備忘録として

タイトルのまま

高松塚古墳

2008-04-30 01:03:31 | 古代

高松塚古墳壁画の劣化の様子は以下の文化庁のホームページに詳しい。発見当初や劣化後の壁画写真、保存方法、壁画損傷事故調査委員会報告なども詳しく報告されている。
http://www.bunka.go.jp/takamatsuzuka_kofun/index.html

昭和47年(1972年)に古墳が発見された時点では現地保存方針だったが、その後カビの発生や漆喰の劣化、狭い石室での修復作業で壁画を傷つける事故が起こったことなどから石室を解体し最適な環境で壁画を修理する方針に変更した。

古墳は解体されて現在、明日香村の修理施設で壁画の修復が行われている。4~5日前、村民に向けて壁画が公開されたことがニュースになっていた。見学に来た中学生の「授業で見た資料写真と比べると、思っていた以上に色が落ちていた」という感想が紹介されていた。

左:昭和47年発見当初の西壁女子群像        右:平成18年9月の西壁女子群像
(いずれも文化庁ホームページより転載)

上原和は、自著”世界史上の聖徳太子”の中で、「発見当初から、壁画を剥離して修復・保存・展示することを主張していた」と述べている。このことは、河上邦彦(神戸山手大教授・考古学)が2007年2月毎日新聞夕刊の「解体高松塚」という対談中に、 「美術史の上原和さんは、見つかった当初から、壁画を外して外へ出すべきだと言っていた。」と述べていることからも確認できる。
上原和は訪れた中国で50墓500点以上の剥離壁画を見、かつ乾陵や永泰公主などの墓室に入って模写に代えられているのを視察することができた経験から、貴重な文化財は人類みんなの財産であり誰もが見ることができる環境を提供すべきだという観点によって剥離・保存を提案した。

文化庁が採用した現地保存方法は、壁画の公開を閉ざすとともに、結果として著しい壁画の劣化を招いてしまった。文化庁の報告から、文化庁内のセクショナリズム、情報公開や説明責任に対する認識の欠如などがこの結果の原因であることがわかる。しかし、何のために誰のために保存するするのかという基本原則がなかったことが最大の誤りであり、上原和らの意見を採用せず保存技術をヨーロッパに頼り多くの成果を上げている中国を無視しつづけたことにも原因の一端があると思う。
いずれにしても文化庁のリスク管理が杜撰だったことは明らかである。

今、青学大の環境経済学の准教授が光市の母子殺害事件の赤ちゃんを0.5人と数えたことがもとでブログが炎上していることがニュースになっている。差し戻した最高裁の判事の妻について「おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう」と述べたり、北朝鮮拉致被害者は幸せであるとか大阪府知事は人間の廃物利用といった過激な発言が多く、青山大学は准教授の処分を検討するらしい。准教授は”リスク理論入門”という本を出しており、自分のリスク管理ができていなかったということでも話題になっている。

Amazonの”リスク理論入門”ブックレビューが面白かった。
********************************************************************
著者の学問に対する情熱は余人の及ぶものではありません。
ネットにおいて個人情報を晒す事に対する如何に危険か知れ渡っている昨今、著者は自らの名前、職業、住所、経歴等々を晒し続けてきました。
その上で「拉致されためぐみさんは幸せ」「死者が十人ちょっとしかいない新潟県中越沖地震は巨大災害ではない」「茨城の人間はろくなのがいない」等々の問題発言を繰り返してきました。何故か?
全ては自らを実験体にしたリスク理論の研究だったのです。
残念ながらこれらの発言は広く知れ渡る事はありませんでした。著者は歯がゆい思いをしていたことでしょう。
しかし今回の「赤ん坊の命は0.5人分」発言をもって彼女の存在は広く世間に知れ渡る事になりました。
これこそが彼女の待ち望んでいた瞬間、これからいよいよ彼女のリスク研究の成果が実践で証明される事でしょう。
皆さん。これからの進展を温かい目で見守ってあげましょう。
きっと彼女は今、待ち望んでいた瞬間の到来に歓喜にむせび泣いている事でしょうから。
********************************************************************

私のこのブログで一貫してコメントを許可していないのは、リスク管理(人から非難され嫌な思いをしたくない)によるものなのだが、実名を明かさず公人でもない私がリスク管理を言っても失笑を買うだけだろうが。



天平の鬱

2008-04-24 23:35:43 | 万葉
タイトルをよく見てね。天平の甍(いらか)ではなく天平の鬱(うつ)だよ。

大君の 命恐み おし照る 難波の国に あらたまの 年経るまでに 
白たへの 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに
思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の
置きて去にけむ 時にあらずして(長歌抜粋)
(巻3・443)
昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく(反歌)
(巻3・444)

訳:
天皇のご命令を謹んで承って 難波の国で 年が経つまで長い間
衣も洗い干す暇もなく 朝夕忙しくお仕えしていたあなたは
どのように思われて 惜しいこの世をあとに残して
逝ってしまったのであろうか 死ぬべき時でもないのに(長歌)
昨日という日、あなたは生きていた。それが今日は、思いもかけず、浜松の上に雲となってたなびいている(反歌)

天平元年(729年)己巳、摂津国班田史生丈部龍麻呂の自ら経きて死にし時、判官大伴宿禰三中の作る歌
である。

つまり、難波の国に単身赴任し、服を洗濯する暇もなく忙しく働いていた友人が自殺したのである。Slow Lifeだと勝手に思いこんでいた1300年前の日本人も今と同じように、仕事のストレスでうつになり自殺していたのだ。

毎朝6:55~7:00放送の日めくり万葉集で精神科医の香山リカが選んだのがこの歌である。

作者の大伴三中は、この歌を詠んだ後、天平八年に遣新羅副使として新羅に渡った。航海は大変だったようで大使の阿倍朝臣継麻呂は帰路、対馬で亡くなり、大伴三中も病気になり天平九年1月に帰郷したが都に入ることができず帰朝報告ができたのは2ヶ月後の3月末のことであった。新羅への航海中に4首ほど歌を詠んでいる。

竹敷の 黄葉を見れば 吾妹子が 待たむと言ひし 時そ来にける

新羅へ行く途中、対馬の竹敷で詠んだ歌で、”紅葉を見ると出かける時に妻が待つと言った季節になってしまった”という意で、正月に家を出て秋になっても未だ行く途中であり、帰国しても病気で都の外に留め置かれ、おそらく妻に再会できたのは1年と数か月後だったに違いない。自殺した友人だけでなく宮仕えは大変で、うつにもなるわけだ。

聖徳太子4巻を読了

2008-04-23 23:40:01 | 古代
梅原猛の”聖徳太子”を読み終えた。昨年11月に読み始めたので約半年を要したことになる。中だるみで、他の本に手をだしたことや、ただ読み飛ばすだけの時もあったが、ほぼ全編わくわくしながら読んだ。

1.政治と文化の両面から太子を見ること
2.東アジアの情勢下で太子を見ること
3.法興寺(元興寺または飛鳥寺)建立の意味と時代背景、馬子との関係
4.日本書紀、伊予湯岡碑文、釈迦三尊像光背銘文、薬師像光背銘文、三経義疏、天寿国繍帳などの太子関連史料はいずれも信憑性がある
5.十七条の憲法は”和、礼、信、義、智”から成り、儒教、老荘、法家、仏教の思想が含まれる
6.十七条の憲法には太子の思想が凝縮されていて、冠位十二階や三経義疏の思想とも一致していて矛盾がない
7.信奉していた隋の煬帝の敗北と推古12年(612年、太子39歳)以降の太子の政治隠退の関係
8.三経義疏は太子作ではないと義疏を読まずに断定した津田左右吉批判
9.太子の家庭教師である慧慈、慧聡の役割
10.推古天皇、馬子、太子の力関係の推移
11.法興寺丈六の大仏入れ替えが蘇我氏の氏寺から官製寺は上原和の説
12.遣隋使、国書、筑紫出兵にみる太子の非凡な外交センス
13.梅原猛の飛躍した推論と断定調にときどきついていけなかったこと
14.太子の信念「世間虚仮、唯物是心」、太子の教え「諸悪莫作、諸善奉行」
15.太子の一乗経から浄土教が生まれた
16.ひとりでも不幸な人間がいるなら自分は幸せになってはいけない。太子と宮沢賢治の共通性。為政者としては?
17.太子廟の観察

概要や感想を詳しく書きたいと思っているけど、熱が冷めて書かないかもしれない。

飛鳥寺

2008-04-21 00:31:08 | 古代
4月16日の新聞に、今韓国で発掘調査中の王興寺が、飛鳥寺と深い関係にあることがわかってきたという記事が出ていた。塔の構造や出土品、瓦の文様が似ていることや、飛鳥寺がかつて元興寺または法興寺と呼ばれていたという寺名の類似性もある。王興寺は出土した舎利容器に刻まれていた文字から百済王の命により577年に創建されたことが判明したそうだ。

日本書紀の法興寺関連記事を列挙すると、
1.崇峻天皇元年(588年)に百済からたくさんの学者、役人、寺工、鑢盤博士(ろばん)、瓦博士、画工らがやってきた。
2.同年、始めて法興寺を創る。
3.崇峻3年に山で寺の木を切る。
4.崇峻5年に法興寺の仏堂と歩廊を立つ。
5.推古天皇元年(593年)に仏舎利を柱の礎のなかに置く。
6.推古4年に法興寺の建設が終わり、慧慈(えじ)と慧聡(えそう)の二人の僧が法興寺に住む。

577年の百済の王興寺の建設に携わった技術者集団が588年に来日したことは明白だろう。
法興寺の伽藍配置は下図(Asahi.comより)のように塔を3つの金堂が取り囲んでおり、日本では他に類がないユニークなものである。


ただし、百済の王興寺の伽藍配置は金堂が一つでこれとは異なる。法興寺の伽藍形式は、高句麗の都(平壌付近)で発掘された清岩里廃寺と同じだという

ここで注目すべきは法興寺に住したという二人の僧で、慧慈は高句麗から、慧聡は百済から推古3年に法興寺の落慶のために来た。その後二人とも日本に留まり聖徳太子の家庭教師となり、太子と慧慈は法興6年推古4年に伊予に湯治に出かけたりしている。

発掘調査による百済や高句麗の寺との類似性と文献による高句麗と百済から来た二人の僧の記述から、飛鳥寺(法興寺)は明らかに百済と高句麗の協力によって建てられたと言える。

ここまでの話は、梅原猛が自著”聖徳太子”第3巻第3章で述べていることで、百済の王興寺の発掘は彼の説を裏付けた形になる。

その後の法興寺に関する話として、推古13年(605年)に仏師の鞍作鳥(くらつくりのとり)が丈六の飛鳥大仏をつくり、本尊として奉納された。法興寺の落慶は推古4年であり、大仏が奉納された推古13年まで本尊がなかったのかということが問題になっている。日本書記には、大きな丈六の仏像を金堂に入れるのに鞍作鳥の工夫で入口を壊さずに納めることができたということが記されている。梅原は、落慶時には別の本尊があったのを、飛鳥大仏に変えたという本尊交代説を提唱している。本尊の交代は、法興寺という寺の性格が蘇我氏の氏寺から天皇の官製寺に変わったことを意味し、本尊交代は聖徳太子が主導したと述べている。このころから、蘇我馬子と聖徳太子はそれまでの密接な同志という関係から距離を置いた微妙な関係に変わってきたという。





犬の十戒

2008-04-13 17:11:01 | 話の種
追記:犬の十戒の訳について
昨日リンクした文芸春秋のホームページでは、
第10「Go with me on difficult journeys. Everything is easier for me if you are there. Remember I love you .」を 「私が死ぬとき、お願いです、そばにいてください。どうか覚えていてください、私がずっとあなたを愛していたことを。」
と訳していた。普通に訳せば、「困難な旅にいっしょに出かけましょう。あなたと一緒ならすべては容易です。私があなたを愛していることを忘れないで。」となり、死ぬときとは訳せない。
”山岸教授の日英語サロン”というホームページで、教授は文芸春秋の訳は誤訳だとし、いわく「犬たちをそう簡単に“死”や“天国”と直結させないでほしい。」と憤慨している。ただ、ホームページでは教授自身の訳を披歴されていないので何が正しい訳と考えているのかわからない。
http://blog.livedoor.jp/yamakatsuei/archives/51107804.html

ネットで”difficult journeys"が死出の旅あるいは終末を意味するのか検索してみたところ、いくつかあった。例えば、”Journal of Palliative Medicine”という医薬系雑誌の中の記事で”Easing The Difficult Journeys”という題が使われていた。ホスピスでの”the final phase of life”を”Difficult Journeys”と呼び、それをいかに楽にするかを報告していた。
だが、ほとんどのケースは、文字通り普通に困難な旅、または苦難に充ちた人生そのものを表している。Christian Recovery Internationalというキリスト教団体のホームページでは、”When we are on long and difficult journeys that require endurance, God promises to sustain us.”ということで、”difficult journeys”は明らかに、人生そのものであり、苦難に満ちた人生も神が支えてくれるという。

ところが、下記のような犬の十戒の異本があり、黒字の部分が追加されているのだ。
「Go with me on difficult journeys. Never say, "I can't bear to watch it" or "Let it happen in my absence." Everything is easier for me if you are there. Remember that I love you.」
この黒字の箇所を付け加えた訳が多数ネット上にあり、ほとんどは
「僕が天国へと旅立つ時には、そばにいてね。「見ているのが辛い」とか「私のいないところで逝かせてあげて」なんて絶対に言わないでね。」
などと訳されている。黒字の部分をみると終末の情景を表しているようにも思える。

でも、犬との別れは何も死別だけではなく、飼い犬を捨ててしまうケースや世話を放棄するケースもあることだし、やはりここは、キリスト教団体の文章をヒントに神が人間を見守り、いつもそばにいる”Presence of God”ように、犬の立場で飼い主がいつも見守ってくれる”Presence of Dog owner”と考えてみる。
「困難な旅にいっしょに出かけましょう。私を見捨てるとか、知らないとか言わないで。あなたと一緒ならすべては容易です。私があなたを愛していることを忘れないで。」というような訳が妥当のような気がする。でも、Impactがないので、映画のキャッチコピーには向かないか。


十戒

2008-04-12 21:15:28 | 西洋史
十戒はモーゼの十戒(Mt. Sinai)だけではないのだ。
最近は、”the Ten Commandments of Dog Ownersip(犬の十戒、正しくは犬の飼い主の十戒)”というものがあるらしい。もとは作者不詳の英語なのだそうだ。これをもとに”犬と私の10の約束”という映画が作られたらしい。犬の十戒は例えば下のホームページにある。
http://www.bunshun.co.jp/yakusoku/yakusoku.htm
読めば、うちの”Fk”(8才のメスのダックス)が愛おしくなる。

そして、聖徳太子が推古14年(606年)に講義を行った勝鬘経(しょうまんぎょう)にも十戒がある。勝鬘経とは、釈迦在世のころ仏教に帰依した勝鬘夫人という女性が語った経典であり、夫人は釈迦の前で十の戒を受けて、それを守ることを約束するのである。
1.犯心(悪い心)を起こさじ。
2.慢心(おごり)を起こさじ。
3.恚心(しっしん・怒り)を起こさじ。
4.嫉心(嫉妬)を起こさじ。
5.慳心(けんしん・惜しむこと)を起こさず。
6.財物を貯えない。
7.むさぼり、怒り、疑い、とらわれの心なく衆生を救う。
8.悩み苦しむ衆生を見捨てない。
9.悪いものがあれば捨て置かず善に帰せしめよ。
10.仏の正しい教えをしっかりと身につけよ。

1~5は自分の身を慎む戒であり、6~9は衆生(しゅじょう・生きとし生けるものすべて)を救済するために自分が立派な人間になることが必要であるという戒である。10は高い悟りの境地に入る戒であり、普通の人間には達成できない目標である。(梅原猛”聖徳太子・第4巻第2章より)

モーゼの十戒と比較すると、勝鬘経の十戒が道徳的、抽象的、博愛的であり、モーゼの十戒はより俗人的で直接的であることがわかる。そのため一般人にとってはモーゼの十戒のほうが何をしなくてはならないか、してはいけないかが明瞭に感得できる。これがキリスト教と仏教の違い、あるいは西洋思想と東洋思想(哲学)の違いなのだろうか。
聖徳太子は高い悟りの境地に至った人間は、すべてを投げうって衆生を救済しなければならないと本気で考えているのである。”財を捨て、命を捨て、身を捨て、すべてを投げ捨て”で思い出すのが、捨身飼虎(”玉虫の厨子”)、究極の犠牲である。



Mt Sinai

2008-04-11 00:38:38 | 
モーゼが十戒を授かったシナイ山に比定される山はいくつかあるということは、以前聖書の旅で書いた。現在本命視されていて多くの巡礼者が訪れるのはシナイ半島南端に位置し麓に"St.Catarine's Monastery(聖カタリーナ修道院)”が建つシナイ山である。下の写真は”steps of penitence(懺悔の階段)”と呼ばれる3750段からなる石段で、上に見える”Arch of St. Stephen”という門は結界となり、その先は聖なる山頂である。


泰山の階段に何と似ていることか。泰山の階段は7000段であるらしい。

”the Ten Commandments(十戒)”はカソリック、プロテスタント、ギリシャ正教会など宗派によって若干異なるらしい。以下はユダヤの十戒である。
1.わたしが汝の神である。”I am the Lord your God”
2.わたしのほかに神があってはならない、そして偶像を作ってはならない。
3.神の名を徒らに使ってはならないこと
4.安息日を守ること
5.あなたの父母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人の財産や妻を欲してはならない。
最初の4戒は神と人間の関係、残りの6戒は人間同士の関係を表す。




チャールトン・ヘストン

2008-04-08 21:13:59 | 映画
チャールトン・ヘストンが死んだ。鎮魂のつもりでYoutubeで”ベン・ハー”の戦車競走を探して見た。何度も見ているが小さな画面でも迫力が伝わってくる。今更ながらCGのない時代にすべて実写でこの迫力を出していることと競技場のスケールに驚かされる。”ベン・ハー”によってキリストの生誕から死まで、東方の3博士、奇跡、ローマ帝国、ガレー船などの知識を得た。しかし、最初に”ベン・ハー”をいつどこで観たのか全く思い出せない。高校の時に”ベン・ハー”の原作本を読んだので映画を見たのは高校か中学だったことは間違いない。それなら徳島の映画館かテレビの映画劇場だったはずだ。何度目かの”ベン・ハー”はシンガポールの映画館でも見ている。”ベン・ハー”は南北戦争に参加したことのある軍人のルー・ウォーレス将軍が書いた小説で、そのころはユダヤ人がアメリカ国内で重要な地歩を占めていることを知らなかったため、なぜアメリカ人がユダヤのことを書くのか不思議に思った。

チャールトン・ヘストン出演の作品はその後も欠かさず見た。”ジュリアス・シーザー”、”アントニーとクレオパトラ”などの史劇が好きで、テレビで観た”エル・シド”は贔屓のソフィア・ローレンが出ていたので特に気に入り10年ほど前シンガポールでCD英語版を購入し所有している。ソフィア・ローレンが好きだからエル・シドを見たのか、”エル・シド”を見て好きになったのかは判然としない。他には”猿の惑星”、”ソイレントグリーン”などのSFや”三銃士”、”四銃士”、古い”黒い絨毯”も見た。”黒い絨毯”のエリノア・パーカーは一目で好きになった。”猿の惑星”は弟が自分より先行して見に行き結末に驚いたと興奮して話すのに返して、その結末を言い当てたことを今も弟に自慢している。当時読んだ原作の”猿の惑星”の結末は映画とは異なり、確か「人間が猿の惑星に漂着するお話」を読んだ感想を「ありえない」と笑い飛ばすその手が毛むくじゃらだったという落ちになっていたように記憶している。

”偉大なる生涯の物語”は昨年DVDを借りて見た。マグダラのマリアのことを知りたくて借りたのだが、チャールトン・ヘストンはヨハネ役を演じていた。このヨハネは英語名John the Baptistといい最後の晩餐にいるイエスの弟子ヨハネとは別人で映画では救世主イエスの出現を預言する。
なぜか代表作”十戒”を見ていない。ユルブリンナー扮するエジプト王が戦車に乗って追いかけてくるや目の前の紅海がまっ二つに割れる有名な場面は何度も見ているがきちんと映画を見たことがない。

ジェームズ・キャメロン監督の”トゥルーライズ”でアーノルド・シュワルツネッガーの上司役を演じていたのが自分としては最後の作品で、その後は全米ライフル協会の会長としてテレビのニュースでお目にかかる程度だった。ネットで調べると、トゥルーライズ以降もいくつかの作品に出ていたようだ。

東方見聞録

2008-04-06 16:38:06 | 西洋史
マルコ・ポーロは実在しなかったとか、中国に行かなかったという説があるらしい。マルコポーロのWikipedia(日本語版)を見て、ネガティブな評価に偏りすぎているように感じた。Wiki本文は概要と評価の2章立てになっていて、概要ではマルコがミリオン(ほら吹きの意味)と呼ばれたことや実在しないプレスター・ジョンを探す旅に出たことなど山師ででもあったかのような記述が中心で、後世に与えた貢献については3行しかない。また、2章目の評価では、中国に行かなかったという説とマルコポーロ自身が実在しなかったという説の二つを取り上げている。第1章・概要が18行で、ネガティブな評価が16行もあり、日本語版Wikiは批判で占められているといっても過言ではない。
日本語版Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD

比較のために英語版Wikiを見たが、マルコポーロの事績の紹介が豊富でマルコが後世に影響を与えた歴史的文化的貢献度についても詳細に述べられている。マルコの業績についての評価は本文125行中10行(8%)で紹介している。章題もControversies(論争)とされていて、評価としながらネガティブなものだけを集めた日本語版とはまったく異なっている。
英語版Wiki http://en.wikipedia.org/wiki/Marco_Polo

日本語版マルコポーロの編集者に悪意を感じるのはひねくれた見方だろうか。
梅原猛が”聖徳太子”の中で、津田左右吉の方法論を激しく批判している影響を受けたばかりだからこのように感じるのかもしれない。津田の方法とは史書の記述に矛盾(史書そのものの中にある矛盾と外国文献との矛盾)があれば出来事そのものが信用できないとするもので、これによって聖徳太子の事績を始め日本書紀や古事記の記事の多くを否定している。マルコポーロ批判説を垣間見るだけで津田左右吉の方法を感じ取ってしまうのである。
Wikiに文句をつけても仕方がないか。

”東方見聞録”青木富太郎訳を読んで得た知識は以下のとおり。
1.暗殺教団アサシンの話は第1章10節にあり、9節コビナンと11節バルフの間なので地理的にもイラン、トルメニスタン、アフガニスタン国境の山岳地帯にあったのだろう。アサシンは英語”assasin”暗殺者、”assassinate”暗殺するの語源である。
2.第1章15節にロブ砂漠、ロブの町と水の話があり、19世紀末から20世紀初頭のスウェーデン探検家スウェン・ヘディンが東方見聞録を手にさまよえる湖を探したことに思いを馳せる。
3.第1章20節ハラホルム今のカラコルムにいたプレスター・ジョンというのは誰だ?マルコはワン・ハンというのがヨーロッパでプレスター・ジョンと呼ばれていると言っている。キリストの誕生に立ち会った東方の三博士の子孫とされるプレスター・ジョンのことはいずれ書くことがあるかもしれない。
4.偶像崇拝教徒は仏教徒のこと。キリスト教徒は当時の中国各地にいた。
5.第1章30節上都、今のモンゴル高原の南にありフビライの夏の都であった。英語でXanaduザナドゥー、理想郷とされ、オリビア・ニュートン・ジョンのミュージカル映画で有名である。フビライは夏の避暑地として竹で作った仮宮殿に3か月ほど滞在した。
6.第2章フビライ・ハーンはタタール人であると書いているのでタタール人はモンゴル人ということになる。カタイ人は中国人で偶像崇拝教徒である。契丹(キタイ)がなまったもので英語Cathayは13世紀ごろの中国を指したもので香港の航空会社Cathayやシンガポールの映画館Cathay Organizationなどで使われている。
7.第3章1節ブリサンギン川にかかる美しい大理石の橋は盧溝橋で、マルコポーロの描写は現在の盧溝橋の姿そのものである。マルコポーロ橋とも呼ばれているらしい。日中戦争のきっかけになった盧溝橋はこれである。

”長さ270m、幅7m以上はあるだろう。24のアーチと橋脚があるが美しい大理石で堅固に作られている。両側に大理石製のてすりと柱があり、その根本に大理石製のライオンがある。柱の頂上にもライオンがおかれ、いずれも立派な彫刻だ。手すりは灰色の大理石だ。”
8.第4章13節マンジの首都キンサイ。マンジは北のカタイに対して中国南部の南宋をいい、キンサイは今の杭州で、マルコは世界でもっとも豪華で美しいという。19世紀の太平天国の乱で街は破壊されたという。
9.第4章16節ザイトン(泉州)は世界最大の二つの商港のひとつである。もう一つの商港はどこだろう。泉州は100年後に鄭和の出航地になる。このときには元は滅び明の時代になっている。
10.第5章2節ジパングでは、黄金の話、元寇が台風で失敗したこと、住民が偶像崇拝者であることなどが述べられている。
11.第5章7節セイロン島のアダムズ・ピークのことは以前このブログに書いた。

新町橋

2008-04-06 00:19:16 | 徳島

この橋、新町橋(新しい町の橋)はこの土地のしゃれた場所なのだ。夏の夜、誰もが橋の上に涼みに来る。ぼくもだ。そして、しょっちゅうこの場所を通る。正面の山もばくはよく知っている。山の中腹に、お前から見て右手に家が見えるね。ぼくはそこをよく通っている。さようなら    アパ 大正13年9月4日 徳島
<モラエスの絵葉書書簡;ヴェンセスラウ・デ・モラエス著、岡村多希子訳。モラエス(子供のころの愛称アパ)が故郷ポルトガルに住む妹フランシスカに宛てた絵葉書書簡で、このころ正面の山”眉山”の麓の伊賀町に住んでいた。モラエスが送った新町橋の絵葉書は土木学会のWeb-siteにも掲載されていたので拝借した。>


この橋、新町橋はこの町に住む子供たちの遊び場なのだ。夏の盆踊りの夜、誰もが橋の上で踊る。ぼくもだ。そしてしょっちゅうこの場所を通る。正面の山もぼくの遊び場だ。山の手前、お前から見て左手にアドバルーンの揚がるビルが見えるね。ぼくのよく行くデパートだ。さようなら    K 昭和35年 徳島
<このころ5歳のぼくは右手の白いビルの眉山寄りに住んでいた。新町橋から眉山の麓までの新町橋通りの真ん中はワシントン椰子の立つ広場で、両側に車道があり、さらに両端がアーケードの歩道になっていた。歩道にはプラタナスが植えられていた。新町橋の左手前の看板は映画上映の宣伝だったと記憶している。この絵葉書はネットサーフィンで以前見つけたものだが出典の記録がない。>


<平成20年今の新町橋。ワシントン椰子が大きくなりビルも林立し、橋がよく見えない。新町橋通りには地下駐車場ができ、まるしんはビルも壊され今はもうない。昭和30年代絵葉書の右手の白いビルはまだ残っているが、これを壊して再開発をする計画があるそうだ。また思い出がひとつなくなるのだろうか。>


桜2008

2008-04-01 22:42:51 | 
帰国して2年、3回目の春である。写真は先週末靖国神社で撮った満開の桜である。
桜の歌と句を添える。
西行: 願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃
山部赤人:あしひきの山桜花 日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも
小野小町:花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に
紀友則:ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
在原業平:世の中に たえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし
松尾芭蕉: さまざまなこと思い出す桜かな

西行の歌は前にも書いたけど辞世の歌ではないそうだ。山部赤人の歌は山桜に恋したのか女に恋したのかわからない自己韜晦、自己隠蔽があるのだそうだ。(梅原猛”赤人の諦観”このブログで既出)芭蕉の句はSimpleだけど味わい深い。他の3首は有名なので載せておく。

日本三大桜というのがあるのだそうだ。
福島三春の滝桜、山梨山高の神代桜、岐阜根尾谷の薄墨桜
いずれも千年以上の樹齢で支えが必要な老桜(ろうおう)だが、見事な姥桜(うばざくら)である。
岡山県真庭市に目通り7m、樹高18mという巨大な一本桜があり、太平記の後醍醐天皇が隠岐に流されるとき(1332年)に立ち寄ったということから醍醐桜と名付けられている。この桜は通説樹齢700年だが独りでしっかり立っている。後醍醐天皇が見た時は樹齢わずか数十年の若木であったはずだ。