素同位体による検証はすでに終わっているのかが気になるところである。

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もうあの感動は少しずつ過去のものになってきたが、浅田真央のフリーの演技は涙なくして見られなかった。真央ちゃん感動をありがとう。


騎馬民族征服説

2014-01-11 21:35:51 | 古代

NHKの「ダーウィンが来た」でモウコノウマ(蒙古野馬 写真はNHKWeb-siteより)を観た後、大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングに空駆ける白い馬が出てきたことから、「スーホの白い馬」を思い出した。教科書にある感動のモンゴル民話である。

両親をなくした羊飼いの少年スーホは草原で弱っている白い仔馬を見つけ、連れ帰って世話をする。白い馬はスーホの世話で元気を取り戻し2人で草原を駆け回り兄弟のように成長する。数年後のある日、王様の競馬大会の勝者はお姫様を嫁にすることができるというお触れが届く。自分たちがどれだけ早いかを知りたくてスーホは競馬大会に参加する。競馬大会で優勝したスーホをみた王様はみすぼらしい少年に姫をやることはできないと、金貨3枚を与えてスーホを追い払い、白い馬をスーホから取り上げてしまう。王様の隙をみて逃げ出した白い馬は家来たちに追いかけられ体中に矢を受け、傷ついた体でスーホの家に戻ってくる。瀕死の白い馬は翌日スーホの腕の中で死んでしまう。夢の中に出てきた白い馬のお告げに従い、スーホは白い馬の体で琴を作る。こうしてできたのがモンゴルの馬頭琴である。

世界で唯一の野生馬だったモウコノウマは、1960年代に一度は絶滅したが、家畜だったモウコノウマを野生に戻すことで、現在はモンゴルの自然保護区に200頭程が生息しているという。下北半島に数十頭いるという寒立馬(かんだちめ)は、蒙古馬と日本馬を掛け合わせた混血馬で、掛け合わせのために蒙古馬が輸入されたのは、平安時代、15世紀、あるいは17世紀の南部藩の時代だともいわれる。魏志倭人伝には卑弥呼の時代、日本列島には馬はいなかったと書かれている。ところが、聖徳太子が法隆寺から飛鳥まで片道10㎞はあろうかという太子道を馬で通ったように6世紀から7世紀には騎乗の習慣があった。

5世紀以降、日本列島に馬が増えた理由として、大陸にいた騎馬民族が日本列島にわたり現住民族を征服し大和朝廷を建てたというのが、江上波夫の騎馬民族征服説である。40年前、学生のときに仙台の本屋で見かけた江上波夫の「騎馬民族征服説」を衝動買いしたことを思い出す。同じ頃、騎馬民族説をネタにした豊田有恒の小説「倭王の末裔」も読んだ。あらすじはあまり覚えていないが、神功皇后を補佐した武内宿禰が驚くほど長寿だったことと小説としてはあまり面白くなかったことだけを記憶している。江上波夫の騎馬民族征服説とは以下のようなものである。

  1. 3世紀の日本列島を描写する魏志倭人伝に「牛馬なし」とあるのに対し、4世紀後半から5世紀の古墳の副葬品に馬の埴輪や馬具など騎馬民族的特徴が顕著になる。
  2. 天孫降臨説話や神武天皇の東征は騎馬民族が日本列島を征服する過程である。
  3. 崇神天皇はその和風諡号であるハツクニシラシ・ミマキイリヒコから任那(ミマキ=辰韓)を根拠地として北九州に侵入し、初めて国を治めた(ハツクニシラシめた)。
  4. 応神天皇は近畿に進出し大和朝廷が成立した。
  5. 旧唐書の「日本は倭国の別種であり、元小国の日本が倭国を併合した」という記述は騎馬民族の征服を意味する。
  6. 広開土王の高句麗と戦ったのは神功皇后や応神天皇である。農耕民族がこのような遠征をするはずがない。
  7. 倭王武が中国の南朝宋に主張した倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東将軍の称号に弁韓が含まれていないのは、倭が任那とともに弁韓を支配していたからだ。
  8. 続日本紀に、渤海使に与えた返書に、かつての高麗が日本に対し兄弟と触れていることから、天皇家、新羅、百済などは同族である。
  9. 渡来人を多く受け入れる習慣は排他的な農耕民族にはみられない。
  10. 皇位継承が血統により、男子王が亡くなりつなぎとして女帝を立てることなどは騎馬民族の特徴である。

江上波夫の騎馬民族説は、4世紀と5世紀の間に考古学的な断続がなく強い連続性があること、中国の史書に騎馬民族征服を示唆する記述はなく1世紀から7世紀までずっと連続する倭国と記録されていること、3世紀から7世紀に築造された前方後円墳は近畿で発祥し大陸にはないこと、皇室行事に遊牧民的な伝統儀式がないこと、家畜を去勢する遊牧民特有の習慣がないこと、日本では騎馬民族の使う短弓ではなくずっと長弓を用いていること、神経質な馬を渡海させるのは困難であることなどを理由として、現在ではほとんど顧みられなくなっている。

近畿中心に考古学的な発見が相次いでいることから、近畿一元史観、大和一元史観に反論できないのである。邪馬台国もこのまままでは近畿ということになりそうな勢いである。古代史ファンとしては、騎馬民族説や九州王朝説に続く、”わくわくし、あっと驚くような”仮説が出てきてほしいものだ。


阿倍仲麻呂

2013-12-30 23:22:54 | 古代

新聞紙上で紹介されていた新刊の上野誠「遣唐使 阿倍仲麻呂の夢」を読んだ。仲麻呂は遣唐使として唐に渡り現地で異例の出世をし、帰国途上に遭難し、望郷の念から百人一首の「三笠の山にいでし月かも」の和歌を残し、唐で没した。という知識しか持っていない。まずは略歴から述べる。

  • 701 大宝元年生誕 (698年説もあり)
  • 716 仲麻呂16歳で遣唐使に任命される
  • 717 遣唐使長安へ
  • 718 遣唐大使らは帰国
  • 724 聖武天皇即位
  • 733 遣唐使 栄叡、普照
  • 735 玄、吉備真備ら帰国
  • 743 鑑真第一次、二次渡航失敗
  • 748 鑑真第五次渡航失敗、海南島漂着
  • 749 鑑真失明、祥彦没、栄叡没
  • 750 遣唐使に藤原朝臣清河、大伴古麻呂、吉備真備らを任命
  • 753 朝賀の際に新羅との席次問題
    • 仲麻呂、鑑真、吉備真備ら帰国の途に
  • 755 安禄山の乱
  • 762 玄宗皇帝没
  • 770 仲麻呂没

安倍一族

桜井市付近に本拠地を置く。日本書紀に名前が見られ代々外交や軍事に関わる役職についている。安倍比羅夫は数回蝦夷討伐を行い、663年には白村江の戦に従軍する。

旧唐書

九州王朝説の根拠のひとつである倭と日本国の使節が争ったというのは717年の遣唐使の時のことである。「日本国は倭国の別種である。倭国自らがその名が雅でないとし名を改めて日本とした。別の言い伝えでは日本はもともと小国であったが倭国の地を併合したともいう」

「仲満(仲麻呂)は中国の風を慕い、帰国せず留まり、姓名を晁衡(ちょうこう)と改めた。衡は京師に留まること50年、書籍を愛し帰国の許可を与えても帰らなかった。」

科挙

仲麻呂が科挙に合格していたという記録はないが、仲麻呂が唐朝で就いた役職から、科挙に合格していたと推定されている。最高位は秘書監で従三品、その後、鎮南都護、安南節度使、贈潞州大都督。仲麻呂が受けたと推定されているのは、科挙のうち最難関コースの進士科で、試験科目は「帖経」儒家の経典の知識を問うもの、「詩賦」詩や賦の優劣を競うもの、および「時務策」時事問題に関する論文である。唐だけでなく歴代の中国王朝は外国人、異民族、異教徒でも能力があれば重用したと言える。仲麻呂だけでなくマルコ・ポーロやイスラム教徒の鄭和なども重用されている。

送別詩

玄宗皇帝、王維らが仲麻呂の帰国に際し送別詩を送り、仲麻呂はそれに答える詩を残している。また、李白は仲麻呂が帰国の途上、遭難死したと聞いて死を悼む七言絶句「晁卿衡を哭す」を残す。王維の詩は、中国の古典に対する基礎知識がないと理解できない。詩の送り手と受け手双方の知識人の中に「共有された知」がある。論語や礼記や易経や春秋左氏伝などの儒教関係経典、淮南子列子楚辞などの古典、史記、漢書、三国志、山海経などの歴史書である。卑弥呼関羽も出てくるので王維は三国志と魏志倭人伝の記事も知っていた。漢書李陵伝からの引用もあるという。史記の楽毅や信陵君も登場する。

王維:699-759 唐の詩人、書家、画家。李白や杜甫と並び称される。字の摩詰(まきつ)は、仏教の維摩経の維摩詰からとっている。維摩は俗に居ながらにして文殊菩薩や釈迦の弟子たちと知恵を競った。

和歌 

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも 

この有名な百人一首にもある仲麻呂の歌は、唐土にて月を見て詠んだ歌と注釈されている。仲麻呂作とされるこの歌には、実作説、偽作説、仮託説、伝承歌説があるらしい。実作説は少数派らしい。偽作説には、そもそも中国語による漢詩だったという原漢詩説がある。仮託説と伝承歌説は、作者不明の歌を仲麻呂の作とした(仮託)というもので、それを伝承したものが伝承歌説である。この歌は905年編集の古今和歌集に収められている。935年の土佐日記で紀貫之が土佐の室戸の室津で潮待ちで焦燥する中、仲麻呂が異郷で詠んだこの歌のことを書いている。

筆者は本書の題になってる「仲麻呂の夢」が何だったかを明確には書いていない。17歳の若年で遣唐使となったとき、遣唐留学生の誰もがそうであったように唐で最新の学問を身に着け帰国し国作りに貢献することが夢だったはずだ。ところが、仲麻呂の才は図抜けていたため最難関の科挙の進士に合格してしまう。合格後、仲麻呂は成行きのまま唐朝に出仕し、順調に出世し高官を歴任する。当時、世界最高峰の文化を有する中国の知識人の中の「共有された知」の世界に身を置いてしまえば、小さな日本に戻る選択肢などなくなってしまったのだと思う。仲麻呂の夢が、最高の舞台で力を発揮する方向に変わったとして、誰がそれを非難できるだろうか。


九州王朝

2013-10-15 23:19:52 | 古代

古田武彦の九州王朝説は、本人曰く「学会から無視されている」。ところが、古代史学会の泰斗である井上光貞は、今読んでいる「飛鳥の朝廷」の中で、関東と九州の金石文に雄略天皇の名が見えることから九州王朝の根拠はなくなったと述べているので、まったく無視はしていない。それどころか、本の末尾に1章を設け唐突に九州王朝説に言及していることや、空中楼閣だと強い言葉で否定しているので、井上光貞は九州王朝説に相当ひっかかっていたとみるべきかもしれない。「邪馬台国はなかった」という人目を引くタイトルで初めて古田の本に触れ、その後、古田の古代史シリーズにのめり込んでから20年は経つだろうか。古田に出会うまでにもいろいろな著名人の古代本を読んではいたが、九州王朝説ほど衝撃を受けたものはなかった。強いてあげれば江上波夫の騎馬民族征服説くらいだろうか。古田によって古代史の魅力の虜になり、その後、梅原猛や上原和に熱中していったのだと思う。古代は資料が限られているので想像力がいるのである。

古田の九州王朝説は、中国の史書に見える倭国あるいは日本国の記事と記紀に代表される日本側の記述の矛盾の多くが九州王朝という仮説によって説明できるというものである。以下がその概説である。

  • 古代、日本列島には、九州王朝、大和王朝、吉備王朝、出雲王朝、関東王朝などの国が勢力を競いながらそれぞれの地域を支配していた。しかし、中国の歴代王朝が交渉を持ち、倭国と認識していたのは、中国の最初の史書(山海経?)に現れたときから旧唐書までずっと、九州にあった。それは、卑弥呼の倭国であり、700年近くまで存続していた。
  • 九州王朝は、九州北部(筑紫や大宰府)に都を持ち、朝鮮半島の南部をも含めた海洋王国であった。
  • 6世紀以前の記紀に中国との交渉史がまったく出てこないのは、中国側の邪馬台国や倭の五王の朝貢記事と相容れない。このことと、倭の五王と大和朝廷の天皇の即位年代や相続関係が一致しないということは、倭の五王は大和朝廷の天皇とは別系統の九州王朝の大王たちだったからである。
  • 磐井の反乱の磐井は九州王朝の大王で、反乱を起こしたのは大和政権の方だった。
  • 6世紀の磐井の陵墓にある石人は当時の裁判を表現しており、九州ではすでに律令制が敷かれていた。
  • 隋書に記述されている隋の煬帝に国書を送ったアメノタリシヒコは、その妻妾の数まで記載されているように明らかに男王であるが、当時の大和政権は、女帝の推古天皇である。通説では女帝であることを隠し摂政の聖徳太子を大王として国書を送ったとするがこの解釈には無理がある。九州王朝の男の大王が使者を送ったとすれば隋書の記述を無理なく理解できる。
  • 遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。
  • 唐・新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。
  • 6世紀初めから700年ごろまで続く九州年号が存在するが、記紀にはその断片しか記録がない。年号の改元年と大和朝廷の天皇の崩御と即位年がまったく一致しないことは不自然である。九州王朝は年号を持っていたが、大和政権には独自の年号がなかった。
  • 旧唐書には倭人伝と日本伝があり、倭国の使者と日本国の使者が自分の正統性を主張し言い争いをしたと記録されている。

上記以外にも、壬申の乱は九州王朝と大和王朝戦いだった論や法隆寺移築論などがあるが、論理が飛躍しすぎだろうと思うものは恣意的に省いた。 

九州王朝説に対しては様々な反論や批判があるが、その多くは方法論に対する批判だったり、一部の資料の恣意的な解釈や信憑性への批判だったり、古田個人への批判だったりで、井上光貞のように九州や関東で大和朝廷の支配が確立していたという証拠をあげる正統な反論は少ないように思える。井上光貞の指摘に対して古田は、両金石文の大王名は雄略天皇ではなく、その地方の固有の大王名だとし真っ向から対立する意見を述べている。九州王朝説と大和一元王朝のどちらがより矛盾なく文献資料や考古学資料を解釈できるかを問うべきであり重要なのである。同じように、梅原猛の多くの仮説も古田と同じように学会からは無視された状況にあり、彼らの出自が古代史専門でないことや、ある資料の解釈が恣意的であったことをことさら取り上げて否定するのは正しい態度とは言えないのではないかと思う。九州王朝説を完全に真正面から否定する反論にはまだお目にかかっていないのである。


渤海

2013-06-29 14:53:55 | 古代

 今年88歳米寿を祝った父は、20歳のとき満州で終戦を迎えた。農家の次男として生まれた父は満蒙開拓団に志願し16~17歳のときに満州に渡り鐡驪(てつれい)に入植した。終戦間際に徴兵され3年のシベリア抑留ののち昭和23年にナホトカから復員した。満州入植と抑留時の父のことで知っているのはこれだけである。

厚労省の資料によるとシベリア抑留者数は57万5千人、うち帰還した者は47万3千人、死亡と認められる者は5万5千人、病弱で満州や朝鮮に送り返された者4万7千人となっている。抑留者の約10%が亡くなったことになる。抑留時20歳前半で壮健だったために父は生還できたと母から聞いた。

6月初旬のウラジウォストクの旅では、100kmほど東に位置するナホトカにも日帰りで立ち寄った。ウラジウォストクから車で片道3時間の旅である。下の写真は市庁舎前の広場で撮ったレーニン像で、背後がナホトカ港である。ナホトカには抑留者を葬った日本人墓地もあるがそこに行く時間は取れなかった。ナホトカ港は1~3月は凍結するらしい。19~20世紀にかけて不凍港を求めて南への野心を強めるロシア帝国と中国大陸での権益を確保しようとする日本の間で日露戦争が起こったことは周知のことである。ウラジウォストクからナホトカへ向かう道沿いは田園地帯で民家が点在していたが、見るからに貧しそうでインドネシアやフィリピンの田舎と差がないように感じた。民家の軒先には冬の暖炉用だと思われる薪が高く積まれていた。

 

 ナホトカの地名を最初に知ったのは、父からではなく、1970年前後に読んだ五木寛之の「青年は荒野をめざす」だったはずだ。主人公が新潟から当時のソビエト連邦のナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道に乗ってモスクワ、さらにはヨーロッパへ渡る放浪の旅を続ける話だった。五木寛之は当時売出し中で級友の間でも話題の中心だった。その影響だったと思うが「青年は荒野をめざす」に続けて「にっぽん三銃士」や「青春の門」を読んだ。映画化された「青春の門 筑豊編」は仙台の映画館で観たと思う。オリエ役の大竹しのぶが初々しかった。

ナホトカやウラジウォストクのある沿海州と呼ばれる地と中国東北部満州には古代、渤海国があった。

手元にある上田雄「渤海国の謎」講談社現代新書をひもとき、渤海国の概要を以下にまとめる。

  • 713年 建国(唐の玄宗が国として認める)
  • 727年 聖武天皇のとき日本へ初遣使、以降32回の使節交換があった
  • 895年 菅原道真が渤海大使の裴頲(はいてい)を鴻臚館で歓待し漢詩を交換する
  • 920年 最後の渤海使節団来訪
  • 926年 契丹の耶律阿保機によって滅ぼされる
  • 高句麗(668年滅亡)の残党が靺鞨人を率いて建国したと言われる。
  • 渤海使は新羅をけん制するために日本と交渉を持つことを願った
  • 日本との交渉は、当初ウラジウォストクの西にあった東京龍原府を中心に行われていた。
  • 都は主に上京龍泉府(現在の中国黒竜江省寧安県牡丹江付近)にあった
  • 使節の目的は、当初の軍事的利益から交易や文化交流に変化していった
  • 渤海使は毛皮、日本からは繊維を交易した
  • 続日本紀758年に女楽を渤海に賜ったとあり、新唐書・渤海伝に766~779年の間に渤海が唐に日本の舞女11人を贈ったとあり、同じ舞女ではないかと推定される
  • 前期渤海使は9~11月の秋に日本へ向かい、春から夏にかけて南東の季節風で戻った
  • 後期渤海使は1、2月の冬に日本へ向かう北西季節風に乗って来朝した。
  • 使節の出立港は前期は、冬凍結する東京龍原府の豆満江河口付近であったが、後期の出立港の吐号浦は不凍港でもっと朝鮮寄りだったと考えられる
  • 日本側漂着地は前期は出羽付近が多いが、後期は能登から出雲が多い。決められた上陸地はなくとにかく日本海を渡りきるという航海だった。
  • 遣唐使より難破の確立は低く比較的安定していた
  • 藤原仲麻呂は新羅征討を計画し渤海に挟撃を促したが、太平の続く渤海は誘いにのらなかった。764年道鏡に対し乱を起こした仲麻呂は敗れ失脚する。
  • 菅原道真は渤海使の裴頲(はいてい)を2度接待し、二人の息子同志も親子2代で親交を持っている

渤海国の版図(同じ本より)

 762年建立の多賀城碑には靺鞨国界(渤海)からの距離が三千里と刻印されている。多賀城は都を去ること1500里、奈良と多賀城間の距離は620kmだから、1里は413mと計算できる。多賀城から靺鞨国界は3000里なので、3000x0.413=1239kmとなる。日本に最も近い渤海国界をナホトカ付近とすると、多賀城からの直線距離は約840kmであり、3000里(1239km)とは合わない。渤海国の首都である上京龍泉府から多賀城までは1170kmで2840里となり、こちらのほうが多賀城碑の記録に近い。